重ねて、分け合って 街で所用を済ませ屋敷に戻ったハナマルは、玄関でユーハンに呼び止められてぎくりと肩を揺らした。
もっとも、なにか叱られるようなことをしでかした覚えがあるわけではなかった。今日はきちんと言いつけられた用件を果たしてきたし、賭場へ寄り道もしていない。
だからこれは、条件反射のようなものだ。ハナマルは普段、同じ部屋で暮らすこの真面目な青年から、小言をもらってばかりいるので。
「な、なんだよユーハン。今日はまだ、なにもしてねえぞ」
「……これからなにかしでかすような物言いはやめてください。小言を言うために呼び止めたわけではないですよ」
「あれ、そうなのか?」
なにを言われるのかと構えていたハナマルは、ユーハンの応えに拍子抜けして首を傾げた。ユーハンは大仰にため息をつく。
「主様があなたを探していたので、それをお伝えしようと思ったのです」
それだけ告げると、ユーハンは颯爽と去っていった。しなやかな背が遠ざかるのを見送りながら、ハナマルは再度首を傾げる。
「主様が……?」
独り言ちて、ハナマルは主人の顔を思い浮かべた。今日は休日だという彼女は、昨晩からこちらで過ごしている。残念ながら担当執事の順番ではないので、ハナマルはなにか口実を作って主人の元を訪ねるつもりでいたのだが。
「こりゃあ、渡りに船ってやつだな」
わざわざ作らずとも、主人を訪ねる用事ができたのは僥倖だ。ハナマルは口許を笑みに歪めると、足早に歩き出した。向かうのは二階にある、主人の私室だ。
扉をノックをすると、すぐさま「どうぞ」と応答があった。
「こんにちは、主様」
「ハナマル……えっと、こ、こんにちは……」
探していたというのだから、姿を見せれば笑顔を見せてくれるだろう。そう思っていたハナマルだったが、主人は彼の予想とは裏腹に、ハナマルの顔を見るなり気まずそうな表情を浮かべた。思いがけない態度に困惑して、ハナマルは後ろ髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「えーっと……ユーハンから、主様が俺を探してたって聞いて来たんだけど……」
「あ、えっと……そ、そうなんだね。その……わざわざ来てくれて、ありがとう」
「ああ。それで? 俺になんか用事かい?」
ハナマルのほうを向いてはいるものの、主人は視線を微妙に逸らしていて目が合わない。用向きを問うと、彼女はついに顔を俯かせてしまった。
「用があると言えば、あるんだけど……でも、大した用じゃないっていうか、なんていうか……」
やけに歯切れの悪い言い方だ。探していたという割に妙な態度も、奥歯に物が詰まったような言葉の真意も、話を聞かないことにはなにもわからない。ハナマルは少し考えて、主人が口を割らざるを得ないように言葉を選んだ。
「大した用かどうかは俺が決める。だからまずは、主様の用事ってやつを聞かせてくれ」
「う……それは、確かにそうだね……」
観念した様子の主人は、机の引き出しを開けて中身を取り出した。両手でそっと包むように運ばれてきたのは、甘い香りを漂わせる桃だ。
「桃?」
「うん。今日のデザートに使うんだって」
なんでも、街での買い物から戻ってきたロノと行き会って、一つもらったのだという。新鮮な果実はそのまま食べても美味しい。料理人であるロノらしい気遣いだった。
「そのときにね、ハナマルがしばらく桃を食べてないって言ってたのを思い出して……」
主人の言う会話の内容は、ハナマルにも覚えがあった。旬の食べ物は旨いし栄養も豊富なのだという話をしていたときのことだったと思う。
教会で暮らしていたころ、この時季になると子どもらのために桃を買ってやったこと。高くて一つしか買えないから、四等分して子どもたちに一切れずつやって、自分は食べられずにいたこと。そんな思い出を、ハナマルはあのとき主人につらつらと語った。
桃の話を始めたときのハナマルは、そんなことまで話すつもりはなかったのだ。けれど主人が、ハナマルの子育ての話を楽しそうに、可笑しそうに聞いてくれるものだから、ついつい喋りすぎてしまった。
「だから、ハナマルと半分こして食べたいなって、思ったんだけど……探してる途中で、わざわざ私と半分にしなくても、今は好きなだけ食べられるんだって気づいて、それで……」
気恥ずかしくなってしまったのだというのは、皆まで言われずとも理解できた。
ハナマルは、桃を包んだままの主人の手に、自分の手を重ねた。驚いたのか彼女は顔を上げて、それでようやく目線が合う。ハナマルは自然と笑みを零した。
「なあ、主様。それさ、主様と俺の立場が逆だったらって、考えてみてくれ。主様が俺の立場だったら、いつでも好きなだけ食べられるからこの桃はいらないって、そう思うか?」
「思わないよ! そんなふうには絶対思わない! 日々の何気ない会話の内容を覚えていてくれたことも、一緒に食べたいって思ってくれたことも、全部嬉しいって……あ……」
「な? 俺も、主様と同じだよ」
合点がいった様子で、主人は小さく「そっか」と呟いた。肩や眉間に入っていた余分な力が抜けて、ハナマルが見たかった笑顔が花のかんばせに浮かぶ。
「すげー嬉しいよ。ありがとな、主様」
「うん。喜んでくれて、よかった」
こうして桃は無事、ハナマルと主人の口に入ることになった。よく熟れた桃は甘く瑞々しい。ハナマルには、ずいぶん昔に食べた桃の何倍も美味しく感じられた。
世界中のどこを探しても、これ以上に旨い桃は見つけられないだろうな。そんなことを思いながら、ハナマルは最後の一欠片を口に放り込む。美味しいねと言ってハナマルを見上げる主人の顔に、ついこの間まで一緒に暮らしていた子どもらの顔が重なって見えた。