満員電車の夏尾2本目 最悪だ。
電車遅延と運転見合わせが重なって、振替輸送として選ばれたこの路線。いつもだって混んでるのに、今日の混み方は異常だよ。ぎゅうぎゅうというかギチギチというかミチミチというかビチビチというかもう無理じゃね? ってぐらい人が乗ってくる。俺はカバンを胸の前でしっかりと抱いて、爪先立ちになりながら電車の揺れに身を任せた。
踵を降ろそうとしたら誰かの足があって、どうにもならない。避けたいんだけど、どこもかしこも人の足がある。最小スペースで乗り切るしかないのだ。だから俺一人の意思で倒れないように、とか無理なんだよな。
俺が耐えたとしても、隣や後ろに立つ人がバランスを崩したら俺も道連れになるし、そうなるとまた別の人が道連れになって、それでまた別の人が……とどんどん数珠つなぎなのか玉突きなのかで倒れていく。この前はそれで一メートルぐらい移動した。頼むから急ブレーキだけはやめてくれ。
電車が停まって、また押し込まれる。動ける隙間なんてないから、人に重なってスペースの節約をするしかない。はあ? 人に重なってスペースの節約をする? 意味分かんねぇ。
気がついたら俺は知らない人と向き合って立っていたし、その人の肩に顎が乗っていた。うひ〜〜〜〜、待ってくれ。知り合いでもキツイのに、知らない人とはもっとキツイ! どうにか体を離したいが、そんなことができるわけもない。
動き出した電車の中は異様な静けさを保っている。乗客全員が「早く次の駅に着け」と願っている時間だ。
俺は知らない人の肩に顎を乗せながら目を瞑る。幸いこの人の後ろに立つのは小柄な女性だったし、周りの人もみんな反対側を向いているので目が合うことはない。それでも何というか無理でしょ……。知らない人の肩に顎が乗るほど混んでいるのは初めてだ。
乗る電車を早くすれば満員じゃないかもしれないけど、それをするなら一時間ぐらい早めないといけないんだよなぁ。遅くするにしても始業時間は変わらないから限界があるし、しかもそうなると遅延が遅刻に直結する。遅延も渋滞もない自転車通勤が最強なのかな。うちから会社までどれぐらいなんだろう。会社に駐輪場ってあったっけ? ないよな。てことは駐輪場を借りることになるのか。うう〜〜〜〜満員電車が憎い〜〜〜〜。
電車はのろのろとしたスピードで走る。この調子じゃ次の駅に着くのはいつになるんだろうか。俺はいつまで爪先立ちで、知らない人の肩に顎を乗せ続けるんだろうか。さっき一瞬だけ見えたスーツや刈り上げ感から「できる男」臭がした。てかなんかリアルにいい匂いだな。香水とかつけてるのかな。
俺もかっこよく香水をつけたい。高校のときに流行りのものをつけてたら「つけすぎ」「くさい」「お前に似合ってない」と当時の彼女にボロクソ言われたからな。それ以降怖くてつけてないけど、やっぱいいよなぁ。
もしかしたらいい香りの正体は洗剤なのかもしれないし、シャンプーかもしれないし、整髪料かもしれないと思い直す。とはいえ突然知らない人に「そのいい香りって何ですか?」と聞くわけにはいかない。頑張ってこの匂いを覚えて、どこかで見つけられたらいいんだけどヒントがなさすぎる。
洗剤とかシャンプーなら普通に使えばいいけど、香水だったときが怖いよな。店員さんに使い方を聞くしかない。てか、そうか、聞けばいいんだ。分からないことは素直に聞いて、優しく教えてもらえばいい。そしたらやっぱり香水がいいな。欲しくなってきたな。
普段の倍近く時間をかけて電車が駅に着いた。ターミナル駅は人がどっと降りる。俺もその一人なので、後ろから押されながら電車から降りる。
俺が押されているということは、肩を借りていた人も押されているわけで、二人仲良く外に飛び出た。
「お前」
「え?」
「嗅ぎすぎ」
お兄さんが笑う。俺は意味を理解するのに時間がかかり、ワンテンポ遅れて顔が熱くなるのを感じた。
あれから数日が経って、お兄さんのことは毎朝車内で見かけていた。
俺よりも後に乗り込んできて、同じ駅で降りる。挨拶をするわけではないが、姿が見れるだけで嬉しい。電車は相変わらず混んでいるけど、あの日ほどひどくなることはない。あれは異常だったもんな。いくらなんでも足ぐらいはちゃんと置ける。
と思っていたのに、今日はこの路線で人身事故が起きた。またぎゅうぎゅうに詰め込まれて出社するのかと暗い気持ちになっていたが、今回は運転を見合わせるそうだ。再開見込みなし。こりゃもう仕方ないよね。俺は意気揚々と電車を降りて、駅前のカフェに入った。
こういうのはいかに早く見切りをつけるかだ。でないとカフェの席はすぐに埋まる。俺はイスの上にカバンを置いてレジに並んだ。すると後ろから肩を叩かれる。不思議に思って振り返ると、例のお兄さんがニヤニヤと笑いながら立っていた。
「わ、あ」
「席どこだよ」
「え、えと、そこの端っこの」
「イス二つあるな」
「は、い」
「一つ借りるぞ。ついでに俺のコーヒーもよろしく」
「はぁ……え、ええと」
「代わりにイイコト教えてやるよ」
お兄さんが前髪を撫で付ける。その仕草も俺はどうしてか目が離せなくて、教えてもらえるイイコトが何のことかも分からず、ただ何度も頷いた。よく分からないけど、このお兄さんと少しでもお近づきになれるなら、コーヒーの一杯や二杯、席の一つや二つぐらい差し上げますとも。
ドキドキしながら席に戻ると、お兄さんはテーブルの上に小さなスプレー容器を置いていた。
「これ?」
「お前がこの前死ぬほど嗅いでた香水」
「わ⁉︎ あ!」
持っていたコーヒーカップをひっくり返しそうになる。これ! え⁉︎
流石にここでプッシュするわけにはいかないので、容器の匂いを嗅ぐ。あー、これこれ、お兄さんのいい香りのやつだ。えー、めっちゃ嬉しい。これでいつでも嗅ぎ放題じゃん。違う、つけ放題じゃん。ああでもこの量だとすぐなくなっちゃうのか。ちゃんとしたやつ買わないとだよな。でもでも、まずはこれを……。
「もらっていいんですか?」
俺が念のために聞くと、お兄さんはストローから口を離してじっと俺を見る。どっちなんだろう。もらえるもんだと思ってたけど違うのかな。お兄さんの大きな黒目は表情が読みにくい。
「ダメだって言ったら?」
「え!」
思わず大きな声が出た。店内に空席がないか確認しに来た人が、チラッとこっちを見てから退店する。両手で口を押さえた俺の向かいで、お兄さんが「嘘だよ」と笑う。
「お前にやる」
それと、とテーブルの上の紙ナプキンにお兄さんが何かを書く。
「香水のブランドな」
「ありがとうございます!」
お兄さんの手書きメモだ! 俺はそれを大事にカバンにしまった。
今日はこのまま、電車が動かなくてもいいや。お兄さんともっと話しがしたい。
そう思いながらコーヒーを飲む。今日は特別おいしく感じた。