雑土が「好きな人を言わないと出られない部屋」に入った話 土井半助は今、人生で二度目の片恋をしていた。
まずい相手に。
まさしく、何もかもがまずい相手だった。
忍術学園といつ対立してもおかしくないタソガレドキ忍軍の、よりにもよって組頭。忍者としての実力は確かで、頭が切れて目端も効く。油断のならない人物。
これだけ難のある相手に惚れてしまったと気付いた時、土井は自分自身に呆れた。
よくよく物好きだと。
しかし、惚れてしまったからには仕方がない。
土井は、心に蓋をした。気持ちを伝えるなど、最初から選択肢にさえ入らない。
距離を取らなければならない。鋭い雑渡に、察知されないように。
隠し事には慣れている。
土井が想わない方が良い相手を想ってしまうのは、二度目だった。
相手は今、常に側にいる同僚で、恩人である山田伝蔵だ。
山田が土井の想いに気付いているかは、正直なところわからない。もちろん隠してはいるが、共にいる時間が長すぎるし、山田は土井よりも実力で勝る忍者だ。
優しく見守る保護者のような目線は、出会った時から変わらない。だから、もし知られていたとしても、知らないふりをしてくれているのだろう。
山田に比べれば、今回は気が楽ではある。種類はどうあれ、雑渡は土井への好意を持たない。
好意を自覚する反面、土井は教師として雑渡を警戒していた。生徒たちに害が及べば警戒では済まさないが、幸いにも今の所、彼は忍たま達に好意的だ。
タソガレドキと忍術学園は、妙に馴染みの関係になってしまっている。敵対するよりはマシではあるが、油断する訳にはいかない。
その位の距離感はまた、土井にとっては都合がいい。
雑渡への隠し事に、後ろめたさはない。むしろ、雑渡には気付かれない方がいい。この想いは明確に土井の弱みであり、どう利用されるか、わかったものではないのだ。
現状に特に不満はなかった。
片恋の苦しみなど、たいした事はない。山田の時のように、想いが募る事もない。そのうち、忘れられるはずだ。
と、思っていた。
「土井殿?」
「雑渡さん……?」
知らない場所で、目の前に雑渡だけがいる。このおかしな事態に陥るまでは。
それは本当に久しぶりに、予定のない休日だった。補習もなく、授業準備も終わり、きり丸のアルバイトに付き合わされる予定もない。
久々にのんびりしようと、教員長屋で書物を読み始めたら、止まらなくなってしまった。
図書室から借りてきたもの、手元にあるが積んでいたものを、片っ端から読んでいく。
山田は出掛ける支度をしながら、熱中する土井と書物で散らかっている床を見て、
「読み終わったら、片付けておきなさいよ」
と呆れた顔で言ってから、外出した。
何冊目かを読み終わって本を閉じた時、土井はその言葉を思い出して、周りを見回した。土井は座って読書をしているだけなのに、あちらこちらに書物が散らかっている。どうしてこんなに散らかったのか、不思議だな、と土井は首を傾げる。
山田先生が戻るまでに少しは片付けようと思い、最後に読んだ書物を持ったまま立ち上がった。
そこまでは、確かに自室にいた。
立って、目を上げてすぐに、景色が違う事に気付いた。いつもの見慣れた景色はなく、足元に散らかったはずの書物も消えて、手には何も持っていない。
そして目の前には、雑渡が立っていた。
「え……?」
土井と、雑渡の口から、呟きが漏れる。雑渡は片方だけ見える目を大きくしていて、土井も同じだ。
「土井殿?」
「雑渡さん……? ええと……ここは……?」
「さて……?」
土井はもちろん驚いたが、雑渡も同じように驚いているようだ。珍しく反応が鈍い。彼がこの事態の原因という線は薄いようだ。
周りを見回すが、ここが室内である事しかわからなかった。
板張りの床は窓のない壁に覆われ、ひとつだけある戸は固く閉じられている。室内にはほぼ何もない。音も気配も、土井と雑渡のものしかない。
もちろん、こんな場所に心当たりはない。
「私は忍術学園にいたはずなのですが」
「私も自室に……タソガレドキにいたはずです」
顔を見合わせた二人は、覚えている限りの直前の行動を話す。しかし話し合っても、何も分からない。
雑渡も身支度をして顔を上げたらここにいた、と言う。土井と似たようなものだ。
周囲に気配はないので、突然襲撃される可能性は低い。二人は室内を見回した。
ぱっと目に入るのは、ひとつだけある戸と、反対側の壁に吊るしてある、大きな掛け軸だ。
土井の背丈ほどもある大きな掛け軸の真ん中には、これまた大きな文字がある。荒い筆跡だが、読むには充分だ。そしてそれは、土井の知っている誰のものでもない。
「この文字に見覚えは?」
「ありませんね。雑渡さんは?」
「ないですな」
二人は横並びで掛け軸を見ながら、嫌な顔をした。
問題は筆跡よりも、内容だった。土井は改めて掛け軸を見て、心の中で文字を読む。
『懸想する相手の名を言わねば出られない部屋』
何だそれは。
読めるし、言葉の意味も文の意味もわかるが、させようとする行為の意味がわからない。
「これは……文字通りの意味なのですかね?」
「さて」
土井も雑渡も、さすがに判断がつかない。試してみるのが早いのだろうが、試したくない。
それは雑渡も同じようだった。
「土井殿、言ってみて下さい」
「嫌です」
「試す価値はあるでしょう」
「でしたら、雑渡さんがお先にどうぞ」
「私も嫌です」
「…………」
「…………」
互いに引く気はない。無言の不毛な押し付け合いは、すぐに終わった。
「まずは、他に出る方がないかを試してみるとしましょう」
「賛成です」
雑渡の提案に、土井は素直に頷く。
二人は、狭い室内を徹底的に調べた。広さは、教員長屋の一室と同じくらいだ。戸はあるのだが、押しても引いても叩いても蹴り付けても、びくともしない。破壊もできない。雑渡が苦無を刺すと、苦無の刃が欠けた。
火薬でなら吹き飛ばせるかもしれない。と思ったが、さすがに持っていない。そもそも、こんなに狭い場所で爆発など起こしたら、二人とも無事では済まない。
壁も、床も、天井も。見た目は普通に見えるのに、何をしても壊れない。削る事さえできない。攻撃というものが一切効かなかった。
「これは、無理なようですな」
「ええ、そのようですね……」
となると、いう言葉を飲み込みつつも、二人の視線は自然と掛け軸へ向く。
どういう理屈かはまったく分からない。中にも外にも、何の気配もない。掛け軸の裏にも、それ自体にも、何もなかった。
「何なんだ、この場所は……」
土井は頭が混乱してきた。これほど理不尽な現象は、さすがに初めてだ。
残るは、掛け軸の言葉に従うくらいしか思いつかない。
であるのに、二人の動きは鈍かった。
土井がなるべくそこに触れなかったのは、単純に言いたくなかったからだ。
こんな形で、隠していた想いを打ち明けたくはない。
振られる事は怖くない。元より、望みがないのはわかっている。
怖いのは、雑渡に想いを、引いては土井を利用される事だった。土井にとって雑渡は、必要とあれば何かを躊躇う男ではない。
中立状態の忍術学園の内部に、自分に惚れた男がいる。それを雑渡に知られたくない。
といって、まだ想いの残る山田伝蔵の名を出すのも嫌だった。弱みには違いない上に、山田を巻き込む事になる。
雑渡が言おうとしないのも、似たような理由だろう。土井に知られるという事は、忍術学園に知られるのと同じだからだ。
気心の知れた相手ならば、笑い話で済むかもしれない。だが、雑渡と土井の間では無理だ。
そもそも、と土井は思う。
雑渡に懸想する相手などいるのだろうか。妻帯していないのは知っているが、恋仲の相手がいるとは聞いていない。いたとしても、隠しているだけかもしれないが。
あまりにも雑渡について知らないものだから、
「私にそうした相手はいないので」
「あ、そうなんですか?」
自然に言った雑渡の言葉を、素直に信じそうになった。
しばらく雑渡は沈黙し、その間、どこからも物音一つしなかった。
「……なるほど。いない、という答えは受け付けてもらえないようだ」
「嘘だった訳ですか……」
つまりは、雑渡にも想う相手がいるのだ。できれば、知りたくなかった。
胸の痛みを顔に出さないよう、何とか堪える。
困った事になった。
自分が言えないのはもちろん、雑渡の答えも聞きたくない。
雑渡の想い人の名前など、知りたくはない。知らない名前ならば、誰なのか気になって、放ってはおけないだろう。知っている名前が出たら、今度こそ平静でいられる自信がない。
見た目を冷静に装う事ならできるが、相手は雑渡だ。少しの動揺でも見せたら、すぐに察知されるだろう。
だからこそ、普段は不必要な位に距離を取っていたというのに。
「土井殿。先に頼めますか」
「だから、どうして私が先なんですか!」
しれっと先を譲ろうとする雑渡に、土井は声を上げる。
「こういう話は、お若い人の方がいいかと」
「年齢は関係ありませんよね! この場合は!」
もしも万が一、本当に言わなければ出られないのだとしても、先に言うのは嫌だった。気まずいにも程がある。
しかし雑渡も同じく、先を譲りたい様子である。
これは話し合いでは決まらない。しかし、この密室で二人きりの相手と、険悪な空気になる訳にもいかない。
知られたくない。その気持ちは強い。
だが、いくら何でも、命を掛ける気はない。
他に手がない以上、試すしかないの、は土井も雑渡も理解していた。
「では、くじで決めましょう」
沈黙の末、提案したのは雑渡だった。
「……私がくじを作っても良いのなら」
他に案を思いつかなかった土井がそう返すと、雑渡は承諾した。
土井はまず、雑渡から少し離れて、彼に背を向けた。手持ちの布を端から細く裂く。それをもう一度繰り返し、片方にだけ結び目を作る。
それから拳で結び目を隠して、雑渡を振り返る。雑渡は、先ほどの場所から動いていない。
「片方に結び目があります。結び目を引いた方が先に言う、という事でどうでしょう」
「いいでしょう」
土井が布を握った拳を雑渡へ差し出す。
雑渡は片方の布を引き、それは抵抗なく土井の手から出て行った。
土井の掌の中には、結び目のある布が残る。
当たりだ。つまり、ハズレだ。
「うぅ……」
「よろしくお願いしまね、土井殿」
「わかってますよ……」
胃を押さえつつ、どうにか答える。決まったからには、やるしかない。
覚悟を決めて、戸の前に立つ。
「あの、雑渡さん」
「何か」
「できるだけ、離れて頂けますか」
「もちろん」
雑渡は素直に土井から距離を取った。
離れるといっても、狭い中では限度がある。それでも、できる限り離れてくれたのだから、良しとするしかない。
戸を見て、大きく息を吸う。大声を出す訳でもないのに。
懸想する相手。胸にいる相手。今一番大きく心を占める人と、過去も今もこれからもずっと心の支柱である人。
どちらの名を口にするべきか、土井は悩んだ。
「……山田伝蔵」
長い逡巡の末に、ぽつりと呟く。
きし、と何かが動いた音がした。
「動きましたな」
至近距離で声が聞こえて、飛び上がりそうになる。
「ちょっ……! どうしてこっちにいるんですか!!」
雑渡は土井の抗議を無視して、戸に手を伸ばす。先程とは違い、ガタガタと揺れる程度には動いたが、それ以上は開かなかった。
「残念ながら、まだ出られないようだ」
「人の話を聞いてくれませんかね!?」
土井が悩んでいる間に、そっと近付いていたのだろう。怒りで顔を赤くする土井に、雑渡は静かに笑った。
「なるほど、隠したくなる訳だ」
聞かれた。
土井の顔から一気に血の気が引き、今度は真っ青になる。
「他言無用。それはわかっていますよ」
宥めるように、雑渡が言う。土井はどうにか殴りつけたい衝動を堪えた。
「……お願いします」
山田の名を言ってしまった後悔と、雑渡の名を言わなくて良かったという安堵感が混ざる。
「一応言っておきますが、私が勝手に想っているだけですから。山田先生には、そんな気はこれっぽっちもありませんので、誤解はしないで頂きたい」
もし雑渡が本当に誰にも言わなかったとしても、雑渡自身の中には残る。だからせめて、山田は無関係だと伝えなければならなかった。
「わかっています」
素っ気ない答えは、納得しているかどうか判断がつかない。だが、これ以上何かを言って、逆に疑われても困る。
発想を変えよう。土井は思った。
自分の想う相手が山田であると思ってくれるのであれば、雑渡への想いはバレない。無事にここから出て山田に会えたら、対応を相談しよう。土井が「咄嗟に山田先生の名前を出してしまいました」と言えば、山田はきっとその嘘を問い詰めたりはしないだろう。
そうやって、何とか気持ちを鎮めたというのに、
「しかし、そのような相手と同室で過ごすのは、辛くはないのですか」
話は終わらなかった。
雑渡の問いなど無視しても良かったが、誤解は解いておきたい。
「いいえ、何も」
はっきりと否定を返す。
「私は山田先生に、充分過ぎるほど多くのものを頂きました。これ以上は、何も求めてはいません。私は山田先生の奥様もご子息も、同じ位に大切なのです。彼らの間に波風を立てる様な真似はしたくない」
半分は嘘だった。彼らが大切で、波風を立たせたくなかったのは本当だ。だが、だからといって本当に平気だった訳ではない。辛かった頃もある。
けれどいつからか、土井の心は別の相手に向いた。今は山田といても、前のように苦しくなる事はない。
まあ、別の辛さは出てきたけれど。
「辛くはないと?」
「ええ。今は何も辛くありません」
「今は、というのは?」
「昔に比べたら、という事です。もうこの話はいいでしょう」
これ以上話す必要はないし、話したくない。この短い会話でも、何かが暴かれるのではという不安が付きまとう。
探るように土井を見る雑渡の目から、視線を外す。
「それよりも、開き方が中途半端なのは、一人分の告白だからでしょう。雑渡さんも試して頂けませんか」
「…………」
「どんな名前が出て来ても、私は詮索しませんから」
聞かないでいる、とは言えなかった。ここは狭い上に、静かだ。それに、土井は聞かずにはいられない。
知りたくないけれど、知りたくてたまらない。
そんな気持ちは押し殺して、こっちの言葉は盗み聞きした男に気を遣っているというのに。
「……土井殿は、私にたいして興味がないとみえる」
「は?」
何だそれは。
そんな訳がない、と言いかけて、慌てて別の事を口にする。
「興味も何も……雑渡さんは、私に相手を聞かれたくないのでしょう?」
雑渡が頑なに言わないのは、土井に聞かれたくないから。そう予想していたのに、違うのだろうか。
「では、興味はおありで?」
「それは……」
あるとも、ないとも言いかねる。聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが、相反している。
どちらがより強いかと問われれば、前者だ。彼がどんな相手に心を寄せるのか。興味がないはずがない。
「興味は、あります」
土井は渋々認めた。
「ほう」
「ですが、雑渡さんが嫌だとおっしゃるなら、聞かないようにしますよ」
「私は勝手に聞きましたが」
「ええ。まだ怒っていますからね」
声を低くして、睨みつける。本気なのだが、雑渡は笑っただけだった。
どうにも雑渡と話をすると調子が狂う。惚れたら負け、という言葉がよく理解できた。
「そうですな。申し訳ない」
反省などしていないのが丸わかりの謝罪も、受け入れるしかない。
「とにかく、私は聞きませんから。そもそも、あなたの弱みなど、下手に握るのも恐ろしい」
「ほう」
雑渡は意外そうな声を出した。
土井から見た雑渡は、人に弱みを握らせて、そのままにしておく男ではない。
だが、雑渡が意外だったのは、そこではないようだ。
「私は、惚れた相手が弱みになるような忍者に見えるのですか」
「試す価値はある……と、私は思ってしまいますよ」
雑渡は冷酷になれる男だ。だが同時に、人との縁を大切にする男だ。相手がどんな人間かにもよるが、利用する事も不可能ではないだろう。
そうしたい訳ではないのに、習性のように考えてしまう。それを嫌だと思う自分は、忍者には向いていないのだろう。
「なるほど。確かに、土井殿であれば利用できるでしょうな」
含みのある言い方に、相手は恐らく土井の知っている相手なのだろうと、察してしまう。一気に気持ちが重くなった。
「やはり私は聞かない方がいいようですね。耳でも塞いでいましょうか?」
雑渡はそれには答えず、土井を見ながら、何やら考え込んでいる。土井は雑渡が答えるまで待った。
ようやく口を開いたと思えば、
「ここであった事は、表には出さない。そう、約束して頂きたい」
今更のように、雑渡は言った。
「わかりました。互いに秘密は守る、という事でいいですね?」
「ええ」
頷かれて、ほっとする。山田を巻き込まないで済む。
雑渡は無言で、戸に向かって手を伸ばす。動かそうとしても、やはり開かなかった。念の為、開くかを確認したのだろう。
それから。
「土井半助殿」
「何ですか?」
呼ばれたと思った土井が、返事をするのとほぼ同時に、音が聞こえた。
がちり。
先程と同じ、だが先程よりも大きな音。
「え?」
音がした方向を見る。戸が少し、開いていた。
「開いた? 何故……」
目を丸くする土井に、雑渡はため息をつく。
「何故かは、わかっているでしょう」
「どういう事ですか」
問えば、今度は呆れたような目で見られて、土井は少し怯む。仕方ないというように、雑渡は口を開いた。
「私が懸想する相手を言ったからですよ」
「はい? いつ、そんな事を言っ……て……?」
問いかけは、途中で消える。
雑渡はさっき、土井を呼んだ。何か用があって呼んだのだろうと思ったから、土井は返事をした。
あれは、呼び掛けでなく、答えだった?
そんな訳がない、と理性は言う。だが実際に、戸は開いた。
どうして、と次に思った。これまで、そんな素振りを見せた事もないのに。
けれどそういう土井だって、彼が好きだと態度に出したことはない。
本当に?
混乱して固まる土井に構わず、雑渡は戸に手を掛ける。
「ん?」
雑渡の手は、すぐに止まった。開くと思った戸は細い隙間を作っただけで、完全には開かなかった。
「土井殿」
「えっ!? はい!?」
呼ばれただけなのに、驚きで、声が裏返った。
雑渡は戸を指差している。
「開かない」
「えぇ!?」
今度は純粋な驚きで、声を上げる。
開いた隙間は、腕さえ通らない細さだった。覗き込んでも、戸の外は暗くて何も見えない。
力を込めて引いても、びくともしない。
「開きませんね……。でも、あと少しで開きそうにも見えますが……」
「ふむ……」
と言ったきり、雑渡は頰に手を置いて考え始める。恐らく開かない理由について。
対して土井が考えるのは、別の事だった。
土井はもちろん、原因に気付いている。
雑渡が嘘を言っていないのが前提ではあるが、不備があるのなら、土井の答えだ。
土井は嘘をついた訳ではない。が、隠した。土井が言ったのは、今ではなく、過去だった。
どうしたらいいのか。
雑渡は土井を想っていると言う。信じられなかったし、今でも信じ切れてはいない。
けれど実際に、事態は前に進んでいる。
普通に考えれば、土井が口に出せばいい。雑渡の名を。
だが、言い辛い。つい先程、別の名を口にしたばかりなのだ。
「土井殿には、心当たりがおありのようですな」
低い声が、すぐ近くで聞こえた。
いつの間にか、雑渡がすぐ側に迫っている。考え事をしていたとはいえ、気付かなかった。動揺しすぎだと、己を叱責する。
「……私は、嘘はついていません」
言い訳のように、呟く。雑渡は、土井の額に手をやった。
「顔が赤いですが、熱でも出ましたか?」
「ち、違います!」
慌てて離れようとすると、額にあった手が、土井の手首を掴む。
「先ほど、少し気になったのですが」
聞きたくないが、そう言える立場ではない。完全に土井が不利だった。
「あなたが山田殿を懸想していると、それが嘘とは思いません。が、それは、もう過去の話なのでは?」
やはりこの男とは、迂闊に話すべきではない。
「どうなのです? それとも、山田殿の他にもいるということですか? 気の多い方だ」
「それは……!」
違う、とは言えなかった。山田への思慕は、恋だけではない。思慕も尊敬も憧れも感謝も何もかもが混ざり合って、土井の中にある。山田への気持ちは、どれひとつとして捨てられなかった。
雑渡に気持ちが移った今でも。
「……いや、そうですね。私は、誠実な人間ではないのです」
「つまり、山田殿以外に相手がいるという事ですか」
「はい」
「山田殿の事は、過去であると?」
完全に過去にできている訳ではない。想いの残滓くらいは残っている。
「残ってはいますよ。少しだけ、戸が開いたでしょう」
「確かに」
沈黙が落ちた。
手首は掴まれたままだった。腕を引こうとしても、雑渡の力は緩まない。逃がさない、と言われているようだった。
何か言わねばと思うが、何も思いつかない。逃げるのは無理だ。土井が何を言っても、雑渡は見逃しはしないだろう。じわじわと追い詰められるだけだ。
ならば、自分から言ってしまうのが、一番傷が浅い。
どう言い訳しようが、今の気持ちを誤魔化そうとしたのは事実だ。それで呆れられたり幻滅されたとしても、仕方ない。
どう思われていても構わないと思っていたはずなのに。期待が出てきた途端に弱気になるものだと、内心で苦笑いする。
観念した土井が、口を開こうとした時。
「土井殿」
「は、はい?」
突然呼ばれて、雑渡を見る。片方だけ見えているその目は、普段と特に変化はないように見えた。ただ、手首を掴む手に、力が入っている。痛いほど。
「私の名を、呼んでみてくれませんか」
それは助け舟なのか、止めの一撃なのか。判断がつきかねるほど、雑渡の声は平静だ。
彼が何を考えているのか、わからない。
でも痛みを覚えるくらいに掴まれた、その手の熱は、嘘ではないはずだ。
「どうして、ですか」
「単なる私の願望です」
「戸が開かなかったら、どうされるおつもりです?」
「その時は、大人しく聞きますよ。私のライバルの名前をね」
土井を落ち着かせるためだろうか。穏やかな声だった。
ここまでお膳立てをされて、それでも、言うのは躊躇われた。
自分の往生際の悪さが、嫌になる。
言うべきだ。
そう覚悟を決めて、それでも、念の為に確認した。
「ここから出たら、互いに忘れるという約束ですよね?」
返答の代わりに、雑渡は土井の身体を引き寄せる。手首が解放された。代わりに、抱き締められる。土井は、身体を固くした。
静かに、宥めるように肩を撫でられて、泣きたくなった。
「土井殿がそう望むなら」
望んではいない。けれど、望んでいる。
「忘れて下さい」
言葉ではそう言いながらも、土井は雑渡の背中に手を回す。
得られる訳がないと思っていたぬくもりに、目を閉じる。夢かな、と思った。その方が納得がいく。
「夢だと思っているんですか?」
雑渡の声がして、土井は自分が思考を口にしていた事に気付く。
「……そう思われませんか? このおかしな部屋も、妙な掛け軸も」
そして何よりも、
「あなたが私を好きだなんて言うことも」
言葉の続きは言えなかった。雑渡の身体が離れたと思ったら、手が伸びてきて、土井の頬を引っ張ったからだ。
「嫌な事を言う口だ」
雑渡はそう言うと、すぐに手を離した。
「何をするんですか!」
「夢ではないかの確認を」
「自分の身体でやって頂けませんか!?」
そこそこ痛む頰を押さえながら、雑渡から離れる。しかし痛みよりも触れられた衝撃の方が大きかった。また顔が赤くなっているのが、自分でもわかる。
「申し訳ない。私を疑うような事を言うから、少し腹が立ちました」
「……すみません」
だが、疑って当然では?という気持ちも、確かにある。お互い様ではあるが。
「この状況が信じられないのは理解します。しかし、夢というにも違和感がある」
「夢を見ている時は、夢だとはわからないものでしょう」
雑渡の言う事も、わかる。夢か現か、分からない。起こっている状況はまさに夢そのものだが、思考は夢の中とは思えない程度には回る。
「土井殿は、よほど夢という事にしたいとみえる」
雑渡は少々不服そうな顔をしている。
「夢だといいな、とは思っていますよ」
本心からの言葉であり、嘘でもある。本当に雑渡が自分を好いているとしたら、本当に、心底から嬉しい。そして同じくらい、本当に困る。
「それは何故?」
「曲者と恋仲になる訳にはいきませんから」
片恋ならば諦められても、通じてしまったら、そうはいかない。土井は、そこまで器用になれる自信はなかった。
「なるほど」
言葉とは裏腹に、雑渡の声には不満が滲んでいた。
「これが夢だというならば、私も好きに振る舞わせてもらおうかな」
え、と問い返す間もなく、また抱き締められた。
「土井殿」
呼ばれて顔を上げれば、雑渡の顔が近くにあった。彼の口布は、外れている。唇が軽く重なり、離れた。名残惜しい気持ちを何とか押し込める。
頰を撫でる雑渡の手に、自分の手を重ねて、土井が口を開く。
「私は、あなたの名を、言ってもいいのですか」
「何を今更。それともこの状態で、他の者の名を呼ぶおつもりで?」
雑渡が拗ねたように言うものだから、土井は笑った。
「私はあなたのことが好きですよ。雑渡昆奈門さん」
後ろの戸が開いた音がして、それから一気に、意識が闇に包まれる。
咄嗟に、雑渡の手を握り締めた。離れたくないと、そう思ったのが最後だった。
きつく閉じていた目を開ける。
「ん……?」
目の前の景色は、一変していた。
「え……!?」
いつもの自室。周りには書物が散乱している。ばさりと音がした。土井が手に持っていた書物が、落ちたのだ。それは、片付けようと拾い上げた。
辺りを見回しても、当然、雑渡はいない。思わず自分の手を見るが、何かが残っているはずもなかった。
「夢……?」
眠っていた訳ではない。そう思うが、自信がない。立ったまま、うとうとしていたのだろうか。
一瞬のうちに夢を見たのか。少なくとも、先程のすべてが本当だと思うよりは、夢の方が納得がいく。
「夢……だよな?」
呟くと同時に、一気に力が抜けた。
なんだ、と思った。どうりで都合が良いはずだ。
生々しい夢だった。抱き締められたぬくもりも、触れた唇の感触も、まだあるように思える。
雑渡昆奈門。
もう一度、胸の中で呟く。
次に会った時に、動揺を見せないように気をつけなければならない。
夢を、現実と混同してはならない。
思いながら、どこか、気が抜けてしまった。
どうせ夢なのだったら、もっと素直に想いを伝えれば良かったな。浮かんだ考えを、何を馬鹿なと振り払い、土井は立ち上がった。
山田が帰ってくるまでに、片付けをしなければ。どうせもう、今日は集中できない。
「何て夢だ……」
土井の呟きは、誰にも届かずに消えた。