魔法の手 自身の城とも言うべき厨房で、包丁を握り、フライパンを振り、お玉で鍋をかき混ぜる。ロノにとっては、悪魔執事となり調理担当の仕事をもらってからというもの、毎日繰り返した作業だ。
慣れた手つきで料理を作りながら、ロノは落ち着かない気持ちだった。厨房内をくるくると動き回る彼の背は、じっと注がれる視線を受け止めている。視線の主がほかの執事たちであれば歯牙にもかけないが、ロノの動きを熱心に見つめているのは、彼にとって唯一無二の主人だ。
ロノは浮ついてしまいそうな気持ちを押さえつけるために、平常心、平常心と口の中で唱える。しかし正直に言えば、効果は無いに等しかった。
「主様、お待たせしました! 簡単なもので申し訳ないですけど、夜食ができましたよ」
朝食のために仕込んでいたスープをアレンジしたリゾット。よく焼いてサイコロ大に切った豚肉をトッピングしたので、夜食といえど食べ応えがあるはずだ。
「十分だよ〜。ありがとう。いただきます!」
主人はリゾットをスプーンですくって、ふうふうと息を吹きかけた。そうしてそれを、大きく開けた口の中へ。途端に幸せそうに目を細めるものだから、ロノは彼女から目を離せなくなってしまう。
もぐもぐ、ごくん。よく噛んでから飲み込むと、主人はロノに花のような笑みを見せた。
「すっごく美味しい!」
「イシシッ……だろ〜?」
惜しげもなく与えられる賛辞を受け取って、ロノは鼻を擦った。照れ隠しをするときの、彼の癖だった。
「いや〜、それにしても、主様はなにを作っても本当に美味しそうに食べてくれるんで、作りがいがあります。こっちこそ、いつも美味しく食べてくれてありがとうございます!」
ロノの主人には嫌いな食べ物というのがない。食物アレルギーもない。作ってもらえたらなんでも美味しくいただくよ、というのが、まだ出会ったばかりのころ、食べ物の好みを訊ねたロノに返された彼女の言葉だった。
この屋敷では、主人より、使用人たる執事たちの食事を考えるほうが、骨が折れるくらいだ。彼らは野菜はダメだの、魚は嫌だの、キノコは無理だの、要求が多いのだ。
ロノの見守る中で、主人は黙々と、しかし幸せそうに夜食を食べ進めた。しっかりと完食して、両手を合わせる。彼女の世界、彼女の国での食後の挨拶だ。
「ごちそうさまでした! 美味しかった〜」
「ありがとうございます! これ、食後のお茶です」
「わ、なにからなにまでありがとう! いただくね」
「いえいえ。これがオレの仕事ですからね!」
ロノは空になった食器を下げて、手際よく片づけをする。夜食の調理に使った器具もキレイに洗って、それから朝食の仕込みを再開した。今夜中に、もう少し進めておきたいところだ。
動き始めた途端、ロノはまた背中に視線を感じた。嫌ではないが、どうにもむず痒い。ついに我慢できなくなって、ロノはのんびりとお茶を楽しむ主人を振り返った。
「あ、主様、あの……オレの作業なんて、そんなに面白いもんでもない……と、思うんですが……」
「あ、ごめんね。邪魔をするつもりじゃなかったんだけど」
「いや、邪魔とか、そういうんじゃねーけど……」
言い淀んで、ロノは鼻を擦る。主人はそれでだいたい察して、淡く笑みを浮かべた。
「魔法みたいだなあと思って」
「え?」
「だって、同じ食材を使って、同じ料理を作っても、作る人によって全然違う出来栄えになるでしょう?」
主人の言葉に、ロノの脳裏にはなにを作ってもだいたい黒焦げにしてしまう先輩執事の顔が浮かんだ。ハウレスはかなり極端な例だろうが、彼のおかげで主人の言葉の意味するところはよく理解できた。ロノは胸の中で小さく礼を言うと、彼の顔を頭の中から追い出す。
「だから、どんな料理もすごく美味しく作るロノの手が、魔法の手みたいに思えて。ついじーっと見ちゃった」
料理はロノの仕事で、趣味でもある。食べた人に一言「美味しい」と言ってもらえればそれで満足で、それ以上を求めたことはなかった。
魔法の手。それは、間違いなく賞賛の言葉だった。それを世界でいっとう大事なひとからもらって、嬉しくないはずがない。
「あ、でも、魔法だなんて、失礼な言い方だったかも。ロノの料理が美味しいのは、ロノが食べる人のことをいっぱい考えて、寝る時間を削ってレシピの研究をしてるからだもん。ロノのそういう、優しくて、地道な努力を積み重ねられるところ、すごいと思ってる」
「あ、主様」
賛辞ばかり飛び出す主人の口を止めたくて、ロノは慌てて手を前に突き出した。もう片方は、真っ赤になった顔を隠すように覆っている。
「そんなに褒められたら……オレ、困っちまうよ」
本当に参ったと言わんばかりのロノの声に、主人はぱちりと目を瞬かせた。とりあえず褒め言葉の嵐は止まったので、この隙に少しでも気持ちを落ち着けようと、ロノは深呼吸する。
「褒めてくれんのも嬉しいけどさ。オレは、主様がオレの作った飯を美味しそうに食べてくれたら、それが一番なんで」
「うーん……私はまだまだ全然褒め足りないんだけど」
そう言って不満そうに唇を尖らせる主人が可愛らしくて、ロノは自然と笑みを浮かべていた。
「へへっ、ありがとうございます! 明日の朝飯も張り切って作りますからね!」
「楽しみにしてる。でも、無理はダメだからね。仕込みもレシピ研究もほどほどにして、ちゃんと休んで」
「はい。お気遣いありがとうございます」
食後のお茶を飲み終えて、主人は厨房を去っていった。ちゃんと休むように言われたばかりだったが、ロノは仕込み作業を再開する。
(オレの手は、魔法の手……)
そんなふうに言われたら、誰だって張り切ってしまうに決まっているではないか。
――翌朝。
テーブルに並んだいつもより豪華な朝食に、執事たちはそろって首を傾げた。今日は別に、誰かの誕生日でも、なにかの記念日でもなかったはずだ、と。
食卓についた悪魔執事たちの主は、食事の内容から調理担当の張り切りぶりを察して、こっそり苦笑した。無理せず休んでという彼女の願いは、どうやら叶わなかったらしい。
「いただきます」
彼女は食前のあいさつをして、香ばしさが匂い立つ焼きたてのパンを一口食べた。その美味しさに、我知らず顔を蕩けさせる。
「美味しい!」
そのときちょうど、ロノが厨房から顔を出した。
「あ、主様、おはようございます!」
「おはよう、ロノ。今日のパンも、すっごく美味しいよ」
それが一番の賛辞だと、彼女の執事が言うから。ほかの言葉の分まで、何度だって、ロノが飽きるほどに伝えよう。
「ありがとうございます!」
途端、ロノは太陽のような笑顔を弾けさせた。