グラスにうつった真実 暁人のオフに、KKの泊りがけの仕事が重なった。映画館デートの予定はもちろん中止。これから数日、暁人は、二人が暮らしているマンションに独りきりとなる。
これはまたとないチャンスだ。内心でガッツポーズした暁人に勘づいたのか何なのか。「めんどくせえ、オマエも一緒に来て手伝え」といつも以上にうるさくゴネるKKをいってらっしゃいのキスで黙らせ、暁人は笑顔で彼をマンションのエントランスから叩きだした。そして、その足でスーパーに向かい、食糧品とお菓子を大量に買いこんだ。ついでに、もう少しで無くなりそうな洗濯洗剤と、トイレットペーパーの予備も買い足しておく。
これで籠城の準備は整った。
この先二日間、暁人は髭剃りをサボる。サボるったらサボるのだ。
……と、意気込んだはいいものの、なにしろ暁人は生真面目なので、怠けようと決意して怠けた経験は数えるほどしかない。慣れないことをしたせいか、妙な後ろめたさが腹の底でグルグルして落ち着かない。
ほんの少しの我慢だと、暁人は山盛りのお菓子を腹に詰めこみながら自分に言い聞かせた。いつも以上に掃除がはかどり、一日目が終わる頃には、キッチンは床にシンクにコンロ、換気扇の羽根に至るまで、ピカピカに磨きあげられていた。
今ここに、『怠ける』という言葉の定義を暁人につっこむ者はいない。暁人のパートナーであるKKは、北陸の山奥で怪異調査の真っ最中だった。
そして迎えた二日目の夕方。
上下ともに真っ黒な服に着替えた暁人は、満を持して洗面台の前に立った。
今この時のため、顔を洗うときも歯磨きするときも、できる限り鏡を見ないよう頑張ってきたのだ。ワクワクしながら鏡面をのぞきこんだ。
「……違う」
思わず暁人はつぶやいていた。
おかしい。どうもしっくりこない。これでは、最低限の身だしなみを整えることすら放棄した、ただのだらしない男だ。「あの日は剃ってるほどの余裕がなかったんだよ」と言っていたから真似したのに、これはいったい、どういうことだろうか。
試しに目つきを鋭くしてみる。違う。唇の端を片方だけ持ちあげてみる。全然違う。
彼の髭も表情も、まったく全然こんなんじゃない。彼はもっとこう、月のない夜を煮詰めたような深い眼差しで、皮肉げに吊りあがった口角は絶妙な感じに翳があって。……そうだ。彼の口元を彩る無精髭には、もっと重たい存在感、ずっしりとした貫禄があるのだ。
KKがいないときに実行してよかったと、暁人はしょんぼり肩を落としながら考えた。こんなみっともない姿、彼には絶対見せられない。彼が仕事を終えて帰ってくる前に、はやく剃ってしまわなければ。
のろのろとシェーバーに手を伸ばす暁人は、洗面台の左奥、歯ブラシを立てかけているグラスの側面に、ぽかんと目を見開く髭面の男が映りこんでいることに、まったく気づいていなかった。