甘える姿はSSR 玄関ホールの大階段に小柄な人影を見つけて、テディは内心、ラッキーと喜びの声を上げた。彼は厨房での手伝いを終えて、別邸に戻るところだった。慣れない作業をこなすのは大変だったが、その疲れも、彼女に会えば途端に吹き飛んでしまう。
「主様、おかえりなさいませ!」
「あ……テディ。うん、ただいま」
元気いっぱい出迎えたテディとは対照的に、主人は疲れきった様子だ。応える声も、どこかぼんやりとしている。
こんなにお疲れなのに、仕事のあとわざわざ屋敷に顔を出してくださるのだから、主様は本当に優しい人だなあ。そんなふうに思って、テディは自然と笑顔になる。
「主様、こんなところで、なにをしていらっしゃるんですか?」
「いやあ……特になにをしていたわけでもないんだけど……」
主人はうろうろと視線を彷徨わせた。テディが不思議に思って首を傾げていると、やがて小さな声で訳を話し出す。
「帰ってきたものの、階段を上る気力がなくて……ちょっと休憩してました……」
「なるほど、そうだったんですね。お仕事、本当にお疲れ様です」
それなら、早く部屋へ戻って寛いでもらわなければ。テディは執事としての使命感を燃やした。彼女が自力では階段を上れないというのなら、テディが抱えて部屋まで連れていけばいい。幸い、彼は力には自信があった。
「では主様、俺がお部屋までお連れいたしますね!」
テディは張り切って申し出、小柄な体を抱き上げようと腕を伸ばした。これに慌てたのは主人だ。先ほどまでは指の一本も動かせないという風情だったのに、彼女はすばやく体を捻ってテディの腕から逃れてみせる。
「あ、主様?」
「いやいやいやいや、そんなことさせられないよ! 私、重いし!」
ただでさえ逃げられてショックだったテディは、重ねて激しく拒絶され、しょんぼりと肩を落とした。
「俺に触れられるのは、嫌ですか……?」
テディは落ち込んだ表情で、縋るように主人を見つめる。彼女の目には、彼の瞳が涙で潤んでいるように見えた。テディの主人は、彼のこの表情に極めて弱かった。
だって、まるで雨に打たれて震える子犬のようなのだ。可愛くて、可哀想で、つい手を差し伸べたくなってしまう。あざとさを狙って作られた表情であれば絆されてなどやらないが、相手はテディだ。
「テディが嫌なわけじゃないよ! ……じゃあ、あの……オネガイシマス」
根負けして、主人は彼女の執事へと腕を伸ばした。テディの笑顔と自らの羞恥心とを天秤にかけ、彼女は執事の笑顔のほうを優先したのだ。
「はい! 俺にお任せください!」
受け入れられた途端、テディは輝くばかりの笑顔を浮かべた。細身に見えて逞しい腕を背と膝裏に回し、彼は主人を丁寧に抱き上げる。一気に視界が高くなって怖かったのか、主人がテディの肩にしがみついた。
「大丈夫ですか? 安全にお連れしますから、俺を信じて、安心して身を預けてくださいね」
「う、うん。よろしくね」
「はい! では、参りましょう」
テディはゆっくりと階段を上り始めた。人間を一人抱えているとは思えない、軽やかな歩みだ。実際、テディはスキップでもしたい気分だった。
執事と主人の距離は近いようで遠く、理由がなければテディが彼女に触れることはない。触れたとしても、せいぜいエスコートの際に手を預かるくらいだ。それが今は、主人はテディの腕にその身を委ねてくれている。浮かれてしまうのも仕方のないことだろう。
「到着です! 主様、下ろしますね」
「うん。ありがとう」
「へへっ。主様のお役に立てて光栄です」
声をかけてから、テディは主人を一人掛けのソファへ下ろした。心地いい温もりが遠ざかるのは名残惜しかったけれど、「もう少しこのままでいたい」なんてわがままを、執事の身で言うわけにはいかない。
「さて、では俺は、ロノくんとフェネスさんに声をかけて来ますね。お風呂とお食事、どちらを先になさいますか?」
「……じゃあ、お風呂で」
「かしこまりました!」
きらめく笑顔で一礼して、テディは踵を返しかけた。けれどふと思いついて、定位置であるソファに深く沈みこんだ主人を振り返る。
「テディ?」
「もし、また階段を上るのが億劫だな〜と思うことがあれば、俺をお呼びください」
あくまでも、執事として。その線引きは守るから、これくらいの要望は許してほしい。
「俺がどこへでも、抱き上げてお連れいたしますから」
浴室から食堂、そしてまた二階の寝室へ。主人が運んでほしいと頼めば、多くの執事が手をあげるだろう。体を鍛えているのはテディだけではない。しかし彼は、その役目をほかの誰にも譲りたくなかった。
しかしそんなテディの気持ちも知らず、主人はふるふると勢いよく首を横に振る。
「あまりにも申し訳なさすぎるから、ちゃんと自分で歩くよ」
俺がそうしたいんだから、遠慮しなくていいのに。テディはそう思ったけれど、自分のことはなるべく自分でやろうとする主人だからこそ、甘やかしたいと思うわけで。ままならないものだ。主人が今回のように素直に甘えてくれるのは、本当に珍しいことだった。
「それにさ、抱えて運んでもらうより、隣で同じ景色を見ながら歩くほうが、私は好きだから」
ずるいなあと思いながら、テディは「かしこまりました」と答えるほかなかった。そんなふうに言われたら、「もっと甘えてください」と押しきることなどできない。
嫌われ者の悪魔執事に寄り添って、同じ場所で同じ風景を見ようとしてくれるのは、世界中を探しても彼女以外にはいない。出会えた奇跡を噛み締めながら、テディは今度こそ部屋を辞し、上ったばかりの階段を一段飛ばしに駆け下りていった。