予習はしっかり ついについについに! 俺にも脱童貞のチャンスがやってきた!
デートの流れは完璧で、あまりの完璧さに感動した俺はどうして今ラブホで尾形さんと向き合っているのかよく分からない。分からないけど完璧な流れでここまで来た。ナイス俺、サンキュー俺。
本当は今すぐに服を全部脱いでしまいたいけど、予習したサイトによるとムード作りは大切だから、勢いのまま全裸になってはいけないとあった。なるほどムード。確かに大事だよな、ムード。分かる分かる。こっちがしっとりとした空気で酒飲んでんのに、隣のテーブルのカップルがケンカを始めたらムードぶち壊しだもん。勘弁してくれって思うよ。
だから俺は、その何度も何度も読み込んだそのサイトに書かれていた通り、まずは尾形さんの手を取った。優しく手の甲を撫でて、そのまま指と指の間を揉む。反応が良ければキスとか……と思って尾形さんの顔を見て、俺は内心首を傾げた。
反応、どうなんだ? 普段から尾形さんは表情が変わりにくいところがあるけど、何となく空気が変わる。それで感情を読んでいたんだけど今日のコレは俺の緊張のせいもあるのか全く分からない。俺の目をずっと見たまま動かない。手を振り解かれないから嫌じゃないんだろうけど、反応が良いか悪いかでいうと、無? ここまで来て無なんてことある? 実は嫌だったとか? でもそれなら尾形さんのことだから暴れて、俺の腕の骨の一本や二本を折る勢いでホテルから出て行くだろう。
ということは、ホテルの中に入るのは同意、のはず。はずだよな。段々と不安になってきた。もう少し手を揉んで様子を見る?
なんて考えていたら、突然尾形さんのスマホから着信音が鳴り響く。サイドテーブルに載せていたそれと、尾形さんを見比べる。ぶーぶー震えるスマホはサイドテーブルの上をずるずる移動していた。
「ええと、電話、です」
「いい。どうせ仕事だ」
「や、でも、……ま、まだ、お互い服着てますし!」
確かに尾形さんはデート中でも仕事の電話がかかってくる忙しい人だ。いつもなら俺も、尾形さんが出なくていいって言うなら……と気にしていなかったけど今日は違う。これから大事な初体験が待っているっていうのに、気がかりなものがあるのはいけない。それはまるで隣の席でケンカしていたカップルが「表出ろ!」「お前がだよ!」と言いながら店を出て行った後みたいな気持ちになる。いけない。カップル、お願いだからケンカをしないでくれ。
俺はサイドテーブルに手を伸ばして尾形さんのスマホを取る。なるべく画面は見ないようにしていたんだけど、ちょっとだけ見えてしまった。電話の相手は多分仕事の人だと思う。苗字だけが表示されていた。でもそんなことより見慣れたマークだけどここで見るとは思っていなかったものも表示されていて、俺は驚きと困惑のまま尾形さんにスマホを渡す。
「あー、分かった」
と言い残して尾形さんはトイレに入っていった。残された俺は今見たスマホの画面を思い出す。
間違いだと思いたいんだけど、あれはしっかりばっちりwi-fiのマークだった。wi-fiのマークだったなぁ。なんで? え? 勝手に入る? 駅のwi-fiみたいに? え? と思って自分のスマホを確認するがそこにあのマークはない。部屋の中を見回すとwi-fiのIDとパスワードが書かれた紙が置かれていた。その通り入力すると俺のスマホもwi-fiが繋がった。そうだよな、繋がるよな。……繋がったなぁ。
え? 尾形さん、初めてだって言ってなかった? いやあれだけカッコいいんだからモテるのは分かる。だってカッコいいもん。そんな人がエッチしたことない、とかないよな。そうだよな。そりゃデートの定番コースである遊園地近くのラブホぐらい来たことあるよな。そうだよな。そう、だよなぁ……。
別に尾形さんが初めてだとかそうでないとかはどっちでもいいんだけど、そのことについて嘘を吐かれていたんだ、と思ったら急に悲しくなってきた。なんでそんな嘘を? 俺、一回でも初めての人になりたいって言ったっけ? そんなわけないよな。むしろ経験がある尾形さんにリードされる妄想で何回もヌイてきたわけだし。
じゃあなんで? 童貞の俺をバカにしてる? いやいやでもだってそんな、尾形さん、そんな。なんでぇ? と考えても答えは出ない。だってその答えは尾形さんしか知らないわけだし。
枕に顔を埋めて唸っていると、トイレの中から尾形さんが出てきた。パッと顔を上げる。前髪を掻き上げた尾形さんと目が合った。どうしよう、wi-fiの謎を解いた方がいいのかな。いいよな。そこをふんわりぼやかしたまんまじゃ多分きっと俺絶対集中できない。そんなのは尾形さんに失礼だ。
「夏太郎?」
「う、あの」
ベッドに乗り上げてきた尾形さんは不思議そうな顔をしている。そりゃそうだ。俺はうつ伏せのまま尾形さんを見上げているだけで、それ以上起き上がろうともしていないし、多分変な顔になっている。訳分からなくて泣きそうになってるのを我慢しているからだ。なんで泣きそうになっているのかは俺も分からない。
「かーん?」
尾形さんも並んで横になった。肘を立てて手のひらに頬を乗せる。何も言わない俺の前髪を耳にかけた。動かない俺に尾形さんが顔を近づける。するとちゅ、ちゅ、と優しく何度も額にキスをされて、俺は「う、にゃ」と鳴き声をあげた。俺、これ、好き。
「なんだよ、お前が電話に出ろって言ったんだろ」
「それ、はぁ、そうですけどぉ……」
俺がもにゃもにゃしているのはそこじゃなくて……。尾形さんのキスに押されて、俺は後ろに倒れる。一つに縛った髪が頭に刺さって痛いけど、今はそれどころじゃない。聞かなきゃ、ちゃんと、尾形さんに。
「わ、わいはい」
「ん? ……wi-fi?」
「お……尾形さんのスマホここのwi-fi拾ってましたよねアレってなんでですかここ来たことあるんですかいつ来たんですか誰と来たんですかセ……う、え、えっちの経験ないって言ってたの嘘ですか俺、俺は尾形さんが好きでその……その……」
最後は消えそうな声になる。なんか関係ないことまで口にした気がするけど、今はそれどころじゃない。俺の顔の横に両手をついていた尾形さんがぱちぱちとまばたきを二回した。なんだそれって顔をしている。
「wi-fi」
「wi-fi……?」
はらりと落ちてきた尾形さんの前髪が俺の目尻をくすぐった。
「き、来たこと、あるんですか……?」
尾形さんの目を見る。んー、と唸りながら尾形さんは俺の上から退いた。否定しないの!? そ、それはつまり。
「来たことは、ある」
「あるんですか!」
思わず腹筋だけで起き上がった。尾形さんは起き上がった俺の頭を撫でて、ぐちゃっとなった髪の毛を解く。そのまま髪ゴムは尾形さんの人差し指に引っかかってくるくる回されている。いいな、俺もそのゴムになりたい。でもそれは俺の物だから、たまーに尾形さんに触ってもらえるだけになっちゃうのか。それじゃあ良くないな。
「ある、んだが、あー……」
言葉を濁す尾形さんは珍しい。俺はちょっと気持ちが落ち着いてきたので、座ったまま尾形さんに近づいた。じい、と尾形さんの目を見る。尾形さんは俺から目を逸らして、俺を見て、少し考えてからもう一回頭を撫でてきた。
「その……一人で来た」
「……ん?」
一人で? ラブホに? 来た?
な、なんで……?
今の俺はすごくすごくすごーく「意味が分からない」と顔に書いてあるんだろうな。尾形さんの手を握ると冷たい。やわやわと揉むと、尾形さんは小さく笑った。
「いい、全部白状する。あのな、セックスの経験は俺もない。ないが、……年上だからと思って、色々下見を」
「下見?」
「今日は遊園地に行くって言われたから近くのホテルにいくつか入って……そもそもラブホって入ったことないからどういうもんなのか見たかったし。つってもやることねぇから時間まで動画見たりゲームするのにwi-fi繋いでっておい夏太郎お前」
「ええーん、だってぇ……」
そんな可愛い話を聞いて顔が緩まない俺はいない。尾形さんって本当に可愛い。俺は勢いのまま尾形さんに抱きついて、そのまま押し倒した。
「好き、好きです、尾形さん可愛い」
「んむ、おま、ぐ、う」
尾形さんの両頬を掴んで、何度もなんどもキスをする。ううー、でもでもこれじゃあ俺の気持ちは収まらないよぉ!
ぱさり、と肩に引っかかっていた髪が落ちる。毛先が尾形さんの頬を撫でて、くすぐったそうに笑うのを見たら、もう、もう、俺は!
「尾形さん! 俺、頑張りますので!」
「はは、頼りにしてる、ぞ」
大切にしますので! これからもずっと! よろしくお願いします!