愛の出来損ない「次はわたし!」
「ぼくが先だよ!」
子どもたちの騒ぐ声が聞こえて、ミヤジは慌てて部屋のドアを開けた。今回、教室として使わせてもらった孤児院の一室には、まだ生徒たちと彼の主人がいるはずだった。
ミヤジは休日を利用して、子どもたちに勉強を教えるため街を訪れていた。
教室となる場所はその時々によっていろいろだが、今日は以前から、町外れにあるこの孤児院の部屋を使わせてもらう約束になっていた。ひととおりの授業のあと、ミヤジは子どもたちを主人に任せ、挨拶と次回の約束のため院長の元を訪ねていたのだが。
「なにかあったのかい!?」
思いのほか大きな音を立てて開いた扉に、中にいた者は皆、驚いたようだった。言い争っていた二人の子どもも口を噤んで、ぽかんとミヤジを見つめている。
「さあ、二人とも。そんなに引っ張ったら痛いから、一度離してくれる?」
部屋の中央で、穏やかな声がした。声の主はミヤジの主人だ。
二つの世界を行き来して二重生活を送る彼女は、なんでもあちらの世界では子どもを預かる仕事をしているらしい。ミヤジの授業に興味があるからと言って、予定が合えばこうしてついてきてくれる。幾度かを経て、子どもたちもすっかり彼女に懐いていた。
「でも……でも!」
「だってさあ!」
言い争っていた子どもたちの手は、主人を掴んだまま。彼らも我に返ったらしく、再び声高に主張を述べようとする。
子どもの力とはいえ、強く掴まれ引っ張られれば、それなりに痛いはずだ。これ以上、大切な主人をそんな目に合わせるわけにはいかない。ミヤジは子どもたちを彼女から引きはがすため、大きく一歩、足を踏み出した。
だが。そんなミヤジに、主人は微笑んで見せた。大丈夫だから、見ていて。言葉はなくともそんな声が聞こえた気がして、彼はハラハラしながらも踏み出した足を下げる。
「大丈夫。ちゃんとそれぞれの言い分を聞くから。まずは離して。ね、お願い」
「う〜……」
「でも……」
「せーの、で離してね。せーの、ぱっ!」
ぐずる子どもたちに、主人は若干強引に話を進める。それでも彼らは、掛け声に合わせて手を離した。子どもらしい、不満を隠さない表情を向けられて、主人はからりと笑みを浮かべる。
「二人とも、離してくれてありがとう」
お礼を言われ、ほっそりした指先で髪を撫でられて、先ほどまでのむすっとした顔はどこへやら。二人の子どもたちは照れくさそうにはにかんでいた。
「主様、掴まれたところは大丈夫かい?」
帰り道。のんびりと馬を歩ませながら、ミヤジは前に座る主人へと訊ねた。
「全然平気。あの子たちも、一応は手加減してくれてたみたいだし」
そう言って、彼女はひらひらと両手を振って見せる。痛みを隠している様子はなさそうで、ミヤジはほっと胸を撫で下ろした。
「しかし、さすがだね。子どもたちの扱いに慣れている、というか」
「まあ、向こうではそれが仕事だしね」
あの後。主人は二人の子どもそれぞれから話を聞くと、皆が納得する方法を子どもたち自身に考えさせ、解決してしまった。ミヤジが助けに入る隙も、その必要もない、鮮やかな手腕だった。……助けを必要とされないという点は、ミヤジにとっては幾許か寂しくもあるのだけれど。
「それにしても、取り合いになったら掴んで引っ張るっていうのは、どこでも同じなんだねえ。私ね、ああいう場面に遭遇すると、いつも思い出す話があるんだよね」
そう言って、主人は彼女の世界の物語をミヤジに聞かせた。
一人の子どもに、母親を名乗る女が二人。どちらが本当の母親かを決めるため、奉行は双方の女にそれぞれ子の片腕を引っ張るように告げる。当然、子どもは痛みで泣き出すが、一方の女は、なおも子の腕を引き続ける。もう一方の女は、痛がる子どもが不憫で手を離した。奉行は手を離したほうの女を、親だと認めたという。
「手に入れることが勝利なら、手を離すことは愛なんだなって、この話を思い出すたびに思うんだ」
「そう、なんだね」
応じるミヤジの声は、意図せず暗い響きになった。
たぶん主人は、ミヤジに彼女の価値観を教えてくれたのだ。二人で授業に出かける道すがら、何気ない話題が主人の考えを知るきっかけとなることは、今までにもたびたびあった。
そういうとき、主人はいつも少し面映そうにしている。ミヤジはそんな彼女を眩しげに見つめながら、喜びを感じていた。自分の哲学を共有してもいいと思えるほどに、心を許されていることが嬉しかったから。
けれど今、ミヤジはいつものように喜ぶことができなかった。手を離すことが愛だと言うなら、ミヤジが主人に抱いている思いは、果たしてなんと呼べばいいのだろう。
長いトンネルを往くような人生の中でようやく見つけた、彼女だけが希望の灯火だ。手を離すことなど、絶対にできない。考えるだけで、胸を裂かれるように辛いというのに。
「ミヤジ?」
「あ、ああ。すまないね、少し……考え事をしていた」
名を呼ばれて、ミヤジは思考の海から抜け出した。取り繕うように応えて、主人の体を支えるため回した腕に、僅かばかり力を込める。
「少し、スピードを上げるね」
「うん。暗くなってきたもんね。お腹も空いたし。今日の夕ご飯はなんだろうねえ」
のほほんと笑いながら、主人はミヤジの胸に身を委ねた。己の執事が、彼女を腕の中に絡めとってしまえたらなどと考えているとは露も知らずに。
眩いほどまっすぐに向けられた信頼が、痛いほどミヤジの心を刺した。主人の掛け声で掴んでいた手を離した子どもらのほうが、ミヤジよりよほど彼女を愛しているに違いない。
そうとわかっても繋ぎ止めておくことばかりを考えてしまう。悪魔をその身に宿した遥か昔から、ミヤジは子どもたちや彼の主人のような、無垢な命ではないのだ。