「ドクター、少し構わないだろうか」
「Scout? 珍しいな、どうした」
執務室を訪ねてきた友人の姿に、ペンを手にしたまま男は振り返った。仕事場として何とか体裁を整えただけの部屋はいまだあちらこちらに段ボール箱が転がってはいるものの、座って書類を裁くだけならば何の支障もない。そのうち手が回らなくなるだろうから専属の秘書役を置くべきだろうと進言されてはいたが、今のところドクターはひとりで机の前に座っていた。
「この書類なんだが、わからないことがあってな」
「先週の報告書ならすでに受け取ったはずだが……あぁ、そっちか」
サルカズの男が差し出してきたのは、最近配布された一枚だった。配られた当初から今さらすぎるだろうとブーイングの嵐だった書類を、彼は律儀に仕上げてくれているらしい。
「どうせチェックは私だから、適当でいい」
「そういうわけにも、な」
「君は真面目だなぁ」
「顔に似合わずって?」
「まさか。私とAceがどれだけ君の根回しに救われていると思っているんだ」
優しく、義理堅く、辛抱強い。ここで彼の美徳を思いつくままに一晩中歌い上げることだって辞さないつもりだったが、笑いながらもやんわりと制止するサングラス越しの目が割と本気だったので、私は大人しく彼の持って来た本題に戻ることにした。
「どこの部分が――あぁ、本名か。空白で構わないよ。コードネームを間違えられると困るけれど、そっちの欄は無記名のままも多い」
この書類が何かと言われれば、つまるところは履歴書である。今さらだろう? 私だってそう思う。だがこの組織にバベルという名前がついて一応の体裁を整える必要が出て来てしまったため、所属人員に一律で提出を求めることになったのである。無論私だって書いた。受領したのも私ではあるが。これからは新しく加わるメンバーに対して背景調査も必要にはなってくるだろうが、そもそも目の前の彼とは付き合いも長く、再三にはなるが今さらの話でしかない。この組織は設立の経緯が経緯であるので、出身氏族を伏せておきたいという者も多く、そのためこの書類の多くの項目は空欄のままでの提出が認められていた。だが彼の抱える問題は少し違ったようで。
「常用言語のつづりがわからないんだ。自分の名前なんて、大昔にサルカズ語でしか書いたことがなくてな」
そう言って、何でもないことのようにひとつながりの人名が読み上げられる。それを聞いていた私はぽかんと呆けたまま、動作を完全に停止してしまっていた。
「ドクター?」
「あ、あぁ。いい名前だな」
「カズデルじゃよくある名前だ。食堂で叫んだら三十人は振り返るだろうよ」
肩をすくめてみせる彼に、ようやく脳みそを再起動した私は手元のメモにさらさらとペンを走らせる。
「サルカズ語だとこのつづりだろうか。それともこっちか?」
「あー多分、下だったと思う」
「なら常用言語だとこのつづりになる」
差し出したメモをじっと眺めたScoutは、やがてため息とともにそのメモを借りてもいいかと続けた。どうぞとその長い指先に小さな紙片を載せてやると、彼は大切そうにその小さなメモを折りたたんだ。
「助かったよ。ほんとうにあんたは何でも知ってるんだな」
「新しい勤務先のことなんて、ある程度は調べておくものだろう」
「つづりが二種類もあるなんて、俺は知らなかった」
「私だってこの名前が一般的なものだなんて知らなかったさ。種明かしをすると、カズデル出身の有名な経済学者と音楽家がいるんだ。ひょっとしたらもっと他の表記だってあるのかもしれない」
少しだけ私の好奇心が騒いだが、今は目の前の彼のことが主題である。
「しかし盲点だったな、表記は何語でもいいからと追加で通達を出しておこう。どうせ見るのは私なのだし」
「こんなことで困ってるのは俺くらいだろうさ。今提出したほうがいいだろうか」
「助かる」
そうして受け取った書類にはその他に特段不備はなく、本日だけで何回書いたかも忘れてしまったチェック済みのサインを入れてから、処理済みのボックスへと恭しく放り込まれることとなった。
「ところでドクター、あの二つ斧のマーカスからとびきりのを飲み取ったって聞いたんだが」
「もしかしなくてもそっちが本題だな? まったく、どこからそんな噂が広がるんだ。昨日の今日だぞ」
「人の口に戸は立てられんということさ、さて無事に長期任務から帰ってきた部下を労わるつもりはないか? ドクター」
「あーもう、ありあまっているに決まっているだろう! そこの奥の段ボール箱の中に見つからないよう隠してある。グラスはいつものでいいな」
「ケルシー、少し見てもらいたい写真があるんだが」
義務付けられている定期健診のあと、すでに次の仕事の準備へと取り掛かっている女医を呼び止め、私はコートのポケットから数葉の写真を取り出した。
「これは……ずいぶんと古いものだな。どこで見つけた?」
「私室の片付け中に古いデータスティックを見つけたんだ。何か大事なものが入っていたら困るからクロージャに預けて確認してもらったら、中身がこれで」
それは酔っ払いたちが写った、日常の写真だった。作戦中の、または作戦が無事終わったことを祝っての飲み会だったのかもしれない。陽気に歌っている者、酒瓶片手に絡みに行く者、そんな騒ぎから距離を取りたいと背を向ける者、様々な一瞬の表情が切り取られた写真ではあるが、当然ながら私に見覚えはない。クロージャも首をかしげていたので残る心当たりとしてケルシーを頼ったのだが、彼女はいつもの無表情のまま最後までをめくり終え、ぽつりとひとことを零すだけであった。
「懐かしいな」
「それともうひとつ、人名だと思うんだが心当たりはないか」
そうして告げた、おそらくは男性のファーストネームと思われる単語に、彼女はほんの少しだけ目を見張った。
「パスワードとしてこの単語が設定されていたらしい。前の組織では誰か重要な人物だったんだろうか」
「いいや。カズデルではよくある名だ。私にも心当たりはない」
「そうか。ありがとう、貴重な時間を使わせてしまったな」
返却された写真をポケットに戻して、フードを被り直す。そうすれば私はもういつも通り『ロドスのドクター』である。
「エリートオペレーターたちに見せてやるといい。彼らならば、ここに映っている数名をおぼえている者もいるだろう」
「わかった」
そのほかに数点、業務上の確認を済ませて検査室を出ようとしたとき、ケルシーはふと不思議なことを言った。
「そのパスワードだが、つづりはどちらだった?」
「どちらも何も……」
首をかしげつつ、記憶の中からクロージャから聞いたパスワードのつづりを引っ張り出す。それをそのまま告げると、ケルシーはどこか痛ましいものを見る眼差しで私へと視線を戻し、しかし次の瞬間にはその名残すら消し去っていた。
「サルカズ語のこの名前には、つづりが二種類ある。珍しいほうだったな」
「何か意味が?」
「いいや、少し気になっただけだ。すまなかったな、ドクター。君も業務に戻るといい」
そう言って彼女は背を向けてしまったので、私は何とも言えない気持ちを抱えたまま検査室を後にすることになった。とぼとぼと通路を歩きながら、私はあらためて受け取った写真について考えを巡らせる。パスワードがついていたのだから、誰かに見られたくない内容だったのだろうか。今の私にはただの酔っ払いたちの写真にしか見えなくとも、前の私はその中に特別な意味を見出していたのだろう。しかしそれは、パスワードとなった人名の意味とともに永久に失われてしまったのだ。口の中だけで小さく、その名前を呼んでみる。だが別段舌に慣れたという感覚も特にはなく、何かしらの暗号であったのか、はたまた特別すぎる名前であったのか。パスワードとなっている人物は、この写真を見て一体何を考えるのか。わからないことばかりがまたひとつ積み重なってしまった。しかしそれは、そう悪いものではないのだろう。こんな形で残ってしまったどこの誰とも知らない彼の名前に心の中だけで微笑みかけながら、私はゆっくりと歩みを進めた。