「この金額で、ひとまず五年ほど君を雇いたいんだけど」
「ロドスは算数も出来ない人間を指揮官に据えていたのか?」
この男の肩書がひとつ失われる瞬間に居合わせるなど、以前の自分には想像だにしえなかっただろう。ロドスという会社はその役目を終えた。根絶など不可能と思われていた病はその治療法の突破口が発見され、今では各国企業がより性能の良い治療薬の開発にしのぎを削っている。傷だらけの理念は形を変えることなく広く受け継がれ、彼らの旗印は忙しく各地を飛び回っていた。その手に必要なのはもはや銃や剣ではなく知識と交渉のための人脈と通信インフラその他諸々。
ロドスという会社は確かに世界を変えたのだろう。そしてロドスにもまた変化が必要な時が来たのだ。
「傭兵の相場と君のかつての料金表から算出したんだが、足りなかっただろうか。ああ、オプションのプランがあるのなら教えてくれ」
何度見てもゼロの数が二桁ほど多いプリントアウトを見下ろしながら、エンカクはため息とともに言葉を吐き出した。
「サルカズの傭兵にこんな大金を払うやつがいるか」
「勘違いがあるな。それは君の技量に対する値段であるのと同時に、私の命の値段でもある」
行きたい場所があるんだ、と告げられたのは現在ロドスが停泊している場所からはずいぶんと離れた小国の名だった。
「俺に大型輸送艦から飛行装置の免許まで取らせたのはのはそういう理由だったのか」
「それは正真正銘ロドスの人員不足が原因。ドライバーに上級技能訓練受けてもらうより君に操縦方法をおぼえてもらうほうが手っ取り早かったから」
おかげでエンカクの部屋には擬装用含めて大量の”身分証明書”が積み上がっている。あれを全部持っていかねばならないのかと思うと今からでも目の前の男の首をかっ切りたい衝動に駆られるが、その男はといえば淡々と通常の業務連絡と同じ調子で言葉を続けた。
「ロドスに残りたいなら別に断ってくれて構わない。実際君の症状の進み具合を鑑みるに専門病床がすぐ近くにあったほうが都合が良いのは事実だ。私の行きたい場所はド田舎だから、そんな便利な設備は存在しない」
「だがお前が行くということは遅かれ早かれ整備されるということだ。違うか?」
「うん、まあ。君が来てくれなくても一通りの施設は誘致するつもりだけど」
「なんだ、自分から誘っておいて今さら怖じ気づいたのか」
「そうかも」
予想外の返答にエンカクは息をのんだ。まさかそんな気弱な肯定がかえってくるなど角の先ほども考えてはいなかったので思考に隙が生まれ、そして目の前の男は交渉事の達人だった。そうして三日三晩に及ぶ体を張った懐柔と泣き落としと搦め手と巧妙すぎる外堀埋めによって、エンカクは一枚の紙きれにサインをする羽目になってしまったのだった。
男の荷物は少なかった。贈り物は受け取れないとあらかじめ通告されていたから、誰もが長々と彼の手を取って思い出を語り、そしてこれからの幸福を願っていた。男は全部を聞き、相づちを打ち、笑い、感謝を伝えた。それだけでゆうに一週間はかかっていたと思う。ようやく出発の準備が整ったときにはエンカクの荷物に男宛てのあれこれをねじ込もうとする輩まで現れたためひと悶着あったが、結局男は身軽な姿でそれじゃあ、と巨大な移動都市に手を振った。
「本当にそれだけなのか」
「ほとんどは寄贈してきてしまったし、残りの荷物は落ち着いたら送ってもらうつもりだから」
結局、この男の一番重要な荷物はそのフードの中身だ。それ以外はただの替えの利く備品に過ぎない。その備品の中には男の隣でハンドルを握るエンカク自身も当然含まれている。
「このまま荒野に連れ出して殺すとは考えなかったのか?」
「そうしてもいいように、代金は全部一括で君の口座に振り込んでおいたよ」
ロドスのコートは脱いでいたものの、男の黒いフェイスガードはそのままだった。多少は改善したとはいえ脆弱な体質はそのままで、少ない荷物の大半は常備薬が占めている。目撃者すら存在しない場所での殺人は後始末が楽でいい。事故だと言い張れば――それを信じる人間がいるかどうかは別として――真偽を確かめるすべなどどこにもありはしないのだから。
「今までだってそうだったように、私の命は君に握られているわけだ。さてどうしようか。命乞いとかしてみようかな。この先には二回ほど天災の発生可能性が高いタイミングがあるんだけど、それを伝えるから命だけは見逃してくれないか」
「そういう危険性はあらかじめ言っておけ」
「まさか初手で命乞いをする羽目になるとは思わかなったんだもの。これで私を殺すと心中だと思われるってわかってもらえた?」
あまりにも不本意すぎる用意された結末に流石に喉から呻き声がもれてしまった。隣の性格の悪い男は手を叩いて喜んでいる。最悪である。
「君のことはお金で買いましたって紹介してもいいの、すっごく気分がいいな。私、汚いお金持ちみたいじゃない?」
「金持ちかどうかは知らんが腹の中の黒さだけは引けを取らんだろうよ」
「今回けっこう動かしたからすっからかんなんだよね。やっぱりちゃんとした命乞いしとくか。君、カーセックスに興味はある?」
「下らんことを言っていると舌を噛むぞ」
小さくはない岩に乗り上げたのはわざとではない。避けるのが面倒だったのは事実だが。車内にようやく落ちた沈黙に清々しささえおぼえながら、エンカクは悠々とアクセルを踏む。
「喋れないと私の価値は半減どころじゃないのに。これはもう恋人にキスでもしてもらわないと――」
もう一度乗り上げると車内は本当に静かになったので、エンカクはようやく細く長く安堵のため息を吐いた。
「先は長いのだから寝ておけ」
「やだよ、せっかく君と二人きりになれたのにもったいない」
狭い座席の上で器用に膝を抱えて拗ね始める男がダッシュボードの地図とペンを手に取ったことに嫌な予感をおぼえながら、エンカクはこの旅路の前途多難さを予期して眉間に深い皺を刻んだ。