長く短い祭り 見慣れた黒くて寂しい宇宙も、強く輝く太陽も、どこか遠くて。ただ、離れないようにしっかりと掴んだ彼の手首と、静かに、けれど柔らかいライムグリーンの瞳だけが全てだった。
「エランさん」
「……スレッタ・マーキュリー」
お互いに名前を呼び合う。
続く言葉はない。
言葉がなくても、私たちの瞳は饒舌だった。
——このままふたり、どこまでも漂っていたい。
交わる視線と、お互いさえいれば、どこまでも行けそうだ。
今まで求めても得られなかった、温かいご飯でもお気に入りのコミックでも埋められなかった心の奥底にある空洞が、熱く優しいもので満たされていく。熱はじわりと広がり、喉、瞼、指先と、身体の隅々まで温めていく。
「……好きです」
ぽろり、と。
「あなたが、好き」
抱えきれなかった熱が、こぼれ落ちた——
◇◇◇
「ふおぉぉお……!!」
——ざわり。
スレッタの感嘆の声に呼応するように会場内の空気がどよめいた。さらに、
「あいつの本」「終わった?」「やばっ」「よりによって…」
などと囁き声があちこちから上がる。
それらを聞き取れはしても何故か内容が理解出来ないエランは訝しげな顔をしつつ、隣のスレッタに目を向けた。
スレッタは灰青の瞳を輝かせながら夢中で手元の本を覗き込んでいる。どうやら、有象無象の騒めきは彼女の耳に届いていないようだ。
本日、学園の貸出しホールでは趣味による集まり——同好会が開催されており、二人は偶然訪れていた。今スレッタが読んでいる本も趣味によって作られた作品で、このご時世、紙の本とはかなり珍しいが、この会場ではあちこちで見かける。紙の本以外にも、アクセサリーや小物、中には用途不明な部品やデータチップまである。趣味といっても千差万別らしい。
その中でも、二人が本を展示しているエリアにやってきたのは、どちらも読書を嗜むから、というよくある理由からだった。
実際、エアリアルのライブラリで読んだコミックのファンアートをいくつか見かけ、二人して「すごいですね!」「そうだね」と言い合っていた。
そうして眺めていくうちに、この趣味による本にはオリジナルストーリーのものと、実際に存在するストーリーを元に作られたものがあることに二人は気がついた。
そこまでは良かった。
問題はとあるスペースに二人が立ち寄ったことだった。
簡易テーブルの上には周囲と同じく、紙の本が並べられている。しかし、一目で中身がわかるような外装ではなかった。よく見かける、コミックのイラストではなく、けれどデザインを凝らされたそれにスレッタは惹きつけられた。
「あの、少し読んでもいいですか?」
「ッハ、ハヒィ!!」
「……?」
作者らしき男子生徒の上擦った返事に首を傾げるも、是と受け取ったスレッタはテーブルの上の本を手に取る。
もちろん、エランもスレッタの横から本の中身を見る。今まで、こうして二人でひとつの本を試し読みしていたので、今回も自然とそうしたまでだ。
だが、エランが本を覗き込むと、男子生徒は目に見えて震え出した。
エランはそれを視界に入れることなく、内容に目を向け、数秒——
——なんて奇特な奴。
エランの感想は率直に言ってその一言に尽きた。スレッタとの関係に直接関与してこないならば、特に言うべき言葉はない。実際、作者らしき男子生徒にエランは声をかけられた記憶はないので、そんなものだった。
反面、スレッタはと言うと。
「すごい……!これ、本当にあなたが作ったんですか?」
「いや、あ、はい。そう、ですね、はは……」
すごい、すごいと繰り返す声はいつもよりワントーン高く、ほんのり色付いた頬は会場の熱気の所為だけではないだろうことが窺えた。
だが、賞賛を受けているはずの男子生徒は、先ほどから視線を下に向けたまま、しどろもどろな受け答えをしている。
それが、エランの目には奇妙に映った。
何か後ろめたいことでもあるのかと、エランが問い詰めようとしたその時。
「この本、一つ下さい!」
「「え」」
「え?」
スレッタからの思いもよらない言葉に、エランと男子生徒の声が重なる。
彼女から発せられた言葉はこの会場内でよく聞いていた言葉だ。おかしなところはない。
しかし、エランはいや、おかしい、ちょっと待ってくれと、言いたくなった。形容しがたい感情が彼の内でぐるぐると渦巻いて、常に冷静な頭脳はこの事態に混乱状態だった。
「あ、もっもしかして、私が買ったらダメですか?」
謎の感情に気を取られているうちにスレッタは男子生徒と交渉を始めてしまった。
即座に、断れ、とエランは男子生徒を鋭く睨むが、そう都合良く思いが届くはずもなく、男子生徒は「ソ、ソンナコト、ナイ、デス」と返していた。
仕方なく、エランはスレッタを説得するべく、はしゃいだ様子の彼女に向き合った。
「どうしてその本がほしいの?」
正体不明の感情で威圧的にならないよう、細心の注意を払ってゆっくりと言葉を紡ぐ。
「その、私とエランさんが出てて…それに!私もエランさんも、とっても素敵に書いてくださってるんです!」
夢見るようなうっとりとした灰青で「どうしても、この子をお迎えしたいんです…!」とお願いされたエランは「いいんじゃないか?」と思い始めていた。
あまりにチョロすぎるが、本来のエランは他人の行動に口を出す質ではない。それがスレッタなら尚更。
けれど、胸にかかる靄のような、簡潔に言ってしまえば不快に分類される感情に振り回され、スレッタの行動を阻止しなければと思い込んでしまっている。
「どうしても?」
「はいっ!どうしても、です!」
「…………僕がいるのに」
「えっ?」
「僕がいるのに、本の中の僕の方がいい…?」
「は、はわ……」
口に出してしまえば案外わかりやすいもので、エランはつまり嫉妬しているのだ。
本の中の自分は彼女の目の前に立つ自分と比べてさぞ素敵な姿なのだろうと、夢中になって本を読む彼女の姿を見て、嫉妬していた。
それに気がついたエランはようやく冷静さを取り戻すも、言ってしまった言葉は元には戻らない。せめてこれ以上失言しないようにと決まりが悪そうに口を噤むしかなかった。
そんなエランの珍しい姿に、ポカンと見つめていたスレッタは、緩みそうになる口元をギュッと引き締め、「エランさん」と呼びかける。
「この本が欲しかったのは、私が物語の主役になるなんて、そんなことあるとは思ってなくて。だから、記念に欲しいなって…」
それに、とスレッタは続ける。灰青の瞳がいっそう輝いた。
「私が素敵だなって、かっこいいなって思う男の人は、目の前にいるエランさんだけですから!」
「…………スレッタ・マーキュリー」
力強いスレッタの言葉にコロッと宥められたエランは、硬く引き結んでいた口元を緩め、柔らかな視線を彼女に向けた。エランの雰囲気が変わったことに気がついたスレッタも、口元を緩め見つめ合う。
二人がしっかりと視線を交わし合っているなか、固唾を呑んで見守っていた周囲の有象無象たちは——
「やはり公式が最大手」「まさかの供給?」「そうはならんやろ」「なっとるやろがい」などと好き勝手に言い合っていた。
そんな二人の陰で、ある意味いちばんの被害者かもしれない作者である男子生徒は、大事に至らなかったことに安堵のため息をつきつつも、目の前で繰り広げられる思いもよらない出来事に、内心で「薄い本が厚くなるぜ!」と、次の同好会への創作意欲をたぎらせていることは、エランとスレッタは知る由もなかった。