悪夢のしりぞけ方 ハウレスはエスポワールの街中に佇んで、呆然と雑踏を眺めていた。
多くの商店が軒を列ねる大通りは、日頃から多くの人で賑わっている。幅広の通りはいつものように人でごった返していたが、いつもと違い、皆が同じほうを目指して歩いているのが奇妙だった。
なにかあるのだろうか。興味を引かれたハウレスは、足を踏み出して雑踏の中へ入った。途端に、周囲の興奮したような囁き声に取り囲まれる。
「火あぶりだってさ」
「当然の方法だよ。なにしろ奴は人類の敵なんだから」
「天使と通じてたなんて、とんでもない悪女だな」
「許せないよ。死んで当然だ」
虫の羽音のような、不快なさざめきが寄せては返す。悪意と恐怖、それから独善的な正義。それらを煮つめて凝らせたような感情が、人々の声や表情に塗りたくられていた。
嫌な予感がする。
ハウレスは氷の手で心臓を鷲掴みにされたような心地を覚えた。自然、歩みが早まる。聞こえるのは、もはや自分の鼓動ばかりだ。
早く、もっと早く。気は急くのに、人垣を押しのけて走り出すこともできず、もどかしさが募る。急がなければ、間に合わなくなってしまうのに!
天使と通じていた人類の敵が、火刑に処される。
まさか、そんなはずはない。そう信じたいのに、たどり着いた広場の中央で磔にされていたのは、ハウレスにとっていっとう特別で、大切な人だった。
「……あるじさま」
これは、夢だ。ハウレスの大切な主人が処刑されたというのは、知能天使がハウレスの心を折るために吐いた、真っ赤な嘘だったはず。
頭の奥のほうで、冷静な自分が言う。けれどその声は、人としての尊厳を踏みにじられ、謂れなき罪のために殺されそうになっている主人の姿を前に、あっけなくかき消されてしまった。ハウレスの思考はもはや、「早くあの方を助けて差し上げなければ」という焦りで塗りつぶされていた。
「主様!」
ハウレスは、一目散に主人の元へ駆け寄ろうとした。それを阻むように、処刑を見物にきた野次馬が立ち塞がる。彼は必死に、彼らの間をかいくぐろうとした。けれど群衆の壁は徐々に分厚さを増していき、主人の姿はどんどんと遠ざかっていく。
「主様!」
そして、ついに――ほとんど悲鳴のように主人を呼んだハウレスの声を遮って、刑の執行が宣言された。火の手が上がり、苦悶の絶叫が広場に響く。
「熱い……! 痛い……! 助けて……助けて……!! 助けて、ハウレス……!!」
悲痛な声で自分の名が呼ばれるのを、ハウレスは確かに聞いた。
勢いよく体を跳ね起こして、ハウレスは荒い息をついた。
寝汗と涙で、頬が冷たい。うるさい鼓動ばかりを拾う聴覚が、やがて同室の執事たちの静かな寝息を捉え、それでようやく、ハウレスは夢を見ていたのだと我に返った。
なんという、酷い悪夢だろう。ハウレスは濡れた顔を両手で覆った。遥か昔に亡くした妹の夢を見たときと同じか、あるいはそれ以上に心がぐちゃぐちゃだ。このままでは、今夜は僅かにまどろむことすらできそうにない。
(……主様)
深く、肺が空になるまで息を吐き出す。それからおざなりに顔を拭うと、ハウレス静かにベッドを降りた。
主人が無事であることは理解している。ルカスの尽力によって、主人は投獄さえされずに済んだと聞いた。ハウレスへかけられた疑念も晴れた今、彼女はなにを憂うこともなく、彼女の部屋のベッドで、穏やかに眠っていることだろう。
起こすつもりはない。ただ己の目で、彼女の無事を確かめたいだけ。一目でいい。彼女が優しい眠りの中にいるとわかれば、言葉を交わさずとも気持ちを落ち着けられるはずだから。
部屋を抜け出したハウレスは、足音も立てずに廊下を進んだ。主人の部屋のドアを細く開けて、体を滑り込ませる。
執事としては、あまりにも礼を失した振舞いだ。尤も、主人はハウレスの行動を知ったところで、怒ることはしないだろうけれど。むしろ、起こしてくれればよかったのにと言って、悪夢に傷つけられたハウレスの心を心配してくれるに違いない。そういう人なのだ。
執事の身でありながら、浅ましくも彼女の優しさに縋ろうとしている。ハウレスの胸に、そんな自分に対する苦い失望が広がった。支えたい、頼ってほしいと願う反面、本当はハウレスこそが主人の存在を頼りにして、支えられている。
ゆっくりとベッドに近づきながら、途中でハウレスは眉間に皺を寄せた。部屋の中に、人の気配がないのだ。寝息も聞こえない。
「……主様?」
小さく呼びかけて、ハウレスはベッドへ大股で近寄る。果たして、そこはもぬけの殻だった。温もりを探すように手を這わせたシーツはすでに冷たく、彼女がベッドを出てからしばらく経っていることを知らせた。
いつもの場所に指輪はないので、向こうの世界に戻ったわけではないはずだ。靴での生活に慣れない主人のためにフルーレが作った室内履きもないので、屋敷内にはいるのだろう。
しかし、在るはずの場所に探し人がいないという事実は、ただでさえ悪夢で傷ついていたハウレスの心を、さらに抉った。大切な人を失う恐怖が体中を這い回り、思わず叫び出したくなる。
いてもたってもいられず、ハウレスは主人の部屋を出た。
どこに行ってしまったのだろう。僅かな痕跡でもいい、なにか手がかりはないかと辺りを見回して、ハウレスは図書室の扉が僅かに開いていることに気づいた。
ふらふらと吸い寄せられるように、図書室の扉をくぐる。僅かに夜風が頬を撫でた。バルコニーへ続く窓へ向かったハウレスは、そこでようやく求めていた人の後ろ姿を見つけた。
「……――様」
「え……ハウレス?」
めったに呼ばない名前で呼びかければ、下ろしたままの黒髪を揺らして、主人が振り返った。夜闇の中にも関わらず、彼女の驚いた顔がはっきりと見える。今夜はずいぶん月が明るいようだ。
もっと、あの方の近くに。ハウレスが心のまま傍に寄ると、主人はなぜか、ぎょっとしたように目を見開いた。
「え、なに? どうしたの、ハウレス? なんか死にそうな顔してない? 顔色も、真っ青を通り越して真っ白だし……」
小声で、心配そうにまくし立てる主人を見て、ハウレスは泣き出したくなった。唇を噛んで、その衝動をなんとかやり過ごす。
大切な人が、生きて傍にいてくれる。名前を呼んでくれる。自分を心配してくれる。それを実感して、ハウレス乱れた心の中を安堵が駆け巡った。
「ひどい悪夢を、見て……ですが、主様のお顔を見て、少し、落ち着きました……」
「そっか……あの、悪夢って、妹さんの……?」
「……いいえ」
気遣わしげに問われて、ハウレスは言葉を詰まらせた。大切な人に嘘をつくのが嫌で、なんとか否定だけは返したものの、夢の内容を告げることはできなかった。
声に出して、もしもあれが現実になってしまったら。虚構のものではあったが、妹だけでなく主人まで亡くしてしまったと思った瞬間の絶望は、まだ生々しくハウレスの脳裏に、胸裡に刻まれている。
「……違ってたら、あれなんだけどさ。……もしかして、私が死ぬ夢、とか?」
「!」
核心をついた主人の問いに、ハウレスは肩を揺らす。隠しきれない動揺に気づいて、主人は苦笑を浮かべた。
「……そっか」
「あの……俺……もうしわけ、ありません」
とっさに謝ってしまったものの、なにに対する謝罪なのかは、ハウレス自身にもわからなかった。それ以上、返す言葉も見当たらなくて、顔を俯かせる。
鏡を見なくとも、情けない顔をしている自覚があった。取り繕うだけの余裕もない。デビルズパレスの悪魔執事としてではなく、ただのハウレス・クリフォードとして主人の前に立つことが畏れ多くて、ハウレスは顔を隠すように前髪を握りしめた。
「ハウレス」
主人は静かな声で、ハウレスを呼んだ。草花に潤いを与える朝露のように、それは罅の入った彼の心に温かく染みていく。
ゆるゆると顔を上げ、腕を下ろしたハウレスを、主人は穏やかな顔で見上げていた。と思った次の瞬間、彼女は無防備な男の胸元に飛び込んできた。艶やかな黒髪に覆われた後頭部しか見えなくなって、代わりとばかりに、触れ合った場所から柔らかな温もりが伝わってくる。
「あ、主様……なに、を……」
主人と執事ではありえない至近距離に、ハウレスは慌てふためいて腕をさ迷わせた。一方で主人のほうは、離さないぞとばかりに細い腕をハウレスの背に巻つけている。
「これが、一番手っ取り早いかなと思って。私、生きてるよ。温かいでしょう? ちゃんと触れるでしょう?」
言われて、ハウレスは抵抗をやめた。置き場のわからなかった腕で、躊躇いがちに主人の体を抱き寄せる。すると彼女は、ハウレスの背を優しくさすってくれた。
自分のものではない体温を噛みしめるように、ハウレスは目を閉じる。目尻から涙が一粒、溢れて頬を転がり落ちていった。
「私は、大丈夫だよ。だって、みんなが守ってくれるもの。だから、大丈夫。私は……たぶんいつかは、あなたたちを置いていくことになるだろうけれど。でも、それはまだ、しばらく先のことのはずだから」
大丈夫だと繰り返す主人の声には、揺らがぬ確信が感じられた。ふと、夢で聞いた悲痛な断末魔が耳に蘇って、ハウレスは「この人はきっと、あんなふうに助けを呼ぶことはしないだろうな」と独り言ちた。
まだつき合いは浅いけれど、それでも、それくらいはわかる。ハウレスの主人は、悪魔執事たちがなにをおいても主人たる彼女の命と安全を優先すると、信じてくれている。ハウレスたちが信じてほしいと差し出した願いを、彼女は受けとって、そして応えてくれたのだ。
だから、きっと。絶対絶命の場面でもこの人は、ハウレスたちが必ず助けに来ると愚直に信じて、待っていてくれるだろう。そして――ハウレスがその信頼を裏切ることは、絶対にない。
ぐちゃぐちゃに混乱していた心が凪いでいく。瞑想中のように、息をゆっくり吸ってゆっくり吐けば、主人の使っているヘアオイルの甘い香りが、ハウレスの胸を満たした。
それからしばらく、ハウレスは主人の優しさに甘えていた。やがて腕を解いて、大切な人の名を丁寧に紡ぐ。呼ばれた主人が一歩下がって距離を開けると、与えられた温もりをぬぐい去るように夜風が抜けた。その冷たさは、ハウレスに執事として正しく在れと命じるようだった。
「主様、取り乱して申し訳ありませんでした」
「気にしないで。……少しだけでも、眠れそう?」
「はい。主様のおかげです」
「それならよかった」
朗らかに笑う主人に、ハウレスは穏やかな笑みを返した。
今夜のことを忘れずにいようと、ハウレスは密かに決意した。抱きしめた体の温もりや柔らかさは、忘れようとしたところで、忘れられるものでもないのだけれど。それはそれとして。
信頼されていると知っている。ハウレスも、主人を信頼している。だから、きっと――理不尽に奪われるだけの夢は、もう見ない。