《綾人蛍》見られて困ることでも? 「ここ、どこだと思ってるの」
「八重堂の前、ですが」
それが何かと盛大にとぼけた綾人さんは、逃げ回る蛍を捕まえて指を絡めようとする。もうほら、みんな見てるから。なんとか振り切って階段を駆け上がると、追いかけっこも楽しいと言わんばかりにからりと笑って着いてくる。
人前であんまりいちゃいちゃするのはやめようねって約束したじゃない。綾人さんだってわかりましたって頷いてくれたでしょう。
ため息と共に振り返れば、綾人さんは目が合っただけで嬉しいとばかりに破顔する。その瞳にこれでもかと滲む愛に気づかないわけじゃなくて、つい絆されそうになりながらも歩みを進めた。
そんな蛍の機嫌を取ろうと思案していたはずの綾人さんは、近くの屋台からの新商品だいなんて掛け声を聞いて磁石に吸い寄せられたようにそこに近づいていく。本当に仕方のない人ね。呆れながらその後を追いかけると、当たり前のように腰に手が回された。隙あらばすぐ触るんだから。おいたをする手を軽く叩いたところで綾人さんにはちっとも響かないらしく、むしろ体を撫でさすってはぴくりと震える蛍の反応を楽しんでいるようだった。
「ちょっと綾人さん」
「はい、なんでしょう」
白々しい。お尻にまで降りていきそうだった手を捕まえてじいと睨みつければ、全くどんな勘違いをしたのかその綺麗な顔が近づいてくる。違う、どうしてそうなるの。今さっきお説教したばかりだというのに。
「おや……この手は?」
口を覆うように翳した手には、案の定、綾人さんの唇がぶつかった。店の前でなんてことをしようとしてるの。邪魔だと言わんばかりに手の甲がふにふに押されるが、どうか場所を考えてほしい。
ここに綾人さんのことを知らない人なんていないし、そもそも多忙と噂の「あの社奉行様」が姿を現すこと自体珍しいのに。蛍のほうだってそれなりに名が通っている自覚はある。ただでさえ視線を集める二人が、さらに連れ立って歩いているとなれば当然注目の的にもなるものだ。あちこちから視線を浴びて人々の真ん中で堂々といちゃいちゃするなんて、そんなの。
お熱いねぇなんて店主のからかいに調子に乗る綾人さんを厳しめに叱りつければ、寂しがりの子犬みたいにしょげている。
しかし蛍は知っている。本当は子犬なんて可愛いものじゃなくて、虎視眈々とその時を待つ猛獣みたいな人だって。油断すると一瞬でぱっくり食べられてしまうことは身を持って理解していた。
だからこそ、人前でいちゃいちゃするなと口を酸っぱくして言っているのだ。少しでも許せば止まらない。キスが啄むような可愛らしいもので終わるなら良かったのだけれど、綾人さんは人目など気にせず徹底的に蛍を味わい尽くそうとするから。
「綾人さん」
野次馬のざわめきを聞きながら、綾人さんにだけ聞こえるように小さく呼びかける。
「続きは帰ってからしよう、ね?」
手を握り返してそう続ければ、綾人さんの期待を孕んだ目がギラついた。それは一瞬で隠されてしまって誰も気づかなかっただろうが、ほら、やっぱり獣みたい。綾人さんは男はみんなそうですよなんて言っていたけど、本当かなぁ。
大きく強く頷いたその姿に、やっと肩の力を抜く。しかし、これで今日は大人しくしてくれるよね、なんて油断したのが間違いだった。
ふわりと体が持ち上げられ、何事かと理解する前に唇が奪われた。やられたと思ってもすでに足はつかなくて、綾人さんに抱えられてじたばたするだけ。柔らかい唇から逃げられないままにその腕に囲われる。落ちないように綾人さんの首に手を回したのがお気に召したのか、また角度を変えてちゅうと吸われた。物も食べていないのに甘ったるい。触れ合うところから伝わる温度と幸福感に溺れそうになるけれど、人々のどよめきが現実に引き戻してくれる。
早く抜け出さないといけないと身を捩ればより強く抱きしめられて、絡め取られて。うっとりと蕩けた瞳が蛍を捉え、すうと細められていく様子に怯んでしまった。その隙を綾人さんが見逃すはずもなくて、ああ負けたと悟ってすぐ、ぬぷんと舌が割り込んでくる。若い女の人の悲鳴まで聞こえてきた。
抗議したくても口は塞がれて、仕方なく髪を引っ張ったって止まりやしない。もう綾人さんが満足するまで、じゅるじゅると食べられるしかないみたい。
息継ぎの合間に漏れる呼吸さえもったいないみたいにずっとずっと唇を食まれ続けてぽうっとする。混ざりあった唾液が溢れ落ちないように飲み下せば体の芯から熱くなる。そうして頭が真っ白になる頃には見られてるとか恥ずかしいとかそんな気持ちも一緒に薄れて、ついにその舌に絡みたくなってしまった。ぎゅうと抱きしめて、もっと欲しいと強請る。思うつぼだとどこかでわかっていながら、今さら大好きな綾人さんとのキスを手放すなんて。求められて嬉しくないわけじゃない。触れ合いたくないわけじゃない。外じゃだめ、って言うのは、蛍もくっつきたくなって収集がつかないからなのに。
どんどん大きくなっていく人だかりにも気付かず、考えることを放棄して夢中で唇を合わせる。熱い息を吐き出してやっとのことで離れたのは、どこかからすっ飛んできたトーマに怒られてからだった。