幸福が降り注ぎますように とある朝のこと。主人の起床時刻に寝室を訪ねたハウレスは、いつまでたってもノックに応答がないことに首を傾げた。
常であれば、すぐに「どうぞ」と応えがあるのだが。ハウレスの主人は寝坊も二度寝もめったにしないしっかり者で、彼が起床の声掛けにくるころには、身支度まで済ませていることがほとんどなのだ。
「失礼いたします。主様、起床のお時間ですよ」
もしかしたら今朝は、主人の貴重な寝起き姿が見られるかもしれない。不謹慎とは思いながらも、胸を躍らせながらハウレスは扉を開けた。しかし、ことは彼が思っていたほど簡単ではないようだった。
まだ眠っていると思われた主人は、ぱっちりと目を開いていた。しかし体は未だベッドの上にあり、毛布にくるまったまま。起きたくないと、全身で主張しているようにハウレスには見えた。
「おはようございます、主様。……どこかお加減が優れないのでしょうか?」
「……ううん」
体を丸めたまま、彼女は首を横に振った。浮かない表情をしてはいるが、見たところ顔色は悪くない。体調不良や睡眠不足ではなさそうだ。であれば、あとは気持ちの問題か。
ハウレスとしては、見るからに辛そうな主人を無理やり起こすことはしたくない。彼女は普段、頑張りすぎだと言えるほど頑張っているのだから、たまに休むくらいでちょうどいいと思う。けれど明確な理由のないまま休みを取った場合、真面目な主人が「サボってしまった」と後悔に苛まれることもまた、容易に想像がついた。
「……ハウレス」
起こすべきか、休ませるべきか。究極の二択を迫られていたハウレスは、主人に名を呼ばれるなり思考を放り投げた。
「はい、いかがいたしましたか?」
「手を、貸してほしい……」
「はい。かしこまりました」
聞いたことのないような弱々しい主人の声に、ハウレスの胸は痛んだ。自分にできることがあるなら、なんだってして差しあげたい。その一心で、ハウレスは主人の枕元に跪いて両手を差し出した。
「……ありがとう」
主人はゆっくりと身を起こした。差し出したハウレスの手に、小さな手が重ねられる。彼女は片方を引き寄せて、そこに頬を寄せた。ぽろりと一粒、目尻から涙が落ちて、手袋に吸い込まれ消えた。
「主様……」
「だいじょうぶ……大丈夫」
主人はそっと目を伏せ、深呼吸を数度繰り返した。そうして目を開くとパッと手を離し、力なく笑みを浮かべる。
「ありがとう、ハウレス。面倒かけてごめんね」
「そんなふうに言わないでください! 主様の助けになれたのなら、俺にとってそれ以上の喜びはないのですから」
「……うん。ありがとう」
以降の主人は、いつも通りの様子に見えた。けれど、先ほどの姿を見ているハウレスも目には、どうしても無理をしているように映ってしまう。
なにかほかに、主様のためにして差し上げられることはないか。
主人が朝食をとる間、考えを巡らせていたハウレスの脳裏に、閃くものがあった。食後のお茶の給仕をベリアンに任せ、裏庭へ走る。
「確か、この辺りに……あった!」
ハウレスが覆い被さるようにして覗きこんだのは、クローバーの茂みだった。早朝のトレーニング中に、ここで四葉のクローバーを見つけたのだ。近いうち、主人を散歩に誘って案内するつもりでいたが、今朝の彼女にこそ、四葉のもたらす幸運は必要だろう。
根元から摘み取った葉を、ハウレスはそっとハンカチに包んだ。急いで主人の元へ戻る。
しかし駆け込んだ食堂に主人の姿はなく、ハウレスは踵を返して階段を駆け上がった。普段のハウレスであれば決してやらない無作法だったが、急がなければ主人は仕事へ出かけてしまう。
「主様、失礼いたします!」
弾む息はそのまま、ハウレスはノックもせずに扉を開けた。主人は忘れ物がないかどうか、荷物の確認をしているところらしかった。出勤用のカバンの傍に、ロノが用意したのであろう弁当包が置かれている。
「ハウレス? どうしたの、そんなに急いで……?」
「申し訳ありません……どうしてもお出かけの前に、主様にお渡ししたいものがあって……」
ハウレスは深く息をついて呼吸を整えると、懐からハンカチを取り出し広げてみせた。不思議そうにしていた主人が、中から現れた四葉のクローバーに目を瞠る。
「すごい、四葉のクローバーだ!」
「はい。俺たちの世界では、四葉のクローバーは幸運を運ぶものとして有名なんです。これは俺が見つけたものですが、四葉に向かって大切なひとの名前を三回唱えると、その人のところにも幸運がやってくると言われているんです」
見つけたその場で手折るのではなく、四葉の元までわざわざ主人を連れていこうとしたのは、その葉のもたらす全ての幸運を、大切な彼女に受け取ってほしかったからだ。残念ながら、その願いは叶えられなかったけれど。
「……主様、手を出していただけますか?」
「う、うん」
小さな手のひらに四葉を乗せて、ハウレスは両手でそっと包むように握った。自分へもたらされる幸運も全て、主人のもとへ注がれるように。祈りを込めながら、この世でいっとう大切な名前を唱える。
「今日という日が、主様にとって幸せなものでありますように。四葉は、このままお持ちください」
「いいの?」
「はい。主様のために、お持ちしたものですから」
「……ありがとう、ハウレス。本当に、ありがとう」
それからまもなく、主人は金の指輪を指から抜いて、ハウレスの手の届かぬ世界へと帰っていった。行ってきますと告げた声が、平生の溌剌さを取り戻していたように聞こえたのが、ハウレスの願望ばかりでなければいい。
気休め程度にしかならないかもしれない。それでも、世界を越えて傍に在れないハウレスに代わり、渡した四葉のクローバーが、少しでも主人の気分を上げてくれることを、祈るばかりだった。