『水彩絵の具』 バサっと音を立てて眼前に広がったのは、眩いほどの青い空と青い海。
真新しい白い壁の前、両手に持ったその青はそれはもうよく映える。
「茨ぁ〜、こっちの箱は片せましたよ〜」
のんびりと穏やかな声がして茨が目を向けると、隣の部屋へと続く扉からひょこっと飛び出したのは、またしても青だ。
「あれ、どうしたんです?なんか見つけました……アッ?!」
「ちょっと、いきなり大きい声出すな、ってオイ!」
そうして飛び込んできたジュンは、茨が手にしていたそれを勢いよく取り上げたかと思うと、サッと後ろ手に持ちなおした。不審な目を向ける茨に、ジュンはそのまま顔も背けていく。
「……なんで隠すんです?」
「それは……だって、その、」
何か不都合なのか、あうあうと言い淀む姿に痺れを切らした茨がひと睨みすると、ジュンは観念したように口を開いた。青い横髪のかかった頬がじわりと赤く染まる。
「下手くそ、だし……」
「え?それ、ジュンが描いたんですか?」
「エッ」
そこで、ジュンは自身が墓穴を掘ったことにようやく気付いたようだった。ヘナヘナと座り込むと、手にしていたそれもぱさりと床に滑り落ち、今度は茨の足元へと青が広がる。
茨はそれを拾い上げ、今度こそじっくりと眺めると、そのままくるりと裏返した。
「あぁ、確かに。ふふ、随分と豪快な字ですねぇ」
ところどころ青が透けるそこには、鉛筆で『5年1組 漣ジュン』と書かれていた。
ざらざらとした画用紙が書きづらかったのか、それとも当時は端からこうだったのか。少し形が崩れたそれは、今書き慣れているであろうものとは大違いの、不恰好なジュンのサインだった。
「い、茨ぁ、あんまりまじまじと見ないでくださいよぉ」
「どうしてです?この歳ぐらいの字なんて、みんなこんなものでしょう」
「それはそうですけど……」
「それに、空も、海も。自分は下手だとは思いませんでしたよ」
「へ?」
たしかに、凪砂が気まぐれに見せてくる、誰だか知らない画家が描いた風景画なんかとは、きっと比べ物にならないのかもしれない。
しかし、箱から何だと取り出して広げたそれを、茨は一目見て、綺麗な青だと思ったのだ。
それこそ、ジュンによく似合いそうな、柔らかでいて、どこか溌剌とした青だと。
茨はその場に腰を下ろすと、改めて両手に持つ画用紙をじっくり眺めはじめた。
ふと左に気配を感じてそちらを見やると、座り込んでいたはずのジュンがすぐ側まで寄ってきていた。
肩と肩が触れるほどに茨へと近付いたジュンは、するりと手を伸ばしたかと思うと、茨の手を覆うようにしてそっと海に触れ、そのまま茨の肩に頭を預けた。
「……図工の授業で、今まで見た中で一番好きな景色を描けって言われて」
「はい」
「それでオレ、思い浮かぶ景色なんて、それこそ灰色でしか描けないようなものしかなくて」
「……はい」
ぽつぽつとゆるやかに話を始めたジュンに、茨もひそやかに相槌をうつ。
ちょうどふたりを包み込むように、昼下がりの暖かな陽が、まだカーテンの掛かっていない大きな窓から柔らかく差し込み、絵の具で描かれた空も海も、光を反射してより一層きらきらと眩しく輝く。
穏やかな空気が流れる中、ジュンは続ける。
「ただ、昔……佐賀美陣がさ、海辺のステージでライブしてた映像を見たことがあって、それが画面越しにすげぇ眩しかったのを思い出して」
「……うん」
「その時に、オレも、いやオレの方が真っ青な空と海を背景に、輝いてやるって思ったんです」
「それで、この景色を……?」
「はい。だから……実際に見た景色じゃなくて、これは子供の頃のオレが、いつか立ちたいって考えた夢の中の景色」
ジュンはそう言うと、ざらざらとした画用紙を優しく撫でた。
茨よりも少しだけ大きなその手の下、画面いっぱいに描かれた青い青い景色。
この青は、まさしくジュンのためのステージなのだった。
今考えると課題には思いっきり反してますねぇ。
そう言って、ジュンはフハッと噴き出して笑う。そんなジュンを横目で見て、また画用紙へと視線を戻すと、今度は茨がかつてのジュンが描いた海をさらと撫でた。
「茨?」
「……ジュン、海、行きますか」
「えっ?」
「よし、行きましょう」
「え、いやちょっ、ウワッ!」
そう言っていきなり立ち上がった茨に、寄りかかっていたジュンはバランスを崩し、間抜けな格好のまま茨を見上げる。
「ほら、早く立ってください」
「い、いやでも茨!片付けも終わってないし」
「そんなの、帰ったらまた二人でやればいいでしょう?明日もオフですし、なんとかなりますよ」
「ほ、本当に行くんですか」
「えぇ、今すぐ。ほら立って」
ぐいと茨は画用紙を持っていない方の手で、ジュンの手を取り思い切り引き上げると、その手を握ったまま玄関へと足を向ける。
その途中で、画用紙はくるりと巻いて元の状態に戻し、そっと段ボール箱へと戻された。
玄関へと辿り着くと、茨は靴箱の上に置かれたキャップを、されるがままで引きずられてきたジュンの頭にぽすと乗せ、その青を一度隠した。自身もバケットハットを被ると、器用に足だけで靴を履き、ドアノブに手を掛ける。
「さ、行きますよジュン」
「ちょ、待ってくださいって!オレ靴履けてないから!」
「はぁ……鈍臭いですねぇ」
「いや茨が無理やり引っ張っるから!」
「なんなんですか、行きたくない?」
「い、いやそう言うわけじゃねぇけど……!ホント、どうしたんすか茨ぁ」
そう言いながらもワタワタと座って靴を履くジュンを見つめ、茨は自分でもらしくないことをしている自覚はあるのだ、とひとり思考を巡らす。
それでも、先ほど茨の肩に頭を預け、切り取られた空と海を眺めるジュンを見て、その琥珀色の瞳いっぱいに、どこまでも広がる青を映し出す姿が見たいと、そう思ったのだ。
都合の良いことに、最高の引っ越し日和だね!と今朝うえの二人から連絡があったように、今日は一日晴天。四月のはじめに海に行く人なんてほとんど居ないだろうから、昼過ぎとはいえ、きっと空も海も、茨とジュンのふたりじめだろう。
「よ、よし。履けましたよ茨……て、どうしたんですか?今度は黙っちゃって」
「……いえ、なんでもありません」
「そうですか?よし、じゃあどうせ行くなら楽しみますよぉ〜!茨とふたりで海なんて、付き合ってからも行ったことねぇですし」
「まぁ、外に出かけること自体少ないですからね」
「オレはお家デートも好きですけどねぇ」
「……エロいことできるから?」
「ち、違います!それに、今日から家はデートって訳にいかないでしょ!」
「それは確かにそうですね」
「でしょ、じゃあほら」
そうしてジュンは立ち上がると、ドアノブを握る茨の手を取り、自らガチャと音を立てて扉を開けた。
外からの光が玄関に差し込み、振り返って茨を見やるジュンの瞳が微かにきらと輝く。
「行くんでしょ、海!」
そうして玄関を飛び出したジュンに、今度は茨が引っ張られる。
手を引かれ、長い廊下をずんずんと楽しげに歩いていくジュンの後ろ姿を見て、茨はふと笑みをこぼした。
あぁ、早く見たい。今は帽子に隠れた青が、風に揺れて波に混じるところを。前を見据える琥珀が、輝く空と海を映し、眩いほどの光に包まれるところを。
「ねぇ、ジュン。絵の具と画用紙、買って行きましょうか」
「え?」
「俺も、一番好きな景色、描きたいなって」
2023.05.06
ジュン茨ワンドロワンライ
お題:『水彩絵の具』