パパゲーノのゆくえ※パパゲーノ:オペラ「魔笛」の登場人物。恋人と引き離されて絶望し、自殺を試みるが思いとどまる。
「今日じゅうにT村まで帰るのは無理だろ。宿を取ってあるなら、そこまで送るぜ」
「それが、まだ。日本に着いてから探せばいいかと思って」
譲介は助手席の窓から、夜の東京の街を眺めていた。話しながら運転席へ向き直る。
「あのう、たとえばあなたの――」
「オレんとこは駄目だ」
TETSUが間髪入れずに拒否すると、譲介は声のトーンを落とした。
「まさか、廃病院とかに住んでるんじゃないでしょうね」
「……」
信号で車が停まる。ハンドルを握るTETSUは沈黙し、横目で譲介を見た。譲介は眉間に皺を寄せてTETSUを見つめている。
「ひょっとして、廃墟に住んでるって、ほんとなんですかあの話?」
「誰から聞いた。古い話を持ち出しやがって。一也か」
「ソースは明かせません」
「候補は二人しかいねえんだ、吐いちまえ」
「僕にも信用ってものがありますから」
信号が変わる。発車。街の明かりが車内に差し込み、助手席の真面目な顔を照らす。それを見たTETSUの口から低い笑い声が漏れた。譲介が続ける。
「ドクターTETSU。この話が真実とわかったからには、僕は、あなたがいまどんな環境にいるのか確認しなければ気が済まないんですがね」
「至って普通に生活してらあな」
「普通の人って、なんと住所が定まってるんですよ」
「おっと、和久井先生は辛口でいらっしゃる」
TETSUは苦笑し、アクセルを踏む。
無人の駐車場に車を停め、雑居ビルと極彩色の看板がひしめく区画を歩く。呼び込みや通行人の間を縫って数分。TETSUは一棟の古いビルへと譲介を案内した。
「譲介。この場所のことは」
「他言無用、ですね」
エレベーターの扉が開くと、正面に埃の積もった廊下とすりガラスのドア。周囲のビルや看板の明かりが窓から差し込み、ドアの張り紙をけばけばしく照らし出す。張り紙にはクリニックの名前と閉鎖された日付、過去の利用者たちへの感謝の言葉が書かれている。この階の、前の契約者が残したものだ。
TETSUはドアを開け、室内の明かりを点けた。譲介には顎で入室を指示する。
「もとは潰れたクリニックだが、今のオレの仕事部屋のひとつだ。好きに見てきな」
ドアを入ってすぐの空間は小さな待合スペースだ。什器備品には埃よけの布を被せてある。奥には診察室がふたつ、処置室、レントゲン室。ふたつ目の診察室を転用した簡易の病室には、ベッドが一床。どこも依頼があればすぐ使えるように整えてある。
譲介はその場に荷物を置いて、奥へと歩いて行った。譲介は一室一室を見て回り、院内の設備を一通り確かめると、待合スペースに戻ってきた。何度も奥へと振り返り、信じられないといった様子である。
TETSUは待合スペースの椅子に座って譲介を迎えた。
「なんだ、驚いてんのか」
「あ、はい……お化けでも出そうな荒れ果てようだったって、聞いてたので」
「一也だな。もうその場所は使ってねえよ。安心したか?」
譲介が頷いた。TETSUは、そりゃ良かった、と応じた。
「今日は泊まってけ。奥にベッドあったろ。そこを使うといい」
「あなたは?」
「スタッフルームの奥を寝泊りできるようにしてある」
譲介は荷物を持って第二診察室へ向かった。TETSUはそれを見届けると、杖を突いてスタッフルームに向かった。
ドクターTETSUが常駐のスタッフを雇用することはない。内弟子の少年がいた期間はあったが。
だからスタッフルームはTETSUの私室のようなものだ。スタッフルームの一角を改装し、窓辺に身体を伸ばして休める空間を確保した。室内の仕切としてカーテンをつけ、長身を納めるに充分なサイズのベッドと、点滴台、作業台を設置している。それ以外は会議机にパイプ椅子、給湯コーナー、と元々あったそのままが残っている。
TETSUはベッドに座り、窓に降りたブラインドの隙間からネオンの明滅する通りを眺めていた。
ノックの音がして、譲介が顔を出した。
「もう寝てますか?」
「いや、起きてるぜ」
譲介は静かにスタッフルームへ入ってきた。給湯コーナーにコーヒードリップ用の器具を見つけて、TETSUに視線を送る。TETSUが頷き返すと、譲介は小さなコンロで湯を沸かし始めた。
「豆は?」
「冷蔵庫だ」
湯の沸く音が風に似て静かに響く。譲介はコンロの火を止め、濾紙と豆を敷いたドリッパーに湯を注ぐ。ひっそりとしたスタッフルーム。二人で使うには広い部屋に、わずかな熱とコーヒーの薫りが漂う。
「どうぞ」
作業台の上に紙コップが二つ置かれた。TETSUは片方を取り、ひとくち飲んだ。
「どうした。眠れねえか」
「話がしたくて。あなたと」
譲介はパイプ椅子を持ってきて、TETSUと向き合うように座った。
「だってあなたすぐ居なくなるし。次にいつ……次はあるのか……だから連絡がついたとき、きょう一日は、絶対食らいついてやるって」
譲介は明るい声で話す。TETSUは譲介の声が僅かに詰まったのを聞いた。
「こればっかりはな」
気休めを言う気にはなれなかった。
かつて黒須一也と神代一人の助けによって拾った命は、TETSU自身のコントロールによって今日まで細々と繋がれてきた。病状は一進一退。いや、年々の小さな負け分が積みあがっている。病魔を相手にいつまで虚勢を張っていられるか、それは誰にもわからない。
「オレもせいぜい足掻くつもりだが、なるようにしかならねえ時もある。むしろ今までよく……」
「また何も言わずに置いて行かれるのは、嫌です」
譲介は眉尻を下げてTETSUの顔を見た。それから一瞬口を引き結び、TETSUの顔をもう一度見た。
「僕と一緒に、アメリカに来ませんか」
TETSUは譲介を見た。少し力んだ目元がすがるように見えた。
「お互い、目と手の届くところに居たらいいと思うんです」
「あんな手紙を貰っておいてなんだがな、譲介。人間なんてのは勝手に生きて勝手に死ぬもんだ。人間は弱い」
そうだ、人間は弱い。TETSUは心の中で繰り返した。
父も、兄も。完璧に近い肉体と精神を備えていたあの男でさえも。みな勝手に生き、勝手に死んだ。
肉体の弱さはある程度、医学的アプローチでカバーできる。だが精神はそうではない。
あの研究も志半ばで止まったきりだ。いまのTETSUには、若き日に求めた力を追うことはできない。引き延ばされた生を、死神との戦いに費やしている。いつか来る敗北の日まで。
自身を含め、人間はみな弱く、孤独である。
「長く生きてりゃ喪うモンもそれなりにある。置いていかれることなんかいくらもある。だから――」
「好きなひとの見送りくらいさせて欲しいって言ってるんです、僕は!」
譲介の声がTETSUの言葉を遮った。
譲介はTETSUの顔に視線を置いたまま動かさない。外からは酔漢のご機嫌な声が聞こえた。声は次第に遠ざかっていった。
ややあって、先に口を開いたのは譲介だった。
「あまり、動じてませんね」
「いや動じてる、これ以上ねえってくらい動じてるぜ。ああ、マジかよ」
TETSUは額に手を当て、天井を仰いだ。これがあの危うげな少年のころなら。恋に恋する年ごろの子供のうちなら。勘違いだと年長者らしく諭してやることが出来たのに。
「今になって言うのかよ。もう分別も付いた歳だろうに、なんで、まだ」
「僕、この話初めてするんですけど」
「解るだろ、オレはやめとけ。神代一人が泣くぞ」
「K先生は関係ないでしょ」
「オレがどうしてお前を神代一人に頼んだと思ってる」
「僕があのときどれだけ泣いたと思ってるんです」
「んな事ぁ知るか」
譲介がTETSUの示したものとは異なる未来を見はじめたあの頃。陽のあたる場所には立てない闇医者に、他に何がしてやれただろう?
「……悪い、言い争いがしてえわけじゃねえんだ」
「そうですね……」
譲介は視線を膝に落とした。
「わかってます。僕はK先生のところに行って良かった。診療所の皆さんも、村の人たちもみんな僕によくしてくれた。故郷ができたようなものです」
「故郷、か」
それはTETSUにとっては二度と踏まない土のことである。
「いまの僕が身に着けている技能の多くはK先生から教わったものだし、留学までさせてもらえた。一也より遅れはしたけど、こうやってどうにか一人前に――医師としてのスタートラインに立つことができた」
「……」
TETSUは目を細めた。
「最初の師として、嫉妬してもいいですよ。K先生に」
「しねえよ。そりゃお前の努力の賜物だ。もっと誇れ」
譲介は少し頬を染めて笑った。TETSUの内弟子だった頃の譲介がこんな顔を見せたことは無かった。当時の譲介は、来し方も行く末も知らず、その日の居場所を守るのに必死な、ただの子供だった。
譲介は昔から見目の良い子だった。いま、その整った顔には精悍さが加わり、体格も良くなっていた。剥き出しの刃物のような危うさは既に無く、振る舞いには落ち着きが加わった。すっかり大人になったと、TETSUは当たり前のことを思った。TETSUはひとりの若者の成長を見届けたのだ。
――案外あの手紙が、何より効いたのかもしれねえ。
TETSUの頭を、ふと非科学的な考えがよぎる。あとは死ぬだけだった命を今日までつなぎ止めた錨。それが譲介だったのだろう。
「変わったな、譲介……」
譲介は首を振った。
「K先生や村の人達、朝倉先生、一也や宮坂……縁に恵まれていまの僕がいる。みんなの愛情があって、僕は僕になった。その始まりが、ドクターTETSU、あなたです。僕に最初に愛をくれたあなたのことを、愛しています」
TETSUは何か言い返そうとして、言えなかった。譲介の目が、穏やかにTETSUを見ていた。
「あなたの抱えるものを僕に分けてください。病気は代わってあげられませんが、僕なら一緒に戦うことが出来ます。喪われたものがあるというなら、代わりに僕がそれを埋めます。あなたを放って勝手に居なくなることもありません。いつか死神があなたのところに顔を出したら――中指を立てて笑って迎えてやりましょう。面白おかしく生きてやったぞ、ざまあみろ! って」
とある施設の裏庭でナイフを持った子供と出会ってから、長い時が過ぎた。自分のことさえ手に余っていた少年は、いつしか精悍な若者となってTETSUの余生を背負おうとしている。死神さえも相手取ろうという強さを備えて。
TETSUが若き日から求めてきた命題。
人間は強くなれる。何によって?
いまここに、答えはあった。
「どこか、痛みますか」
譲介が顔を覗き込んでいる。
TETSUは首を小さく振って否定した。
「だってあなた、泣いてるから」
伸ばした譲介の手がかすかに震えてTETSUの頬に触れ、目の下を拭った。
「……譲介」
TETSUは喉から絞り出すようにして名を呼んだ。
「抱きしめてもいいか」
「ええ、もちろん」
TETSUが譲介の背に腕を回すと、譲介もTETSUの背中に腕を伸ばした。
窓の外では空が白み始めていた。しののめの薄青い空がやがて眩しい朝空に変わり、ブラインドから入る光が室内に縞模様を作っても、二人はいつまでもそうしていた。