『添い寝』 今日は一日中ずっとひどい雨だった。
今朝は窓を叩く雨音で目を覚ましたほどで、日が昇る時間になっても空は雲に覆われて薄暗くてじめじめしていて。なんだか街行く人たちの顔もどこかどんよりとしている気がして、翠はいつも以上に気分が晴れないまま学校へと歩いた。
それでも、どうせ夢ノ咲に着いたらと考えていた翠だったが、教室に入りぽつぽつと空席のあるのを確認したところでその希望は消え去ってしまう。こんな天気だというのに、あいにくみんな仕事で出払っているようだった。そういえば朝、星奏館も人気がなかったっけ。
放課後には翠も仕事があるのだが、流星隊ではなくソロで雑誌の撮影があるだけなので、自由で騒がしいあの先輩たちに会う予定もない。
そんなわけで、翠はどうにも退屈で鬱々とした一日を過ごしたのである。まぁ、常日頃から明るく爽やかに日々を過ごしているわけではないのだが。
その夜のこと。仕事を終えた翠は、湿気もあってか狭苦しい社用車に乗る気になれなくて、雨の中を歩いて星奏館に帰ることにしたのだが、それがどうも良くなかったらしい。
ベッドに入ったはいいが、身体が怠くてうまく眠れない。風邪というほどではなくて、ほとんど気からくるものだとは思う。なんだか滅入っている、みたいな。
偶然にも、同室の光とつむぎはそれぞれ数日前からロケに出ていて、翠がううと唸っても迷惑をかけることはないのが救いだった。もう一人の先輩は、いつ部屋に居るのか分からないほど忙しい人なので、今日も多分まだ帰らない。
翠は安心すると同時に心細くも感じてしまって、一層眠りが遠のくのを感じた。雨は未だ部屋の窓を叩いていて、ザァザァと騒がしければ騒がしいほど、ひとりきりの部屋の空気が重くなる。
そんな時、ガチャリと鍵の開く音がして、薄暗い部屋に僅かに廊下の光が差し込んだ。
「……ただいま、戻りました」
極々小さな声で告げられた帰宅を告げる声に、翠が光の方へ目を向けると、同時にパタンと扉が閉められる。また部屋が薄暗くなり、ぼんやりとしか見えなくなったものの、その多忙な先輩、七種茨だと声で分かった。
もぞもぞと身体を起こした翠は、音を立てることなく部屋に入ってくる茨に、思わず声をかける。
「さ、七種先輩……」
「……高峯氏?起こしてしまいましたか?」
「いえ、その、おかえりなさい……」
「ただいま戻りました。どうやら睡眠の邪魔をしてしまったようで。申し訳ありません」
「あ、いや……」
普段のハキハキとした声とは違う、顰められた声。しかし、今年度に入って同室となり、いくらか聞き慣れたその低めの声が、喧しい雨の中なんとなく耳に心地よくて、翠はどこか安心感を覚えた。
反対に、起き上がったままの翠に対し茨は不審そうに首を傾げる。
「……その、煩いでしょうか?極力音は立てないように努めているのですが」
「あ、いえ、そういうわけではなくて」
「……何か、気にかかることでも?」
「その、えっと、なんだか眠れなくて……」
「もしや、こんな時間まで起きていたんです?」
翠は、先輩の方こそこんな時間まで働いていたのではと思ったものの、こちらを見やるその顔が、思いの外心配の色をしていることに驚いて口を噤む。
そのまま何も言えないでいると、茨はデスクに荷物を置いて、何処かへと行ってしまった。
またしても一人きりだ。翠は横になることもせず、ベッドに座り込んだまま布団に顔を埋める。
そうして小さく唸っていると、ふと優しく甘い匂いが鼻を掠めて、翠は思わず顔をあげた。
「……よければ、飲みませんか」
目の前に差し出されていたのは白いマグカップ。寮で共用のキッチンに置いてあるものだ。中からは、ふわりと優しく揺れる湯気と甘い香りが立ち昇っている。
「あの……」
「ホットミルクです。牛乳は苦手でしたか?」
「いや、そういうわけじゃ」
「でしたら、どうぞ。飲んでみてください」
「あ、ありがとうございます」
受け取ったカップはほんのりと暖かくて、指先から全身へとゆるやかに熱が広がるのが分かった。
ふぅと息を吹きかけて、カップの淵に口をつける。
「お、おいしい……。普通の牛乳より甘い……?」
あたたかくて甘くて美味しくて。翠は火傷に気をつけながらもどんどんと飲み進めていく。
夢中で飲んでいると、雨音に混じって小さく茨の声が聞こえた気がした。
「……甘いと、なんか落ち着けるんです」
「え?」
「あぁ、いえ……なんでも」
見上げた時にはもう顔を背けてしまっていて、その特徴的なワインレッドの髪で隠れて表情は読めなかった。
まぁいいかと、翠はそのまますべて飲み切ると、ベッドサイドにマグカップを置いた。
「美味しかったです。ありがとうございます」
「どうでしょう、眠れそうですか?」
「はい。さっきより、随分落ち着いた感じがします」
「それは良かった」
普段からは想像がつかない優しい雰囲気を纏う茨に驚きつつも、暖まったおかげか、翠はとろりと意識が微睡むのを感じた。
「横になれますか?」
「……ん、はい……」
茨に言われるがまま横になった翠は、かけ布団をぐいと首元まで覚束ない手つきでひっぱりあげると、そのまま瞼を閉じる。
ひとつ深呼吸すると、まだ微かにミルクの甘い香りがした。
「あとは、いつも……」
また小さく声が聞こえた気がしたが、うまく思考が紡げない。
先程までのうるさかった雨音はもう聞こえなくなっていて、薄れゆく意識の中、最後に聞こえたのは、とん、とん、と規則正しく布団が優しく弾む音だった。
翌る日。目を覚ますと部屋には誰も居なくなっていた。ベッドサイドに置いたはずのマグカップもなくなっていて、もしや夢かと思ってしまう。
その判断もつかないまま、翠はまだ目覚めかけの頭でさっと身支度を整えると、ひとり部屋を出た。廊下の大きな窓からは日差しが差し込み、天気も回復したことを知る。今日は随分と快晴のようだ。
歩いていると、少しずつ頭が覚醒してきて、共有ルームに着く頃には完全に目も覚めていた。
休日でオフの人も多いのか、星奏館はどこを歩いていても誰かの声が聞こえて騒がしく、昨日とは大違いである。
心細さなんて全く感じず、すっかり気分も良くなってどこか晴れやかなほど。
そうなると少し静かな場所に行きたいなと思ってしまう翠である。我儘かと自分でも思ってしまったが仕方ない。安心したが故、ということだ。
どこにしようかと考え、向かったのはシアタールーム。多忙なアイドルたちばかりのためか、普段はあんまり使われておらず、サークルの活動時ぐらいしか翠も使用しない。今日はアーカイブスの活動予定もなければ他で使用予約もされてなさそうだし、のんびりと過ごすにはうってつけな気がした。
そうして部屋の前に辿り着いた翠が重たい扉をそうっと開けると、予想に反して、シアタールームにはひとり先客がいた。スクリーンの前、いくつかある椅子のうち、入り口に背を向けて置かれた二人掛けのソファの背もたれから、ツンツンともふわふわとも言い難い青い髪が見えている。それになんだか甘い香り。
「漣先輩……?」
ジュンならお互い静かに本を読むだけだろうし、部屋にいても許してくれるかも、と翠はひとまず挨拶をしにそっと近くまで歩み寄る。
「……!」
ひとりと思ったが大間違い。先客はふたりであった。
ジュンと、その肩に寄りかかりさらりと揺れるワインレッド。特徴的なこの髪、昨日も見た気がするそれは七種先輩のものだ。
二人は一つの毛布に包まり寝息を立てていて、翠は咄嗟に口を手で塞いだのだが、少しばかり遅く、驚きの声が漏れていたらしい。
僅かに瞬きをしたかと思うと、ジュンがゆるりと目を覚ました。
「あ、れ……?高峯くん?」
「え、えっと、起こしてしまってすみません」
図らずも昨夜とは真反対の状況になってしまった。あれが夢でなければの話だが。
ジュンはうすらと目を細めて翠を見やると、状況を把握したのか少しばかりバツの悪そうな顔をして口を開く。
「あ〜……いや、オレらの方こそすみません。ここ使います?」
「い、いえ。なんとなく来ただけで……」
「そうなんですか?」
「はい、なのでえっと、お気になさらず……?」
「ありがとうございます。なんか茨、昨日は夜更かししたらしいから寝かしてやりたくて」
そうして、ジュンは助かりますと翠に微笑むと茨へと視線をやる。知ってか知らずか、その視線があんまりにも甘く優しいものだから、翠は驚くとともに無性に気恥ずかしくなってしまい、次の言葉がどうにも出ない。
それに、多少声のトーンは落としているが、こうして話していても茨はすうと穏やかな寝息を立てたまま。安心しきった表情で誰かに寄りかかり眠る茨なんて、恐らくレアなんてものじゃないだろう。
なぜだかこれ以上見てはいけない気がしてきて、翠は部屋を出ようと思うがなんと言って出たものか。
視線を彷徨わせると、サイドテーブルに白いマグカップが二つ。中身はほとんど入ってなくて、これ幸いと翠はそれを取り上げた。
「俺、これ片付けてきます……!」
いきなりの翠の行動に、いいですよそんな!と言うジュンは完全に無視をして。
そうして両手に一つずつ持ったカップはまだほのかに暖かく、僅かに残っていたそれからは、まさに昨夜、茨が入れてくれたものと同じ甘い香りがした。
「こ、これ……」
「え?」
「あ、えっと、これホットミルクだって、思って」
やはり昨日のあれは、夢ではなかったのだ。夜中にわざわざホットミルクを作ってくれたのも、自分が寝入るまで見守ってくれたのも、多分。あの七種先輩が、と翠は驚きを隠せない。
そんな翠の心情など知らないジュンはにへらと笑って話を続ける。
「そうなんすよ。さっき茨が眠そうだったんで淹れたんです」
「えっ」
またしても翠は驚くこととなる。確かに昨日、茨が作ってくれたものと同じ香りがするというのに。
「さ、漣先輩が……?」
「はい。オレ特製ホットミルクは隠し味が色々入ってるんですよぉ〜。甘いのってなんか落ち着きません?あんまり人前で作ったことないんすけど……よければ今度、高峯くんにも淹れますね」
どうせならアーカイブスの集まりの時にでも、あ、そういえば高峯くんに読んでほしいオススメの漫画があって〜と楽しそうにひとり話し出すジュン。
しかし、翠はそれどころじゃなく、件のミルクを飲んだわけでもないのに、なんだか胸やけしそうな気持ちだった。
「お、俺……失礼します!」
マグカップはその場に置いて、翠はそのまま扉へと向かう。
他校で事務所も違う俺なんかに、良くしてくれる先輩たち。その優しさを通して、彼らのそれはそれはいじらしい関係に気づいてしまった。
翠は、次からどんな顔して部屋に帰れば、サークルに出ればと思いながらシアタールームを出る。
その重い扉が閉まる直前、なんか用事でも思い出したんすかねぇと言う呑気な声と、とん、とん、と規則正しく毛布の弾む優しい音が、翠の耳に聞こえたのだった。
2023.04.15
ジュン茨ワンドロワンライ
お題:添い寝