雑土が「好きな人を言わないと出られない部屋」に入った話 土井半助は今、二度目の片恋をしていた。
まずい相手に。
まさしく、何もかもがまずい相手だった。
忍術学園といつ対立してもおかしくないタソガレドキ忍軍の、よりにもよって組頭。忍としての実力は確かで、頭が切れて目端も効く。油断のならない人物。
これだけ難のある相手に惚れてしまったと気付いた時、土井は自分自身に呆れた。
よくよく物好きだと。
しかし、惚れてしまったからには仕方がない。
土井は、心に蓋をした。気持ちを伝えるなど、最初から選択肢にさえ入らない。
距離を取らなければならない。鋭い雑渡に、察知されないように。
隠し事には慣れていた。土井が想わない方が良い相手を想ってしまうのは、二度目だった。
相手は今、常に側にいる同僚で、恩人である山田伝蔵だ。
山田が土井の想いに気付いているかは、正直なところわからない。もちろん隠してはいるが、接触する時間が長すぎるし、山田は土井よりも実力で勝る忍者だ。
優しく見守る保護者のような目線は、出会った時から変わらない。だから、もし知られていたとしても、知らないふりをしてくれているのだろう。
山田に比べれば、今回は気が楽ではある。種類はどうあれ、雑渡は土井への好意を持たない。
雑渡への隠し事に、後ろめたさはない。むしろ、雑渡には気付かれない方がいい。この想いは明確に土井の弱みであり、どう利用されるか、わかったものではないのだ。
好意を自覚する反面、土井はいつも雑渡を警戒していた。生徒たちに害が及べば警戒では済まさないが、幸いにも今の所、彼は忍たま達に好意的だ。
タソガレドキと忍術学園も、妙に馴染みの関係になってしまっている。敵対するよりはマシではあるが、油断する訳にはいかない。
その位の距離感はまた、土井にとっては都合がいい。
現状に特に不満はなかった。
片恋の苦しみなど、たいした事はない。山田の時のように、想いが募る事もない。そのうち忘れられるはずだ。
と思っていた。
「土井殿?」
「……雑渡さん?」
知らない場所で、目の前に雑渡だけがいる。このおかしな事態に陥るまでは。
それは本当に久しぶりに、予定のない休日だった。補習もなく、授業準備も終わり、きり丸もアルバイトで不在。
久々にのんびりしようと、教員長屋で書物を読み始めたら、止まらなくなってしまった。
図書室から借りてきたもの、手元にあるが手をつけられなかったものを、片っ端から読んでいく。
山田は出掛ける支度をしながら、熱中する土井と散らかっている床を見て、
「読み終わったら、片付けておきなさいよ」
と呆れた顔で言ってから外出した。
一冊を読み終わって書物を閉じた所でその言葉を思い出し、片付けをしようと思い、立ち上がった。
そこまでは、覚えていた。
立ってすぐに、景色が違う事に気付いた。いつも目にしている壁はなく、足元に散らかったはずの書物もない。
何よりも、ここにいないはずの人が、目の前にいる。
土井はもちろん驚いたが、雑渡も同じように驚いていた。珍しく反応が鈍い。土井も同じで、周りを見回しながら、首を傾げる事しかできない。
「ここは……?」
「さて……」
「私は忍術学園の教員長屋にいたはずなのですが」
「私も自室に……タソガレドキにいたはずです」
顔を見合わせた二人は、覚えている限りの直前の行動を話す。しかし話し合っても、ここが何なのかと、その答えの手がかりは掴めなかった。
室内には、何もない。板張りの床は窓もない壁に覆われ、ひとつだけある戸は固く閉じられている。室内にはほぼ何もない。唯一、戸と反対側の壁に、大きな掛け軸が吊るしてあるだけだ。
それがまた問題だった。
土井の背丈ほどもある大きな掛け軸の真ん中には、これまた大きな文字がある。荒い筆跡だが、読むには充分だ。そしてそれは、土井の知っている誰のものでもない。
「この文字に見覚えは?」
「ありませんね。雑渡さんは?」
「ないよ」
二人は横並びで掛け軸がを見ながら、嫌な顔をした。
内容は筆跡よりも、内容だった。
『懸想する相手の名を言わねば出られない部屋』
何だそれは。
読めるし、言葉の意味も文の意味もわかるが、させようとする行為の意味がわからない。
「これは……文字通りの意味なのですかね?」
「さて……」
土井も雑渡も、さすがに判断がつかない。試してみるのが早いのだろうが、試したくない。
それは雑渡も同じようだった。
「土井殿、言ってみてもらえますか」
「嫌です。雑渡さん、お先にどうぞ」
「私も嫌ですな」
まるで引く気のない者同士、押し付け合いはすぐに終わった。
「まずは、普通に出られないか試してみましょう」
土井の提案に、雑渡は素直に賛同する。
二人は狭い室内を徹底的に調べた。
広さは、教員長屋の一室と同じくらいだ。戸はあるのだが、押しても引いても叩いても蹴り付けても、びくともしない。破壊もできない。雑渡が苦無を刺すと、苦無の方の刃が欠けた。
火薬でなら吹き飛ばせるかと思ったが、さすがに持っていない。そもそも、こんなに狭い場所で爆発など起こしたら、二人とも無事では済まない。
壁も、床も、天井も。見た目は普通に見えるのに、何をしても壊れない。攻撃というものが一切効かなかった。
「これは無理だね」
「ええ、そのようですね……」
となると、いう言葉を飲み込みつつも、二人の視線は自然と掛け軸へ向く。どいう理屈かはまったく分からない。中にも外にも何の気配もない。掛け軸の裏にも、それ自体にも、何もなかった。
残るは、与太だと思いつつも、掛け軸の指令に従うくらいしか、思いつかなかった。
であるのに、二人の動きは鈍かった。
土井がなるべくそこに触れなかったのは、単純に言いたくなかったからだ。
こんな形で、隠していた想いを打ち明けたくはない。
振られる事が怖いのではない。元より、望みがないのはわかっている。
怖いのは、雑渡に想いを、引いては土井を利用される事だった。土井にとって雑渡は、必要とあれば何かを躊躇う男ではない。
中立状態の忍術学園の内部に、自分に惚れた男がいる。それを雑渡に知られたくない。
雑渡が話さないのも、土井に相手を知られたくないだろう。土井に知られるという事は、忍術学園に知られるのと同じだからだ。
気心の知れた相手ならば笑い話で済むかもしれないが、雑渡と土井の間では無理だ。
そもそも、雑渡に懸想する相手などいるのだろうか。妻帯していないのは知っているが、相手がいるとは聞いていない。いたとしても、隠しているだけかもしれないが。
あまりにも雑渡について知らないものだから、
「私にそうした相手はいないので」
「あ、そうなんですか?」
自然に言った雑渡の言葉を、素直に信じそうになった。
しばらく雑渡は沈黙し、その間、どこからも物音一つしなかった。
「……なるほど。いない、という答えは受け付けてもらえないようだ」
「嘘だった訳ですね……」
つまりは、雑渡にも想う相手がいるのだ。できれば、知りたくなかった。
胸が痛くなるのを、何とか堪える。
困った事になった。
自分が言えないのはもちろん、雑渡の答えも聞きたくない。
雑渡の想い人の名前など、知りたくはない。知らない名前ならば誰なのか気になってしまうし、知っている名前が出たら平静でいられる自信がない。
いや見た目を冷静に装う事ならできるが、相手は雑渡だ。少しの動揺でも見せたら、すぐに察知されるだろう。
だからこそ、普段は不必要な位に距離を取っているというのに。
「土井殿。先に頼めますか」
しれっと先を譲ろうとする雑渡に、土井は当然、声を上げた。
「どうして私が先なんですか!」
「こういう話は、お若い人の方がいいかと」
「年齢は関係ありませんよね! この場合は!」
もしも万が一、本当に言わなければ出られないのだとしても、先に言うのは嫌だった。気まず過ぎる。
しかし雑渡も同じく、先を譲りたい様子である。
これは話し合いでは決まらない。とはいえ、この密室で二人きりの相手と険悪な空気になる訳にもいかない。
「では、くじで決めましょう」
睨み合いの末、提案したのは雑渡だった。
「……私がくじを作っても良いのなら」
他に案を思いつかなかった土井が言うと、雑渡は承諾した。
土井は手持ちの布を端から細く二つ裂き、片方に結び目を作った。
それから拳で結び目を隠して、雑渡に向ける。
「どうぞ」
彼は片方の布を引き、それは抵抗なく土井の手から出て行った。
土井の掌の中には、結び目のある布が残る。
当たりだ。つまり、ハズレだ。
「うぅ……」
胃を押さえつつ、そうと決まればやるしかない。
「あの、雑渡さん」
「何か」
「できるだけ、離れて頂けますか」
「もちろん」
雑渡は素直に土井から距離を取った。
離れるといっても、狭い中では限度がある。それでも、できる限り離れてくれたのだから、良しとするしかない。
戸の前で、大きく息を吸う。大声を出す訳でもないのに。
懸想する相手。胸にいる相手。今一番大きく心を占める人と、過去も今もこれからもずっと心の支柱である人。
どちらの名を口にするべきか、土井は悩んだ。
「……山田伝蔵」
長い逡巡の末に、ぽつりと呟く。
きし、と何かが動いた音がした。
「動きましたな」
至近距離で声が聞こえて、飛び上がりそうになる。
「ちょっ……! どうしてこっちにいるんですか!!」
雑渡は土井を無視して、戸に手を伸ばす。先程とは違い、ガタガタと揺れる程度には動いたが、それ以上は開かなかった。
「残念ながら、出られる訳ではなさそうだ」
「人の話を聞いてくれませんかね!?」
土井が悩んでいる間に、そっと近付いていたのだろう。怒りで顔を赤くする土井に、雑渡は静かに笑った。
「なるほど、隠したくなる訳だ」
聞かれた。
土井の顔から血の気が引き、今度は真っ青になる。
「他言無用。それはわかっていますよ」
宥めるように、雑渡が言う。土井はどうにか怒鳴りつけたい衝動を堪えた。
「……お願いします」
山田の名を言ってしまった後悔と、雑渡の名を言わなくて良かったという安堵感が混ざる。
「一応言っておきますが、私が勝手に想っているだけですからね。山田先生には、そんな気はこれっぽっちもありませんので、誤解はしないで頂きたい」
もし雑渡が本当に誰にも言わなかったとしても、雑渡自身の中には残る。だからせめて、山田は無関係だと伝えなければならなかった。
「わかっています」
素っ気ない答えだ。だが、これ以上何かを言って、逆に疑われても困る。
発想を変えよう。土井は思った。
自分の想う相手が山田であると思ってくれるのであれば、雑渡への想いはバレない。それも悪くはない。
そうやって、何とか気持ちを鎮めたというのに、
「しかし、そのような相手と同室で過ごすのは、辛くはないのですか」
話は終わらなかった。
雑渡の問いなど無視しても良かったが、誤解は解いておきたい。
「まさか」
はっきりと否定を返す。
「私は山田先生に、充分過ぎるほど色々頂きました。これ以上は、何も求めてはいません。私は山田先生の奥様もご子息も、同じ位に大切なのです。彼らの間に波風を立てる様な真似はしたくない」
半分は嘘だった。彼らが大切で、波風を立たせたくなかったのは本当だ。だが、だからといって本当に平気だった訳ではない。辛かった頃もある。
けれどいつからか、土井の心は別の相手に向いた。今は山田といても、前のように苦しくなる事はない。
まあ、別の辛さは出てきたけれど。
「辛くはないと?」
「ええ。今は何も辛くありません」
「今は、というのは?」
「もうこの話はいいでしょう」
これ以上話す必要はないし、話したくない。この短い会話でも、何かが暴かれるのではという不安が付きまとう。
「それよりも、開き方が中途半端なのは、一人分の告白だからでしょう。雑渡さんも試して頂けませんか」
「…………」
「どんな名前が出て来ても、私は詮索しませんから」
聞かないでいる、とは言えなかった。ここは狭い上に、静かだ。それに、土井は聞かずにはいられない。
知りたくないけれど、知りたくてたまらない。
そんな気持ちは押し殺して、こっちの言葉は盗み聞きした男に気を遣っているというのに。
「……土井殿は、私にまるで興味がないとみえる」
「は?」
何だそれは。
そんな訳がない、と言いかけて、慌てて別の事を口にする。
「興味も何も……雑渡さんは、私に相手を聞かれたくないのでしょう?」
雑渡が頑なに何言わないのは、土井に聞かれたくないからだろう。土井はそう予想していたのに、違うのだろうか。
「では、興味はおありで?」
「それは……」
あるとも、ないとも言いかねる。聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが、相反している。
けれど、と思う。
雑渡の気持ちを知れば、諦めがつくかもしれない。
「あります」
「ほう」
「ですが、雑渡さんが嫌だとおっしゃるなら、聞かないようにしますよ」
「私は勝手に聞きましたが」
「ええ。私はまだ怒っていますからね」
声を低くして、睨みつける。本気なのだが、雑渡は笑っただけだった。
どうにも雑渡と話をすると調子が狂う。惚れたら負け、という言葉がよく理解できた。
「そうですな。申し訳ない」
反省などしていないのが丸わかりの謝罪も、受け入れるしかない。
「とにかく、私は聞きませんから。そもそも、あなたの弱みなど、下手に握るのも恐ろしい」
「ほう」
雑渡は意外そうな声を出した。
土井から見た雑渡は、人に弱みを握らせて、そのままにしておく男ではない。
だが、雑渡が意外だったのは、そこではないようだ。
「私は、惚れた相手が弱みになるような忍者に見えると」
「試す価値はある……と、私は思ってしまいますよ」
雑渡は冷酷になれる男だ。だが同時に、人を大事にする男だ。相手がどんな人間かにもよるが、利用する事も不可能ではないだろう。
そうしたい訳ではないのに、習性のように考えてしまう。それを嫌だと思う自分は、忍者には向いていないのだろう。
「なるほど。確かに、土井殿であれば利用できるでしょうな」
含みのある言い方に、恐らく土井の知っている相手なのだろうと察してしまう。重い気持ちを抱えながらも、ではやはり聞かない方がいいだろう、とも思う。
「耳でも塞いでいましょうか?」
雑渡はそれには答えず、土井を見ながら、何やら考え込んでいる。ようやく口を開いたと思えば、
「ここであった事は、表には出さない。そう、約束して頂きたい」
今更のように言った。
「つまり互いに秘密は守る、という事でいいですね?」
「ええ」
頷かれて、ほっとする。山田を巻き込まないで済む。
雑渡は無言で、戸に向かって手を伸ばす。動かそうとしても、やはり開かなかった。念の為、開くかを確認したのだろう。
それから。
「土井半助殿」
「何ですか?」
呼ばれたと思った土井が、返事をするのとほぼ同時に、音が聞こえた。
がちり。
先程と同じ、だが先程よりも大きな音。
「え?」
音がした方向を見る。戸が少し、開いていた。
「開いた? 何故……」
目を丸くする土井に、雑渡はため息をつく。
「何故かは、わかっているでしょう」
「どういう事ですか」
問えば今度は呆れたような目で見られて、土井は少し怯む。仕方ないというように、雑渡は口を開いた。
「私が懸想する相手を言ったからですよ」
「はい? いつ、そんな事を言っ……て……」
問いかけは、途中で消える。
雑渡はさっき、土井を呼んだ。何か用があって呼んだのだろうと、土井は思った。
あれが、答えだった?
そんな訳がない、と理性は言う。だが実際に、戸は開いた。
どうして、と次に思った。これまで、そんな素振りを見せた事もないのに。
けれどそういう土井だって、彼が好きだと態度に出したことはない。
本当に?……本当に、なのか?
混乱して固まる土井に構わず、雑渡は戸に手を掛ける。
「ん?」
雑渡の手は、すぐに止まった。開くと思った戸は細い隙間を作っただけで、完全には開かなかった。
「土井殿」
「えっ!?」
呼ばれただけなのに、驚きで、声が裏返った。
雑渡は戸を指差している。
「開かない」
「えぇ!?」
今度は純粋な驚きで声を上げる。
開いた隙間は、腕さえ通らない細さだった。覗き込んでも、戸の外は暗くて何も見えい。
「本当だ……でも、あと少しで開きそうにも見えますが……」
「ふむ……」
と言ったきり、雑渡は頰に手を置いて考え始める。恐らく開かない理由について。
対して土井が考えるのは、別の事だった。
土井はもちろん、原因に気付いている。
雑渡が嘘を言っていないのが前提ではあるが、不備があるのなら、土井の答えだ。
土井は嘘をついた訳ではない。が、隠した。土井が言ったのは、今ではなく、過去だった。
どうしたらいいのか。
雑渡は土井を想っていると言う。信じられなかったし、今でも信じ切れてはいない。
けれど実際に、事態は前に進んでいる。
普通に考えれば、土井が口に出せばいい。雑渡の名を。
だが、言い辛い。
つい先程、別の名を口にしたばかりなのだ。
「土井殿」
「は、はい?」
「心当たりがおありのようですな」
低い声が、すぐ近くで聞こえた。
いつの間にか、雑渡がすぐ側に迫っている。考え事をしていたとはいえ、気付かなかった。動揺しすぎだと、己を叱責する。
「……私は、嘘はついていません」
言い訳のように呟く。雑渡は、土井の額に手をやった。
「随分と顔が赤いが、熱でも?」
「ち、違います!」
慌てて離れようとすると、額にあった手が、土井の手首を掴む。
「先ほど、少し気になったのですが」
聞きたくないが、そう言える立場ではない。完全に土井が不利だった。
「あなたが山田殿を懸想していると、それが嘘とは思いません。が、それは、もう過去の話なのでは?」
やはりこの男とは、迂闊に話すべきではない。
「どうなのです? それとも、山田殿の他にもいるということですか? 気の多い方だ」
「それは……!」
違う、とは言えなかった。山田への思慕は、恋だけではない。思慕も尊敬も憧れも感謝も何もかもが混ざり合って、土井の中にある。山田への気持ちは、どれひとつとして捨てられなかった。
雑渡に気持ちが移った今でも。
「……いや、そうですね。私は、誠実な人間ではないのです」
「つまり、山田殿以外に相手がいるという事でよろしいかな?」
「はい」
「山田殿の事は、過去であるという認識でよろしいか?」
「……そう、です」
沈黙。
何か言わねばと思うが、何も思いつかない。逃げるのは無理だ。土井が何を言っても、雑渡は逃しはしないだろう。このまま、じわじわと追い詰められるだけだ。
ならば、自分から言ってしまうのが、一番傷が浅い。
今の気持ちを誤魔化そうとした事は、後から謝罪をしよう。それで呆れられたり幻滅されたとしても、仕方ない。
どう思われていても構わないと思っていたはずなのに。期待が出てきた途端に弱気になるものだと、内心で苦笑いする。
「あの、雑渡さ……」
「土井殿」
「は、はい?」
言葉を遮られ、雑渡を見る。片方だけ見えているその目は、普段と特に変化はないように見えた。ただ、手首を掴む手に、力が入る。痛いほど。
「私の名を、呼んでみてくれませんか」
それは助け舟なのか、止めの一撃なのか。判断がつきかねるほど、雑渡の声は平静だ。
彼が何を考えているのか、わからない。
でも痛みを覚えるくらいに掴まれた、その手の熱は、嘘ではないはずだ。
覚悟を決めて、それでも、念の為に確認した。
「ここから出たら、互いに忘れるという約束ですよね?」
返答の代わりに、雑渡は土井の身体を引き寄せる。手首を解放された代わりに抱き締められた土井は、身体を固くした。
静かに、宥めるように肩を撫でられて、泣きたくなった。
「土井殿がそう望むなら」
望んではいない。けれど、望んでいる。
「忘れて下さい」
言葉ではそう言いながらも、土井は雑渡の背中に手を回す。
得られる訳がないと思っていたぬくもりが、ここにある。
「土井殿」
呼ばれて顔を上げれば、雑渡の顔が近くにあった。彼の口布は、外れている。唇が軽く重なり、離れた。名残惜しい気持ちを何とか押し込める。
土井の頰を撫でる雑渡の手に、自分の手を重ねる。
「私は、あなたの名を、言ってもいいのですか」
「何を今更。それともこの状態で、他の者の名を呼ぶおつもりで?」
雑渡が拗ねたように言うものだから、土井は笑ってしまった。
「私はあなたのことが好きですよ。雑渡昆奈門さん」
後ろの戸が開いた音がして、それから一気に、意識が闇に包まれる。
咄嗟に、雑渡の手を握り締めた。離れたくないと、そう思ったのが最後だった。
「ん……?」
ぼんやりと目を開ける。見知った天井に、知っている景色。
「え……!?」
がばりと飛び起きる。いつもの自室。周りには書物が散乱している。整理の途中で、いつの間にか、眠ってしまったようだった。
辺りを見回しても、当然、雑渡はいない。思わず自分の手を見るが、何かが残っているはずもなかった。
「夢……?」
一気に力が抜けた。
なんだ、と思った。どうりで都合が良いはずだ。
それにしても、生々しい夢だった。抱き締められたぬくもりも、触れた唇の感触も、まだあるように思える。
雑渡昆奈門。
もう一度、胸の中で呟く。
次に会った時に、動揺を見せないように気をつけなければならない。
夢を、現実と混同してはならない。
固く思いながら、どこか、気が抜けてしまった。
どうせ夢なのだったら、もっと素直に想いを伝えれば良かったな。浮かんだ考えを、何を馬鹿なと振り払い、土井は立ち上がった。
夢というのは、不思議と、頭から消えてしまう。どれだけ現実感のある夢でも、起きた時に鮮明に覚えていたとしても、時間と共に薄れる。
では一月以上が経っても薄れないこの記憶は、何なのか。
夢というには、強すぎる。現実と思うには、荒唐無稽がすぎる。
悩みながらも、何もできなかった。雑渡と会えないからだ。
忍術学園の神経に触れないように訪問してくる部外者。それが教師陣による雑渡への認識だった。
彼が会う人間は限られている。表には出さずとも彼を警戒する教師や、無謀な勝負を挑む上級生をうまく避けているからだ。
土井が時折会うのは、保健室によく行くからだった。
だがそれも、最近は、あの夢の少し前からは、なかった。
単純に、雑渡が来ないからだ。伊作も伏木蔵も会っていないと言うし、土井の元にも尊奈門は尋ねて来なかった。
タソガレドキ軍の内部で少々の問題が起こっている事を土井は知っていたが、もちろん生徒には話さない。
しばらくは尊奈門も雑渡も来ないだろう。
そう予想して、油断していたのは確かだ。
土井は、胃薬をもらいに保健室に向かっていた。今回の胃痛の原因は、昨日行ったテストの平均点だ。
薬の用意は、先に新野に頼んである。
保健室に入ろうとした土井は、そこにいないはずの気配を感じて一瞬足を止めた。
まさかなと思いながら中に入ると、
「おや。また胃痛ですか」
保健室の真ん中で、お気に入りの一年生を膝に乗せた雑渡が座ってた。彼は驚いた顔の土井を見ても、いつも通りの表情を崩さなかった。
胃痛がひどくなった気がした。
「雑渡さん……いらしてたんですか」
「お久しぶりです」
「……お久しぶりです」
同じ言葉を返した後に一礼して、土井は彼の膝の上の生徒に声を掛ける。
「伏木蔵、新野先生はおられないのか?」
「さっき善法寺先輩と一緒に、学園長先生の所へ行かれました〜」
では、しばらくは帰ってこないだろう。
出直そうかと考えて、この人を一年生と二人にしていいものか悩む。答えが出る前に、伏木蔵が雑渡の膝から降りた。
「また来てくださいね、昆奈門さん」
「うん。またね」
雑渡に手を振った伏木蔵は、土井に向かってぺこりと頭を下げる。
「土井先生、失礼しますぅ〜」
「あ、ああ」
すたすたと行ってしまった一年生を見送る土井に、雑渡が声を掛ける。
「彼は土井先生が来るまで、私の相手をしてくれていたんですよ」
立ち上がった雑渡は、土井を見ていた。
「私に何か御用事でしたか?」
「ええ。土井先生に相談事がありまして」
「私にですか?」
何だろう。相談事を持ちかけられるような関係性ではないはずだが。
尊奈門、もしくは一年は組の事だろうか。
「最近、夢を見ましてね」
夢、という言葉にどきりとしたが、どうにか表には出さない。
訝しむ顔をしながら、雑渡に目線で続きを促す。
「その夢に土井殿が出てきまして」
「はあ。夢の私が、何かしましたか?」
「ええ。そこでひとつ、お聞きしたいのですが」
「何でしょう」
「私はあなたの懸想する人間を二人知っております」
息が止まる。
懸想する人間を知っているというだけならば、無視してもいい。だが、「二人」であると言われては、それもできない。
雑渡の口調はそのままだが、声は有無を言わせない強さがあった。
目を逸らせない。
「今、その名を申し上げても?」
「何の、ために?」
「あれが夢ではないと、確認するために」
雑渡の目は真剣で、揶揄っているようには見えない。
土井は理解した。
彼も、同じだった。
土井と同じ事で同じように悩み、確かめずにはいられなかったのだ。
「今……そちらはお忙しいでしょうに」
「何とか時間を作りました」
「夢の内容を確認するために、お忙しい中、わざわざここへ?」
「ええ。あの夢がどうしても夢とは思えず、一縷の望みに賭けて来ました」
一縷の望み。その言葉を、大袈裟とは思わない。土井も、望みを捨てられなかった。
だから、言った。
「……私が望めば忘れると、そう言ったのはあなたでしょう」
土井の咎めるような声に、雑渡の纏う空気が緩んだのがわかる。
土井も、知りたかった。あれが本当に願望混じりの夢だったのかどうか。
「でも、土井殿は忘れて欲しくなさそうだったから」
雑渡の答えを聞いて、土井も気が緩む。
夢ではなかった。いや、夢かもしれないが、土井だけのものではなかった。
大きなため息吐きながら、土井はその場にしゃがみ込んだ。
「……夢かと、思っていたのに」
「私も同じく」
雑渡も膝を折って、土井と目線を合わせる。
「本当は、もっと早くに来たかったのだけどね。色々あって……というのは、もう知ってるか」
「よくこんなに早く来られましたね」
「用事を済ませてすぐに帰るからと、頼み込んだ」
「まだお忙しいでしょうに」
「しばらくはね。尊奈門が来るのは、もう少し後になるだろうな」
「ああ……果たし合いは御免ですが、彼の元気な顔は見たいですね」
雑渡は軽く笑って、土井の手を取った。初めて触れるはずなのに、知っている暖かさ。夢と同じだ。
「さて、土井殿」
「何ですか」
「私は、土井殿の気持ちを聞きたくて来たのだけど」
改めて言われると、気恥ずかしい。それに。
「……私はもう、言いましたよ。言っていないのは、雑渡さんの方でしょう」
雑渡は記憶を辿るかのように沈黙し、それに思い至ったのだろう。笑って土井の顔を見た。
「なるほど。確かにそうだ」
雑渡が言ったのは、土井の名前だけだ。雑渡は土井の手を取ったまま、立ち上がる。土井も彼に手を引かれるまま、素直に続いた。
雑渡は土井の目を見て、静かに口を開いた。
「私もあなたに惚れておりますよ、土井半助殿」
ここが学園内でなければ、抱き着いていた事だろう。土井はその代わりに、雑渡の手をまた握り締めた。
「ずっと隠しておこうと思ったのに、まったくもう……」
赤くなる顔を隠したくて、そっぽを向く。
「それはこちらも同じ事だよ。あれは本当に、何だったのか」
珍しくぼやくような言葉が聞こえてきて、土井はおかしくなった。が、続く言葉に笑みは引っ込んだ。
「夢でなかったと分かったからには、あれが何なのか探らせないとね」
「……って、ちょっと待って下さい。調べる時に、私との事は言いませんよね?」
「言わないと、話にならないんだけど」
「そっ、それはそうなんですけど、せめて私の名は隠して頂きたく……!」
雑渡は、「んー」と首を傾げる。
「そうすると、私の相手は誰なのか、部下たちが一斉に探り始めると思うけどいい?」
「いい訳ないでしょう!」
「それとも、土井殿の方で調べてくれるのかな? 私の名を出さずに」
「う……」
忍術学園も情報網は持っているが、タソガレドキ忍軍とは比べるべくもない。ましてや他の教師たちから雑渡の名を隠して調べるなど、土井には無理だった。
「うぅ……何かわかったら、私にも教えて頂けるのですよね?」
「もちろん」
「では、お好きにどうぞ」
しばらくタソガレドキの忍とは顔を合わせ辛くなる。
「あの……尊奈門くんにもバレます?」
「全員には言わないよ。口が固いのだけ。尊奈門の反応も、見てみたくはあるけどね」
「やめて下さいよ、悪趣味な」
雑渡が笑って、土井も表情を緩める。繋ぎっぱなしの手を見て、雑渡は少し目を細めた。
「このまま連れ出したい所だけど、そうもいかないか」
「ええ。だから、その……もう少し落ち着く所で、改めて話がしたいのですけど」
「あの場所かな?」
「あそこはもう嫌です」
「はは。私もだ」
土井は顔を顰めたが、雑渡は笑う。
その笑い顔に、こんな表情をする人なのかと思う。そんな事を思う程度には、土井は雑渡をよく知らなかった。
だから、これから知っていこう。
「では、また。土井先生」
「ええ。また今度」
あの時とは違って、自分から手を離す。無理矢矢理に引き剥がされるのではなく、己の意思で離れる。
夢だから気にしていなかったけれど、自分はあの別れ方が余程嫌だったらしい。
「土井先生ー。いらっしゃいますかー」
離れた所から、声が聞こえる。顔を出して廊下を覗くと、土井に気付いた乱太郎が、立ち止まって手を振る。
その短い間に、雑渡はもう消えていた。
乱太郎はぱたぱたと保健室に入って来て、土井を見上げた。
「どうした?」
「新野先生と善法寺先輩が、急に外出される事になったそうです。土井先生の胃薬は用意できているので、渡しておくよう言われました」
「そうか。まあ……今はいいかな」
「あれ? 胃薬を取りにこられた訳ではないんですか?」
「ああ」
土井は自覚もなく微笑んでいた。
しばらくは、この浮かれた気持ちが全部隠してくれる気がする。
「土井先生、何かいい事あったんですか?」
乱太郎に覗き込まれて、一年生に悟られるようではいけないなと、気を取り直す。この環境で、特に教師陣に隠し通せるとは思っていないが、まだ気恥ずかしさが勝つ。
「いや、何でもない」
「あっ、昨日のテストの平均点が良かったとか!?」
「そんな訳ないだろーが! いつも通りだったぞ!」
胃の痛みは、あっという間に戻ってきた。
「やっぱり胃薬はもらっておくか……」
「はーい。用意しますね!」
乱太郎は元気に返事をする。平均点のことを気にする様子はないから、土井の胃はやはり痛んだ。
だけどこうして振り回されていなければ、土井は浮かれてしまうだろう。どこまでも。
緩んだ口元を隠しながら、宙を仰ぐ。
問題は山積みで、これからが大変なのは理解している。
だがまあ、何とかするしかないだろう。
夢なのか何なのか分からないあの時間を、夢として消さない選択をしたのは雑渡であり、そして土井だからだ。
「土井先生、こちらですー」
乱太郎の声に、ふわふわした思考を振り払う。
続きは、次にあの人と会った時だ。
いつになるかさえ分からない逢瀬を思いながら、土井は教え子の手から薬を受け取った。
「ありがとう、乱太郎」
そして、
「やっぱり土井先生、良い事があったんですね!」
再度言われて、土井は己の未熟さに肩を落とした。