気づけばあんたのことばかり いつ主人が帰ってきてもいいよう部屋を整えたボスキは、作業を終えると手持ち無沙汰になって、時計を見やった。
時刻は二十時をすぎたところだ。いつもならあちらの世界で仕事を終えた主人が帰ってくるころだが、今日は予め、遅くなると聞かされている。少なくともあと一時間は帰ってこないだろう。
つい「早く帰ってこねえかな」と独り言ち、ボスキは慌てて周囲を見回した。屋敷の主人の帰宅を待ちわびているのは彼だけではないが、それをほかの執事に聞かれるのは面映ゆい。ましてや本人に聞かれてしまったら、しばらくはどんな顔をすればいいのかわからなくなるだろう。
緩んだ気を引き締め直すように深呼吸を一つ。待っている間にトレーニングでもしようかと思ったところで、まだしばらく帰らないはずの主人が帰ってきた。
「主様?」
「た、ただいま、ボスキ」
「ああ、おかえり」
予定より早い時間に帰ってきたこともそうだが、彼女が寒そうに両腕を摩っているのを見て、ボスキは目を瞬かせた。
九月に入り、こちらは日に日に秋が深まっている。だが先日、主人から聞いたところによれば、向こうでは夏の厳しい暑さが尾を引いていて、まだまだ半袖一枚で過ごせそうだということだった。
「寒いのか? 大丈夫かよ」
ともかくまずは座ってもらおうと、ボスキは手を差し出した。
出会ったばかりのころの彼女は、ほんの僅かな距離の移動でもエスコートしようとする執事たちに戸惑っていたものだが、今では慣れたものだ。迷いなく重ねられた手をそっと握って、その氷のごとき冷たさに、ボスキはぎょっとしてしまった。
「おい、すげえ冷えてるじゃねえか!」
ボスキはエスコートする先を、いつもの一人掛けソファではなく、暖炉のそばのロッキングチェアへと変更した。朝晩は冷え込むようになったため、屋敷では日が高くなるまでと日が落ちてからは、暖炉に火を入れているのだ。
ゆらゆら揺れるチェアに座ると、主人は火の温かさにほっとしたように息をついた。ボスキはすかさず、ブランケットを膝にかけてやる。
「ありがとう、ボスキ」
「大したことじゃねえよ。主様が風邪を引いたら大変だからな。それで、なにがあったんだよ?」
問いながら、ボスキは紅茶の用意をする。右の義手でミスをしないように気をつけているのだろう、慎重な動きだった。
「向こうでは冷房……室内を涼しくする設備が発達してるって、前に話したことがあるでしょ? 今日、すごく暑くてさ。そのせいか、どこに行っても冷房がガンガンで、寒くて。そういうときに限って、上着は忘れちゃうし」
電車が寒すぎて耐えられず、途中の駅で降りて帰ってきたのだと、主人は説明した。
「なるほどな」
ボスキは得心したという顔で頷いた。彼の主人は、もともと冷房があまり得意ではないのだ。あちらの世界の空調設備について教えてくれたときに彼女がそう言っていたのを、ボスキは覚えていた。屋敷ならば冷房をかけなくても寝苦しくないからと、夏に入って屋敷で夜を過ごすことが増えたことからも、その苦手具合がわかる。
主人の暮らす世界と比べると、こちらは暑さが穏やからしい。一体あちらはどれだけ暑いのだろうかと、暑さの苦手なボスキは考えるだけで辟易とする。
「主様、紅茶が入ったぞ。それを飲んで、寛いでいてくれ。俺はフェネスに声をかけてくる」
「えっ。そんな、いいよ。これを飲んだら一旦帰ってもろもろ済ませてくるから。こっちで入る予定じゃなかったんだし、仕事を増やしたら申し訳ないから……」
こんなときでも遠慮ばかりの主人に、ボスキは大仰にため息をついた。
「ダメだ。向こうに戻ったら、どうせシャワーだけで済ませるだろ」
「うっ……」
「主様」
ボスキはチェアの肘置きに手をついて、ずいと身を乗り出した。幸いというべきか、主人はボスキの顔に弱い。声にも弱い。顔を近づけて囁けば、大抵のことは押し通せてしまう。今、利用しない手はないだろう。
彼は自分の容姿の美醜に頓着するほうではなかったが、自分の顔が主人の好みらしいと知って悪い気はしない。こんな醜い傷のある顔が好きだとは、変わった嗜好だとは思うが。
声も、低くて聞き取りにくいばかりだと思っていたが、彼女がいい声だとやたらに褒めるので、近ごろはこの声でよかったと思うようになっていた。
「外と室内の温度差で、体は相当疲れているはずだ。こんなに冷えているんだから、ちゃんと温まらないと体調を崩すぞ。まあ、それならそれで、俺がつきっきりで看病するだけだが……風呂、入るよな? それとも俺が入れてやろうか?」
「自分ではいります!」
「よし」
言質をとって体を離す。主人は目元を朱に染めていた。可愛らしいことだと、ボスキはふっと笑みを落とした。
「……少しは温まったみたいだな」
そう言って、手袋をはめた手でするりと頬を撫でる。主人は耳から首筋までをパッと赤らめて、ブランケットを引き上げて顔を隠してしまった。そんなときでもカップはソーサーに戻しているのだから、律儀というか、なんというか。
さて。フェネスに風呂の準備を頼みに行かなければならないが、ボスキとしては、大事なひとの愛らしい様子をもうしばらく眺めていたい気分だった。
放置されたティーカップから湯気が消えていることに気づいて、ボスキはにやりと唇の端を上げた。執事として、主人にぬるい紅茶を飲ませるわけにはいかない。いい口実が見つかった。彼は先ほど同様、慎重に紅茶の準備をしながら、考える。
ブランケットに隠れてしまった主人に出てきてもらうには、どうしたらいいだろう。せっかく一緒にいられるのだから、顔が見たい。
もちろん笑った顔が一番素敵だが、彼女の照れた顔も、怒った顔も、泣いている顔でさえ、見逃したくはない。ましてや今は、ボスキのせいで可愛い顔をしているに違いないのだから。