ないものねだり 宛てがわれた宿の一室でベッドに身を横たえたハナマルは、酒精が入ったわりに冴えてしまった目で、ぼうっと天井を眺めた。ついと利き手を天に伸ばす。緩く拳を握ると、掴んでおきたかった大事なものの記憶が脳裏を駆け抜けた。
感傷的な気分になっているのは、ルカスを相手に過去の話をしたからだろう。まさか中央の大地に、燃え尽きた郷里のことを知っている人間がいるとは思わなかった。
「百年経てば、か……」
刺青を消したいと相談したハナマルに、刻まれた印は消えずとも人々の記憶のほうが風化すると、ルカスは言った。確かにそうだとハナマルも思った。
だが、背に負った龍の意味を知るものがいなくなるのにそれだけ年月がかかるのだとすれば、彼が唯一と定めた主人がハナマルの出自を知る日が、いずれやってくるかもしれない。
叶うことなら知られずに済ませたいと思うのは、ハナマルが臆病だからなのだろう。賞金を掛けられるような極悪人が相手とはいえ、ハナマルが稼業にしていたのは、要するに人殺しだ。
時折、夢に見る。いつも穏やかな笑みを湛えている主人の顔が恐怖に強ばり、心をすくい上げる言葉をくれる唇で「人殺し」と詰る、最低の夢を。
全てを知ったら、主様は俺を怖がるのではないか。そうなったら、傍に置いてはもらえないだろう。
心のどこかでそう思っているから、そんな夢を見るのだ。打ち明けて、反応を確かめる勇気がないから。
ハナマルは戯れに、あちらはどんな世界なのかと訊ねたことがある。優しく美しい彼の主人がどんな場所で育ったのか、興味があったのだ。
彼女の語った世界は、決して優しいばかりの楽園ではない。それでも、平和ではあった。理不尽に命を奪われることを、心配しなくてもいい世界。そういう場所で育まれた彼女のことを、得がたい、尊いものに思った。
同時に――自分とはかけ離れた存在であるとも思った。血に塗れた手で彼女に触れることが畏れ多くて、ハナマルは未だ、手袋越しでなければ触ることを躊躇ってしまう。尤も、執事たるハナマルが主人に触れる機会など、そうそうあるものでもないが。
「……もっと早くに会いたかったねえ」
命を奪い、報いのように奪われた。もはや望むこともないが、もしも一つだけ許されるなら、今の自分になる前に、もっと別の形で彼女に会いたかったと思う。
わかってはいるのだ。彼女は別の世界の住人で、悪魔執事の主人となるべくこちらへ呼ばれた。奪って、奪われて、悪魔執事になる道を選んだ今のハナマルでなければ、出会うこともなかったはずだ。
「はあ……くよくよ考えてても仕方ない、か。こういうときは……」
ハナマルは起き上がって、得物の鞘を掴んだ。音も気配も消して、宿を抜け出す。街はずれまで来るとそこで刀を抜き、無心で素振りを始めた。
詮無いことを考えてしまうときは、体を動かすに限る。素振りを千回もこなせば、そのうち眠気がやってくるはずだ。寝入りが遅くなった分、明日もまた、朝は起きられないだろうけれど。
だが、それでいい。少なくとも大酒を食らって朝寝坊をするような、だらしのない男だと思われている間は、後暗い過去を隠そうと、必死にならずに済むのだから。