ペーパームーン 大半の人が寝静まった時刻、エランは端末を持って自室を出た。照明が絞られた薄暗い廊下を進み、望みの景色が見える窓の前で立ち止まる。端末のディスプレイからある人物の名前をタップして耳に当てると、数秒もしないうちに声が聞こえてきた。
『ぁ、こっ、こん、ばんは』
「こんばんは」
普段とは違う密やかな声に、擽ったくて肩が震えてしまい、どうしてか羞恥心が湧き上がってきた。吐息すら拾う端末の優秀な収音性にかすかな苛立ちを覚えながら、エランは昼間の記憶を思い起こしていた。
――月を見たことがないんです。
スレッタ・マーキュリーが水星からやって来たことはこの学園のほとんどの者が知っている。だが、水星の住環境を詳しく知っている者はあまりいないだろう。かく言うエラン自身も、彼女の言葉を聞くまで、はっきりと意識したことはなかった。
『きれいですね。まるくて、おっきくて……』
夢見るようなうっとりした声にエランは暗闇に浮かぶ満月を見上げる。
約一ヶ月ごとに訪れる珍しくもない景色に感慨深くなる感性は持ち合わせていないが、地球寮で同じものを見ている彼女が感動しているので、良かったと素直に思う。
『こんなにきれいなのにグラフィックだなんて、いまだに信じられません』
「……そうだね」
スレッタの言葉にエランは思わず満月から目を逸らした。
頭上に広がる暗闇も、煌々と輝く満月も、数字と記号の羅列でできた偽りの物。宇宙に進出したくせに、人間は滑稽にも多くのフロントをこぞって地球に似た風景に飾り立てた。
分かりきっているそれを彼女の声で突きつけられる虚しさに、降り注ぐ偽物の月光が急に冷水のように冷たく感じられた。
『でも、月がある夜空は良いですね。私、この空を作った人の気持ちが分かるかもです』
暗く塞ぎ込んだ思考に一瞬、言葉が詰まりかけたが、何事もなかったかのように、どうしてと問いかけた。
『えっと……さびしかったのかなって。月のない夜空は、さびしいですよ』
「さびしい?」
『はい……』
さびしいと称する理由を問いかけようとして、ふと彼女の故郷――水星の情報を思い出す。
――水星に衛星は存在しない。
静かな真っ暗闇に小さな星あかりが浮かんでいる光景は、フロント外部の宇宙空間に無限に広がっている。月のない夜空をさびしいと感じるならば、月のような衛星を持たない水星で暮らしていた彼女は。
「――きみもさびしかったの?」
『え?あ、うぅん……』
元々抑えられていた声が徐々に小さくなり最後にはふつりと黙ってしまったが、エランは根気強く待ち続けた。
『も、もしかしたら、さびし、かったのかもしれません。気が、付かなかっただけで……』
ようやく耳に届いた声は、泣くのを堪える子どものような声だった。
うん、と相槌を打ちながら、脳裏にひとり膝を抱えて夜空を見上げる赤髪の女の子を思い浮かべた。星々の光は遠すぎて、彼女の慰めにはならなかったのだろう。
自身が作り出した光景に、胸が引き絞られるような痛みが湧き上がる。そして、その痛みに押し出されるように言葉が転がり出た。
「また見る?」
『え?』
「満月になったら、こうやって電話をして」
ひと呼吸のあと、わぁ、とも、ひゃあ、ともつかない感嘆の声が上がった。
『うう、うれしいですっ!』
彼女の今夜一番の明るい声に、エランは静かに息を吐く。人が寝静まった時間帯には似つかわしくない明るさだったが、やはりこちらの方が彼女らしくて安心する。
孤独な星で女の子がひとり蹲っていたとしても、その星はあまりに遠く、エランにはどうすることもできない。
『エランさん、もう次の満月が待ち遠しいです』
震えていない、けれど内緒話のように抑えられた囁きに浸りながら、瞼を閉じる。
いつかひとりで月のない夜空を見上げるときが来ても、この夜が慰めになるようにと願った。