パレイドリア 斜陽で紅く染まった一室に、戦艦の駆動音が重々しく鳴り響いていた。
話し合いの結果、次の目的地をミルマーナに定めると、集まった仲間たちは散開していく。次々と部屋を後にする背中を、椅子に逆向きに腰掛けたままのエルクは、背凭れに頬杖を突いて見送った。その視界の端を、鮮やかな赤色が掠める。翻るアークの鉢巻きだ。
インディゴ染めに似た濃紺の、極東の島国の伝統的な衣服に包まれた背中を見るともなしに見遣る。一族の血で大地を濡らし、穢れた炎で故郷を焼いた仇として、追い続けた背中が、手を伸ばせば容易く届く距離にあった。
「視線がうるさい」
抑揚を欠いた、平坦な声が鼓膜を震わせる。
残照を透かす赤銅とも真鍮ともつかない金属めいた煌めきに輪郭を滲ませたブルネットが閃くと、振り返ったアークと視線がかち合った。いつもは春を待つ枯れた冬の森に似た色の双眸が、今は夕焼けを宿して炎の名を冠する蛋白石のように揺れている。かつて、ピュルカの集落に灯され続けた篝火のような燦めきだ。今は失われた故郷の光だ。
何処か懐かしさのようなものを感じながら、エルクは口を開いた。
「……あんたへの感情を、持て余すことがある」
一際、炎に似た燦めきが鋭く光る。アークが薄く、目を細めたからだ。
「それ、本人に直接言うことか?」
完全にエルクに向き直ったアークが、呆れた様子で言った。
「陰でどうこう言うのは性分じゃない」
「ああ。そんな感じだな、君は」
得心がいった様子で顎を引きながら、それでも勇者の声音は未だ何処かエルクを小馬鹿にしているかのような響きを孕んでいる。
一つ舌打ちをすると、アークから目を逸らし、床に視線を落としてエルクは口を開いた。
「……俺はあんたを仇だと思って、憎んで、追い掛けてたんだ」
けれど全ては誤解だった。ただ、故郷を焼いた戦艦を駆っていたのが、スメリア国王殺害の罪で世界的に報奨金をかけられ追われているアーク一味だった。それだけだ。たったそれだけの符号の一致で、彼らを討たねばならない仇だと決め付けた。
悪いのは自分だ。解っている。解っていて尚、燻ぶり続ける熱を持て余す。
「今までそこにあったものを、なくすのは難しい。簡単な話じゃないんだ」
黒光りする金属の床は、窓から差し込んだ夕焼けで朱色に染まっている。色濃く落ちた窓枠の影とのコントラストを視線でなぞり、漂う沈黙を意識から遠ざけた。アークの顔を見ることは出来なかった。
「意外と融通が利かないんだな。単純そうなのに」
ややあって、アークがぽつりとこぼした。上目遣いに、見遣る彼の口角は少し上がっているようだった。
いや、単純だからか。付け加えて、アークはふっと息を吐いた。明確に笑みだと知れる。それも、嘲弄の混じる笑みだ。
「あんたこそ、そういう悪口は本人のいないとこで言えよ」
エルクは先のアークの言葉を踏まえて言った。子供じみた意趣返しだ。だが、それもこの勇者には通用しないらしい。
「陰でどうこう言うのは性分じゃないんだよ。変な誤解を生むし?」
耳馴染みのあるフレーズだ。言葉遊びでも楽しむかのように、アーク意趣返しに意趣返しを返して笑った。
「というか、俺たちが仇疑惑が晴れたなら矛先ずらして“はい、おしまい”じゃ駄目なのか」
未だ溜飲の下がらないエルクを置き去りにして、アークが軌道修正にかかる。
「だから、そういう単純な話じゃない、って言ってるんだろさっきから」
「単純が服着て歩いてるようなもんなのに」
「あんたはもうちょっと包み隠せ」
陰口を言わないにしても限度がある。話が進まない。
エルクは深い溜め息を吐いて、再びアークから視線を外した。
窓の外では、輪郭を金色に滲ませた雲がゆったりとたなびいている。遠く薄っすらと見える陸地では、太陽が沈み込もうとしていた。
「……俺への感情、持て余してるんだったら無関心でいられるよう努めたら良いんじゃないか」
声が落ちる。顔を上げると、アークは適当な椅子を手繰り寄せて、エルクの目の前に座った。見上げていた双眸が、同じ高さに並ぶ。相変わらず、彼の瞳は煌々と炎のように燃えている。
「何だよそれ」
問うと、アークが肩を竦める。
「“愛の反語は憎しみではなく無関心”って、どっかの国のすごい人が言ってたらしい」
「適当過ぎないかその情報」
「まぁまぁ」
まぁまぁ、じゃねぇよ。エルクは胸中で悪態をついた。
「だったらさ、憎しみの反語も無関心になったりするんじゃないかな、って思うんだけど」
どうかな。まるで夕飯のメニューでも提案するかのような気安い響きで、勇者はエルクに問いを投げる。
「どう、って言われても……そりゃ」
目の前に座る少年と言っても差し支えのない年頃の勇者を見つめたまま、言い淀む。
エルクよりほんの少し年嵩の、ほんの少し高い視座を持つ、けれど世界の命運という、途方もない重責を背負わされた、ただの少年の瞳を覗き込む。
「無理だろ」
気が付けば、そう返していた。
アークはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「そう?でもさ、エルクは要は、故郷や友達の仇を討つ為に都合が良いから、共通の敵を持つ俺たちを利用してる、ってだけなんだろ。利害が一致してるだけ」
合理性を説かれ、エルクは鼻白んだ。そうしている間にも、アークは言葉を連ねていく。
「だったら、割り切って、無関心でいることはそんなに難しいことじゃないんじゃないか」
アークの提案は正しい。少なくとも、持て余された感情の落としどころとしては、腑に落ちる。
この先も彼らと行動を共にし、良好とまでは言わなくても共闘を続けていくには、さっさと気持ちの整理をして切り替えなければならない。敵も、世界の滅びも待っていてはくれない。エルクにも、それは解ってはいる。解ってはいても、アークの提案を噛み砕いても、飲み込めない。
「一緒に行動する以上、あんたに無関心でいろ、ってそりゃ無理な話だろ」
そうだ。目の前の少年に、今更無関心でなどいられない。今更、殺したい程の怒りと憎しみを抱いた相手への感情を、無関心に摩り替えることなど出来る筈がなかった。一度抱いた執着を、完全に消し去るなど無理な話だ。これからも行動を共にするなら尚のこと、この執着は大きく、重くなっていく。惹きつけられて、焦がれて止まなくなる。そんな予感がする。
それほどまでに、勇者に担ぎ上げられ、世界に追われる、その実ただのちっぽけな少年は、エルクに大きな衝撃と刺激を与えた。
思案深く伏せられていた暖色の眼が、やがてエルクを正面に捉える。
「じゃあ、もう俺のこと好きになるしかないんじゃないか 」
「いや、何でだよ」
間一髪突っ込んだのは、まるでエルクの心中を見透かしたかのような言葉が返った焦りからだった。だが、アークは意に介した様子もなく、言葉を続ける。恐らく、エルクの邪推するような意図が彼には微塵も存在していないからだ。それはそれで腹が立つな、とエルクは思った。どうして腹が立つのか、理由に答えを出したくはなかった。
「要はさ、愛も憎しみもベクトルの違う強い関心で、その反語が無関心だって言うんだろ。なら、もう俺を憎む気のないエルクが気持ちを消化する為に残された道は、愛一択しかない、ってわけだ」
ご愁傷さま。何処までも他人事めいた酷薄な響きを一つ残して、アークは椅子から立ち上がる。そうしてエルクを見下ろすと、何とも言えない不透明な笑みを浮かべてから、踵を返した。
サバトンに似たスメリアの靴が、金属の床との摩擦で硬質な音を立てる。かける言葉も見当たらないまま、遠ざかって行く背中をエルクは見送った。
目を焼くほどに目映く、赤一色に輝いていた夕辺の部屋は今はその彩度を落として、夜を待つ宵闇が立ち込めている。
「……勘弁してくれ」
ただ一人残されたエルクは、やっとのことで搾り出す。酷く頼りなくか細い声は、誰の耳に届くこともなく茫洋とした空気に溶けて消えた。