きみに捧げる特効薬 今になって思い返して見ると、朝起きたとき、いつもより体が重いような気はしたのだ。けれど、頭が痛いとか咳や鼻汁が出るとか喉が痛むとか、ほかの症状がなかったものだから。少し疲れが溜まっているのだろうと、ハウレスは軽く考えてしまった。
「おそらくは、過労だね」
診察していたルカスが真剣な表情で告げるのを聞いて、ハウレスの主人はひどくショックを受けた表情になった。主様がそのように悲しそうなお顔をされる必要はないのにと、ハウレスは思ったけれど、熱があることを自覚してしまった体はやたらと重だるくて、口を開くこともままならなかった。
ハウレスの異変に気づいてルカスの元へと連れてきたのは、他ならぬ主人だった。
この日――。ハウレスは寝起きに体のだるさを覚えたものの、大したことではないと断じて普段どおりに仕事に取りかかった。屋敷中の窓を開けて空気を入れ替え、トレーニングをこなし、主人に起床時間を知らせにいった。身支度を済ませた彼女を食堂までエスコートするために手をとって、そこで眉間に皺を寄せ険しい顔になった主人に手首や首筋、額などを触られた。そうして、有無を言わさずここへ連れてこられたのだ。
「熱が下がるまで、ハウレスくんは安静にしているように」
ルカスはそう言って、解熱鎮痛剤を処方した。
「いえ、そういうわけには……」
薬を受けとったハウレスは、ぼんやりとする頭で答える。もらった薬を飲めば、熱はじきに下がるだろう。主担当を任されている以上、彼女を放って休んでいるわけにはいかない。もっともそれは半分以上建前で、本音を言えばただハウレスが主人の傍にいたいだけなのだが。
「バカなこと言わないで! こんな高熱を出すほど疲れを溜めている人を、働かせるわけないでしょう! ハウレスは完全に回復するまで、休むのが仕事! ほかの仕事してるのを見つけたら、もう二度と担当執事にはしないからね!」
「えっ」
常にはない厳しい口調でそう言うと、主人は部屋を出ていってしまった。追いすがって許しを乞おうにも、熱に侵された体は力が入らず、椅子から立ち上がるにも一苦労だ。
もう二度と、担当執事にはしない。主人に投げられた言葉の最後の部分が、ハウレスの耳元でぐるぐると反響した。
その後。ハウレスはルカスの手を借りて二階の執事室へ戻り、自分のベッドで横になっていた。
四人で使っているため普段は賑やかな部屋も、今はしんと静まり返っている。今ごろはフェネスもアモンも、自分の仕事をこなしているころだろう。ボスキはどこかでサボっているかもしれないが、ああ見えて彼が自分の仕事には誇りを持って取り組んでいることを、ハウレスはよく知っていた。
働いている仲間たちのことを思うと、伏せっている自分が情けなく思えてくる。医者であるルカスや同室のフェネスにも、もっと自分を労るようにと繰り返し言われていたのに。体調管理もまともにできない自分に主人は呆れて愛想を尽かしただろうと、ハウレスは弱々しくため息をついた。いつも優しい主人から厳しく叱責されたことが、体調不良で弱った彼にはかなり堪えていた。
そのとき、誰かがドアをノックする音が聞こえた。声を出すのも億劫で、ハウレスは顔だけを向けてドアを見つめる。やがてドアが開き、訪ねてきた相手が部屋へ入ってきた。現れた小柄な姿に、ハウレスは熱で幻覚でも見ているのかと、思わず自分の目を疑ってしまった。
「あるじさま……?」
呼びかけに応じるように、主人は僅かに口許を緩めた。幻覚ではないと気づいたハウレスは慌てて起き上がろうとしたけれど、「そのまま寝ているように」と制されてしまう。
主人は大きな盆と袋を携えていた。盆はベッド脇の棚に、袋は床に下ろして、彼女はハウレスの額に触れる。熱が高いせいだろう。普段は温かく感じる小さな手の感触が、今はひんやりとしていて気持ちがいい。
「うーん……さっきより上がってる気がするなあ。これだけ熱が高いと辛いでしょう。ロノが胃に優しいスープを作ってくれたから持ってきたんだけど、食べられそう? 少しでも食べて薬が飲めれば、多少楽になると思うんだけど……」
「ありがとう、ございます……いただき、ます」
なんとかそう答えると、ハウレスは今度こそ体を起こそうとした。主人は背を支えたり、クッションを用意したり、額や首筋の汗を拭ったりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
しかし、仕える相手に世話させるわけにはいかない。ハウレスは懸命に「自分でやる」と訴えたが、主人も「休む以外のことはするな」と譲らない。ロノの特製スープを主人の手ずから食べさせられる段になって、ようやくハウレスは諦める気になった。受け入れるしかないことも、世の中にはあるのだ。
「あの……主様……」
食事を終え、薬も飲んで人心地ついたハウレスは、このまま看病を続けるつもりらしい主人を仰ぎ見た。世話されることをひとまず受け入れはしたものの、どうして彼女がここまでしてくれるのか、ハウレスには理由がわからなかった。
「どうして……」
「他のみんなはそれぞれ仕事があるしねえ。特にやることのない私が看病するのが一番合理的でしょ? それに……ハウレスは頑張り屋さんだから。ちゃんと休んでるか、見張っていないと心配だと思って」
冗談交じりに答えた主人は、ハウレスの目元に手を翳した。促されるように目を閉じる。暗闇の中でも、すぐ傍に主人の気配があるのがわかった。
「おやすみ、ハウレス。ゆっくり休んで、元気になってね。……さっきはあんなこと言ったけど、できればハウレスには、この先も私の担当でいてほしいからさ」
こっそりと打ち明けられた本音に、ハウレスは心底から安堵した。呆れられた、愛想をつかされたと思ったのは、杞憂に過ぎなかったらしい。そうであるならばハウレスがするべきは、ゆっくり体を休めて一日でも早く仕事に復帰することだけだ。
しばらくして主人がハウレスの目元から手をどけると、彼は静かに寝息を立てていた。担当執事の寝顔を見つめる主人が酷く優しい表情を浮かべていたことは、彼女自身しか知らない。