何も見えない。聞こえない。喋れない。
辛うじて鼻は自由で息苦しさはないけれど匂いも感じない。
多分布か布テープで塞がれていると思うけれど、確かめられない。
僕の腕がない。
いや、痛みはないし、集中すればあるとわかるんだけど、二の腕から先が動かせないし感覚もない。脚も太股で途切れている。自分でも理解できない。
多分座っているけどお尻の感覚はフローリングでもクッションでもない。安定しているのに宙に浮いているみたいだ。
太陽のない宇宙ってこんな感じなのかな。もちろん行ったことはないけれど。
ついでに多分裸だ。パンツもはいてない。寒くも暑くもないのは幸いなのか。
それからやっぱり多分になるけど周囲には誰もいない。マレビトのノイズのような不快感も、犬や猫の呼吸や動き回る空気の流れも感じない。
僕以外滅びてしまったみたいだ。そんなことあるはずないけれど。
僕はどうなってしまったんだろう。
そもそもここはどこで何故こんなことになっているのか。
最後の記憶はアジトの帰り道、いつもバイクで通る道だ。
何も特別なことはなかったはずだ。麻里の待つ家に着いてバイクを降りて……そこで記憶が途切れている。
誘拐?こんなごく普通の成人男性を?周囲に不審な車はなかった。祟り屋の仕業?神隠し?だとすると助けを待つ他ない。
KKならきっと来てくれる。
倍近く年上だけど相棒でお互いに一番の理解者だと僕は思っている。不器用でぶっきらぼうで、でも優しい正義の味方。
本当は凄く不安で、こうやって考えてないとおかしくなってしまいそうで、今だってみっともなくぶるぶると震えてると思う。でもKKのことを考えると少しだけ胸の奥が暖かくなる。KKの入っていた場所。僕の心の拠り所だ。
それから唯一の肉親である麻里。色々あったけれど今でも大切な家族だ。
凛子さん、絵梨佳ちゃん、エドさんとデイルさん。新しい仲間もKKを助けてくれるはずだ。
そうしてどれくらい待っただろう。数分
か数時間か、それとも数日か数年か。
お腹もすかないし喉も乾かない。人は無音の中にいると一時間と経たず発狂すると聞いたけれど、意外と平気だ。蜘蛛の糸のことを思うと普通の精神状態ではないのかもしれないけど。まあ間違いなく普通の状態ではないか。
何かが来た。
僕は全身を強ばらせる。
今の僕は殺されても食べられても乗っ取られても抵抗できない。逃げることも悲鳴をあげることさえできない。されるがまま……まな板の上の鯉にも劣る。できるのは心構えだけだ。
何度か死にかけたけど、やっぱり死ぬのは怖い。死にたくない。死にたくない。死にたくない!
何かが頭を触る。痛くはない。撫でられた?この感覚を多分知っている。願望かも知れない。走馬灯かも。頭を撫でられるなんて久しぶりだと照れた記憶。そうかよと言葉は素っ気ないけど満更じゃなさそうな顔をしていた。
鼻先に何か当たる。思わず匂いを嗅ぐ。本能的な防衛反応だと思う。
汗と煙草の香り。僕の一番好きな。
KK!
叫びたいのに音一つ出せない。またさっきより強く頭を撫でられて全身から力が抜ける。どっと汗が噴き出た気がする。ふにゃふにゃの一反木綿みたいになってると思う。頭がおかしくなりそうだ。
大丈夫だと思ってたけど、全然大丈夫じゃなかった。
辛いよ怖いよ助けてKK。子どもみたいに大声で泣いてKKにしがみつきたいけどできない。
KKはわかってるみたいに僕の背中をぽんぽんと優しく叩いた。安心しろって言われてる気がする。でも残念ながらKKが助けに来てサッと僕を解放してくれてさあ脱出とはいかないみたいだ。期待していたのはほんの少しだけだけど、ガッカリしなかったわけではない。でもKKに任せれば大丈夫だ。信じよう。信じるしかないのだ。
僕の状態を確かめるようにKKがあちこち触る。頭、顔、首にも何か貼ってあってそのせいで自分の意思で頷いたり首を振ったりもできないようだ。肩、背中、胸……やっぱり手足はあるけどないみたいだ。縁の辺りを触られてくすぐったい感じがする。
もしかして下半身も触られる?それどころじゃないのはわかってるけど、ついドキドキしてしまう。
でも触られなかった。多分。感覚がないだけかもしれないけれど見えないのでわからない。
もしかしてもしかしなくても反応してた?だったら恥ずかしい。死にたい。死にたくないけど。
葛藤している間にお腹を触られる。ただのお腹、のはずなのにそこがカッと熱くなって痺れるような感覚が四肢と頭に走って僕はビクリと痙攣した、と思う。
今の何!?
聞きたいけど声が出ない。KKの顔を見ることもできないし声を聞くこともできない。
もどかしい、という僕の気持ちが通じたのかKKが僕の右耳に触れる。指先で養生テープ?を剥がそうとしているみたいだ。少し耳鳴りがする。コアを破壊する時みたいな抵抗を感じる。
手が離れてしまう。
どうしたんだろう。まさか無理とかないよな!?とりあえずここから出るとか。
僕の焦りなんか伝わるわけもなく、何も感じない時間が流れる。右耳にまた何かが当たる。指じゃない。熱は感じるからKKだとは思うけど。なんだろう?更に何かをかけられる。多分液体?そんな儀式に覚えはない。よほど特殊な状況にいるのだろう。自分に言い聞かせていると再び耳のテープを引っかかれる。何故かお腹も撫でられて、特別何も感じないはずなのに何故か変な感じになる。なんだろう…猫が顎を撫でられている時みたいな?この状態になってから大分感覚が希薄なんだけど、お腹を触られるのはすごく感じる。本当に頭よりも優しく撫でられているだけなのに。
やっと右耳を塞いでいたものが剥がされた。でも音はほとんどない。ここには僕とKKがいて、他には何もないみたいだ。防音の地下室か異空間か。あきと、と耳元でKKが囁く。ここまできてKKじゃなかったらどうしようと思っていたけど間違いなくKKだ。化けている可能性も否定できないけど、KKは少し焦っているか興奮しているようだ。いつもより声が上ずって、しかし押し殺すように続けた。
「黙って聞いてろ」
そう言われても僕は反応を返すことができない。こんな重箱の隅をつつくようなことも心の中で思うだけだ。
「右耳はオレとの繋がりが深いから楽に外せたが他は慎重に進める必要がある」
これでも楽なんだ。でも剥がせないわけではないとわかると希望もわいてくる。それからKKとの繋がりというのも嬉しい。僕の気持ちの問題ではなくきちんとあるのは初めて知った。KKがそれを認識しているのも。
「目や口から外してやりたいがバレるから後だ」
何にバレるのだろう。もちろん聞くことはできない。バレても倒せばいい、とならないということはかなり強力な相手になる。僕が足手まといになるのも大いにあると思うけど、どちらにせよ何かしらの元凶がいるということだ。良いニュースの後に悪いニュースがあるとゲンナリする。でも悪いのはKKではない。協力して立ち向かわなくてはならない。僕に何かできるとは思えないけど。
「真っ先にオマエの純潔を奪う必要がある」
純潔?
降ってわいた言葉を聞き返す術は、しつこいようだけど僕にはない。
少々古風な言葉に思い浮かべるのはユニコーンだ。清らかな乙女の前にしか姿を現さないというファンタジーな生物。僕は男だけど、男だけど純潔というか処女というのはまあ、ある。確かに僕は男性経験がないから純潔なのだろう。
つまり僕はユニコーンにさらわれて、助けるためには穢れる必要があるとKKは言っているのだ。
では僕の純潔を奪うのは誰か。
「後でオレを訴えても気のすむまで殴ってもいいから今だけ我慢しろ」
ここには僕とKKしかいない。見えなくてもわかっている。つまりそういうことなのだ。