Golden Eye金の瞳
「許可しねぇって言ってんだろォ──、海楼石の銃弾は、普通の人間ならともかく能力者の自己再生を著しく低下させる…おめぇでも変わらねぇよ──、動き回らず医務室内で大人しくしてやがれ──」
「けど!……んぎっ!」
寝台に括り付けられているのは、不死鳥マルコの胴体である。サッチに一言詫びたいと包帯に巻かれた羽をしっちゃかめっちゃかに、ばたつかせてまで医務室を飛び出そうとする弟を、どうにか寝台にシーツで括り付けたのは力自慢の兄達の仕事だった。
「落ち着け、マルコ。おまえだってまだ万全じゃねぇんだ!自分の身体をまず治せ、サッチもそれくらい分かってる!」
「そうだ、それにおめぇ…その状態でサッチにどうするつもりだ?再生の炎分け与えようってのか?」
「キングデュー、アトモス!!おれが油断してたからあんな目にあったんだ!一言謝らなきゃ、気が済まねぇよい!」
「暴れんなって!オヤジ呼ぶぞ!!」
キングデューの言葉にそれは、と翼と鉤爪だけ鳥化したマルコの動きが一瞬止まる。途端に突きつけられるのは、船医ヴァレリーがまるで剣先の様に突き出した注射器の針だ。瞬きの睫毛に触れるか触れないかの位置までギリギリに寄せられたそれの中身は知っている。
「この船の船医は、一体誰だ──?てめぇの、海楼石の銃弾引っこ抜いて縫い合わせてやったのは、一体誰だ──?」
「……っ、」
「分かってんじゃねぇか──その慢心…おれは言ってただろ、能力者ってのは…与えられた力に過信が過ぎる。おまえは、自分が強いと思い込んで判断するべき時を見誤った───、海楼石は確かに流通は滅多にしてねェ…、だが、ある所にはあるってのを肝に銘じておくべきだったな──」
正論であるほど耳に痛い。
めらり、めらりと炎の翼が燃えるが、海楼石で撃ち込まれた左脚を中心に渦巻く炎は自分の意思ではない。治りが遅い場所に、自然と身体の機能として無意識に再生を強く促しているのだ。おかげで、身体のバランスがおかしい。マルコの腕も脚も、人の形に戻っては炎の揺らぎと共に鳥のそれに不規則に変わるのが異変を如実に物語っていた。
油断は、した。
相手の力を見くびっていた。純粋な個々としての能力を勝手に測り、完璧に見誤っていた。確かに、もしもあの男達が極々一般的な海賊や、闇商売の人間だったならどこからでも巻き返しは出来た筈だ。海楼石、能力者であるがゆえの最大のウィークポイント。そこを突かれれば弱い。
油断と、そして過去の忌々しい記憶と───。
「……わかった…よい、皆に迷惑掛けちまってるのは本当だ…」
「マルコ…、」
だから拘束を解いてくれ、と強く握った拳を下ろす弟の姿に兄貴分達はホッと安堵した表情を向ける。が、船医の手元は下げられることなく、グサッと良い音を立ててマルコの腕に包帯腕から太い注射器を突き立てる。
「「ええーーー!?ヴァレリーーーーッッ!??」」
「それはそれ───、うるせェし苛立つから、しばらく反省して寝てろ──」
「こ…この…暴力…ジジ…イ………」
「勝手に言ってろ──医務室じゃ、おれが法律だ──」
揃って驚愕の声を上げる兄弟達の声を聞きながら、マルコはまたもや混濁する意識の中にガクッと身体ごと落ちていくのであった。
✳︎
「チクショウ、暴力医者め…おれァ絶対にああはならねェぞ……」
部屋の前にはご丁寧に見張りが付けられている。そしてそれ以前の問題として、頭の冷やし方が足りないと結局拘束は解かれたものの、部屋から一歩でも出ようものなら船長に誓って今後一切"出禁"であると念を押すヴァレリーの言葉は脅しではない。この船で、神に誓うよりも絶大な意味を有している対象を出されては、本気も本気だ。
幸いというか、当然として患者が何日か放り込まれても良い様に設備は整えられているが、ヴァレリーもその助手を担うクルー達も基本的には重症・重傷者が在る時以外は医務室で就寝することはない。同じ階に、医療担当班は部屋を分けており、あくまで清潔に保とうという意味とそもそも海を行く船の中で起こり得る事故、病気を考えれば詰めていない方が理にかなっているのだ。
だからこそ、マルコは片手を壁に突きながらゆっくりと脚を運ばせる。頑丈な木枠に手を掛けて、海水や嵐を防ぐ為の覆いを両手でこじ開け。流石にここは室内から出たとカウントはしない筈だった。鍵を開きようやく推し開いた扉から、潮風に乗って海の香りが一気に病室へと舞い込む。
カーテンの厚い布地を、旗のようにはためかせる、大海原を抜けてきた風だ。ガーゼの貼られた頬に、シャツの端を翻し、包帯の巻かれた脚に抜ける涼気の心地良さにマルコは目を細める。が、それもまた一瞬だ。
「……、……今回は…流石に………、」
上階層からは家族達の気配。赤々と照らされているであろう松明の中で、焔の中で枝が繰り返しパチパチと爆ぜていく音が聞こえる。バルコニーの木製の手摺に頭を沈めれば、意図せずにそれこそ神への懺悔の姿勢にでもなっただろうか。
─── まさか、あのロクデナシが絡んでやがったとはな…、だがもう問題ねェ。A・Oの海域が一番近い、既に動いてくれたようだ。
─── オヤジ、すまねェ…!!結局、皆を巻き込む事態になっちまった…。
A・O、白ひげ海賊団傘下の海賊団の船長である。耳に三連の紅玉の飾りを下げ、性格は温厚ではあるが白ひげという男の家族という繋がりの強さに何より敬服して傘下に降った男である。時折、挨拶として顔を出す男が白ひげを父親と慕うと同様に自分達を弟に近しいものと想ってくれているのを鑑みれば、それこそ烈火の如く怒りを燃やしてくれたことだろう。
それを嬉しく思う気持ちと、自分の落ち度の尻拭いをさせる羽目になったと、混ざり合ってはいけない気持ちが胸の中で水と油の様に同時に渦を巻く。何より、自分の慢心が許せない。自分だけでなく、実際に負傷者を出してしまったのだ。
それも、非戦闘員を。
─── おれに謝る必要はこれっぽっちもねェ、だが…おまえの振り上げた拳の下ろす先が…おまえ自身になっちまうなら、マルコ。…受け取っておくぜ。
海賊も人間だ、油断もする。
当然のことではあるが、悔やんでも悔やみきれない後悔も存在しているのだ。自責の念に苛まれる息子を前にして、その想いを受け止めると船長であり父である男が頷いてくれたからこそ、マルコは補足はありながらも息を吐き出せた。
─── ……ッそうしてくれ…、……二度と同じヘマはしねェ、皆に…悪い……。
─── そんなしけた面するんじゃないよ、マルコ!A・Oだって腹立ててるのは、その連中と趣味の悪いバカ共に対してさ。それに、謝るよりはサッチを褒めてやりなよ!あんたの為に死に物狂いで夜の海を泳いだんだ、格好良いじゃないか…ねぇ、オヤジ?
─── そうだぜ、マルコ。助け合える家族も、友も、おまえには在るんだ。"あの頃"とは違う、それがよく今回で分かったろ。
ホワイティ・ベイが堪えきれないと控えていた白ひげの傍から歩み寄り、弟分の肩を撫でるよりも叩く勢いで励まし鼓舞をする。怪我人に対して大分荒っぽい励まし方であったが、その強さでマルコが一人ではないと思い出させる為の様だった。
─── それに、あの子…どうやら…、
「………見聞色…、」
「あ〜〜、皆すげェ言ってるけどイマイチ理解出来ねェんだよなー、そもそも何色なのそれ」
「…バカ、見聞色って言っても別に色が見える訳じゃねぇよい。表現なだけで…、武装色だの、見聞色だの…オヤジの覇王色だ……の……、」
「あ、そうなの?」
項垂れる手摺から顔を挙げて、マルコは丸い瞳を瞬かせる。医務室を利用しているのは、自分一人だけだ。医療班も居ない。じゃあ、今自分がさらりと会話していたのは誰なんだ?
「じゃあ、特色…っていう意味での色か。いやー、よく分からないなりに、奥が深…、」
上層階から、逆さにぶら下がる隣の男に、マルコの顔の血の気が面白いくらいにサーっと引いていく。次の瞬間、頷きながら感心して見せる男の頭を両手で鷲掴みにしていた。
「サッチィ…!?おま、何やってんだい、そんな所で!!おち、落ちたらどうすんだアホンダラァァ!!」
「わー!?わっ、引っ張んな、引っ張んなって落ち着け!!逆に落ちるわ!!マジで怪我人!?力強ォ…!」
「……大丈夫か、おまえら。落ちたら拾うが、オヤジに叱られる様なことはするなよ」
「ナミュール!」
「オーケー、オーケー、海に落ちたら任せる!ありがとな!……っと」
「サッチ!!」
さらにその上階、甲板から身を乗り出すのは魚人のナミュールだ。マルコ自身が縁あって白ひげ海賊団に勧誘した以来の仲ではあるが、サッチが脚に器用に絡ませていたロープの先がナミュールによって握られていることから、協力者であることは間違いなかった。
ひらり、と脚を離してバルコニーに着地するサッチがロープを回収する。うまくやれ、と掌だけ振って気の良い魚人の仲間は引っ込んだ様だった。
「ざっとこんなもんよ、イゾウも手引きしてくれたんだぜ。ヴァレリー先生に叱られたくねェからすぐに撤退しねェとだけどさ、マルコの具合がどうしても気になっ…」
「何で来た!!」
「へ?」
マルコの握られた拳が、サッチの胸板を叩く。へらへらと笑っていたサッチの瞳は大きく瞬かれるが、叩かれた痛みに対しての怒りは浮かばない。それどころか、続けて拳を打ち付けようとするマルコの腕を取ると、慌てた口振りで首を左右に振る始末だった。
「何でって今言った通りだろ、具合まだよくねぇんだろ…?忍び込んだおれが言うのもなんだけど、無理せず寝てた方が…」
「違うに決まってんだろ!あの時だ!なんでおれを助けに来たりしたんだよ、戦闘員でもねェくせに!!」
「そこからかよ!おいおい、落ち着けって…おれは感謝こそされすれ、殴られる覚えはねぇってんだよ!そりゃ、戦闘員じゃねェけどな、おまえはおれの盃兄弟で…、」
「…る所だったんだぞ…、」
サッチがどうにか宥めようとする掌を、マルコが振り払って引き剥がす。マルコの方が、背丈こそ劣っていたが物理的な腕力では優っていた。脚力も、体力も、戦闘面において圧倒的な差があった。ズブの素人に、負ける筈がなかった。そのマルコの両手が、ぐえっと潰れた音を立てるサッチの首根っこを引き寄せる。
「おまえが、死ぬ所だったんだぞ…!!」
掴み上げられたサッチの頬に、雨がポツリと落ちてくる。空からのそれにしては局所的な雫にサッチは反論の為に開いていた唇をゆっくりと引き結んでいく。包帯に覆われた顔の半面に、手のひらの震えが伝わると共に熱い涙がじわりと染み込んで行く。
「……マルコ……」
「弱ェくせにおれを守ったりすんな!!庇ったりすんな、…頼むから……、……おれは守られる為に、おまえと盃交わしたんじゃ…ねェよい…!!」
「うん…そりゃ、あれだ…ごめん」
「運が良かっただけで、おれのせいでおまえが殺されてたかも知らなかった…、おまえ、責任取れんのかよい…!!おれのせいで、おまえが死んだら、どう責任取るんだよ…!!誰が守ってくれなんて、っ…言った、おれは…おれはァ……ッ…」
「うん、うん……ごめんなァ…、それ考えてなかった。マルコが、危ねぇって思ったら…走り出してたし、泳ぎ初めてたんだよ、考えなしだったってのは本当だ。……買い出しの舟、盛大に燃やしちまったしなァ…」
胸を叩き付ける拳があっても、突き放す為ではない。サッチの襟元を左手で掴んだまま、子供の様に泣きじゃくる姿は到底家族と言えど、面子のある海賊として名を馳せるには酷く不似合いなものだった。それでも、サッチは遠慮がちに背中に回した掌で、宥める様にポン、ポンと拍子を取っていく。
「……マルコさぁ…、きっとおまえが一番怖いのは、"自分のせいで誰かが死んじまうこと"なんだよな?」
「何言って……、」
「おまえずっと前に…おれの為に泣いてくれただろ。おれの昔の話聞いて、あの時も…こんな感じだったって…思い出したわ…、」
サッチの一生の後悔は、誰にもその根を引き抜くことは出来ない。知らなかったとはいえ、巧妙に毒を混入された食材を使って調理してしまった。それを口にした、歳若い弟、妹達が生き絶えたのだ。誰もサッチを責めなかった、だから、サッチは自分自身を責め続けるし、決して許してはいない。生涯背負う罪として生きることを選んだ。
そのサッチの覚悟を、哀しいと泣いたのがマルコだ。
─── おれのせいで誰かが死んじまったらって思ったら、"おれなら"死にたくなる……!!
「……お前にとっての誰かって、家族のことだったんだろ。ごめん…、死にたくなるような思いをさせちまって、今度からは気を付けるからさァ…」
もう互いに良い歳だ、子供ではない。大人が泣かないのは、きっと子供の手前堪えるものだから、十三の頃に戻って涙を流したと思えばサッチもマルコの涙を決して笑うことはできなかった。自分の為に泣いてくれる友がこの世には存在する、そのことが仄暗くも嬉しいと感じてしまう。夜空を見上げれば、星が瞬く。
星の輝きは見上げなければ気付かない。
マルコの嗚咽が止まるまで、サッチは背中を撫でながら胸を貸していた。当然の事を当然のことだと気付かせてくれる友の為なら、シャツが絞るほど濡れても構わなかった。
✳︎
数分はそうしていただろうか。肩の震えが次第に収まってきたかと思えば、不規則な揺れに変わってきた事に呑気に星空を緑の瞳に映していたサッチの視線が下がる。
「マル……あいっでぇ!?」
「ふ、ふざけんじゃねェよい!!いつまで引っ付いていやがる!ガキじゃねェんだ、離れろい!!」
「えぇ〜〜、それマルコが言う……?」
「あ?」
「はいはい、そのとーりですねー、元気そうで何よりだよ本当に…」
先程までのしおらしさはどこに行ってしまったのか、しがみついていた筈の掌でシッシッと野良犬でも追い払うかの様な剣幕にサッチは肩を竦めながらも安堵する。怒るくらいに元気を出せるなら、泣いているより余程良い。
「(ま、泣ける場所におれがなれるなら、それで良いんだけどね…)」
「……サッチ、その顔、……どうなった?」
「あ、これ?左目は無事だぜ、全然大丈夫。骨にも達してねぇし」
「けど出血は多かったろ、…何針縫った」
さて、とサッチは視線を迷わせる。言葉を誤魔化すのは、この場合得策ではない。どの道バレてしまうなら、正直に吐いておいた方が良い筈だ。
「あー……五…六針くらい?」
「……そんなにか」
一気にマルコの顔に影が掛かるのに、サッチは慌てて左右に掌を振る。
「包帯が大袈裟なんだよ!ヴァレリー先生が言ってた、おれは運が良い方だって」
「けど、傷は残るだろ?」
「まぁな、多分…けど名誉の負傷だろ、それにちょっとくらい顔に傷がある方がワイルドな海の男っぽくて良いじゃねぇか」
「いやそれはちょっと…」
「何でだよ!!そこは同意しとこうぜ!?」
「痛みは?」
「まーぁ、ちょっと?思ったより痛くねェよ、撃たれた時だって全然痛くなかったんだ、だから正直ヴァレリー先生が塗ってくれてる時の方が痛かったわ。麻酔なしで縫うんだもんなァ、ざくざく!恐怖で気絶するかと思ったっての!」
ケラケラと、何でもないことの様にサッチは笑う。船壁を叩く水の音に、マルコは心底思い知らされる。溺れる必要のない陸に足を付けて生きるより、結局、自分を嫌う海を心底愛している。
海に愛されなくても、構わない。
「……見せてみろ」
「えっ、駄目だって」
「何でだよ」
「ヴァレリー先生に念押しされてんだ、マルコに見せんなって。見せたら、おまえ再生の炎を使っちまうだろ〜?ヴァレリー先生はさ、おまえのこと心配してるんだよ。だから、今は体力を使うなってことだろ」
「……多分半分は違ェよ、いいから見せろって!包帯なら巻き直してやるから!」
「ギャーーー!!おまえの方が重傷だろうが、能力使うなよ!?使ったのバレたらおれがヴァレリー先生に逆さ吊りにされんだからな!?」
ヴァレリー自身、脚長族の奴隷としての壮絶な過去を持っている男だ。そのせいで、片眼も、片脚も機能を失ってしまったのは理解している。マルコという、限りなく貴重な能力者であり、その性質に神秘めいたイメージを勝手に押し付ける層が一定数いるのを誰よりも危惧してくれているのも分かっている。
それでも、マルコはサッチの両手を挙げての制止を振り切って両手を伸ばす。片手でサッチの背をテラスの手摺に押し付けて、もう片方で包帯の端を遠慮なしに剥ぎ取れば、流石にそれ以上の抵抗はなかった。
波の音が、二人の視線の間に響く。
掌から掴み損ねた包帯がゆらゆらと、マルコの腰の青いサッシュと同じ風に揺られて靡く。
「………ひでェ面に…なっちまったねい……元からか」
「マルコさんよォ、良い男だろうが元から。で、おまえは元から結構横暴よ!」
「………」
「ちょ…タンマ、タンマよ。真面目におまえはおまえの回復だけに力は使って」
サッチの左眼を三日月に囲う様にして、真新しい縫合痕が刻まれていた。赤く引き攣れた傷跡が、痛まない訳がない。マルコの無言をどう取ったのか、サッチは片手を再度挙げてはキッパリと断言する。
「おれはおまえを助けられて良かったってヒロイズムに酔ってんだよ〜、それが切れたら多分痛んじゃうからさ。まだ酔わせておいて、頼むから」
「………あぁ、分かった」
「ん、よかった。それよりおまえの傷だよ、脚、見た所治ってるみたいだけどさ、まだ動かすの不便なんだろ?しばらくは、おまえに会えないかもだけど───ちゃんと皆に頼れよォ?ジョズなんか、心配でぶっ倒れそうな顔してたよ」
あの巨体が倒れてきたら、自分など踏み潰されて一瞬で干物状になってしまうとサッチは笑う。
マルコには分かっていた。ヴァレリーが、マルコに再生の炎を使わせない理由が。
これはヴァレリーからの"警告"だ。
サッチの顔に刻まれた傷跡を見る度に、マルコは自分の軽率な判断と過信を思い出す。それが、今後の挙動の抑止力になると思っての効果だ。敢えて雑に処置をしている訳でもない、だが、マルコの力を持ってすれば縫合を最小限に留められたはずだ。それをさせずに、別の部屋に分けて今まで留めておいた。マルコの力が最大限効果を発するには傷や症状が出てから早ければ早い程良い。今更、サッチの傷跡に炎を灯したとして深い傷跡が残ることは防げない。
ヴァレリーには、ヴァレリーの信念がある。その為ならば、嫌われることも方法も選ばない。分かっていたことだった。
「……と、そうだ。なぁ、マルコ、手を出してくれよ」
「なんで」
「いいから、早く」
せっつかれて、下唇を噛むマルコは掌を拳にしてぶっきらぼうに差し出す。愛想のないその様子に小さく笑ってからサッチは七分丈のズボンのポケットに手を突っ込むと、取り出した何かをその拳を緩く開いて握らせる。
「……なんだ、これ?」
「開けてみて?」
「…………?」
ニコニコと笑ったまま、早々に手摺に背を預けるサッチにマルコは訝しげな面持ちで袋に視線を落とす。茶色の小さな紙袋だ。封となるテープ一枚を指先で切る様に外し、中へと指を差し入れる。取り出されたのは───、
「へへっ、ちょっと早いけどさ、誕生日おめでとう!」
「……サッチ……これ、腕輪かい?」
マルコの瞳が大きく見開かれる。
その反応が愉快だったのか、サッチの微笑みが破顔に変わる。掌の中でシャラリ、と軽い音を立てる金細工の輪が、驚いたマルコの顔を映し出していた。
「いや、脚に付けるんだって。金じゃないからそんなに値段しないけど、綺麗だろ?」
「何だっておまえ、アンクレットなんて…」
誕生日は少しまだ先だったが、その頃は船の上で買い出しにも出られないともなればタイミングがずれるのは構わなかった。お互いに、生まれた日は朧げだったがマルコは白ひげに拾われた日の十月五日を、サッチは推定で決めた日の三月の後半を誕生日として祝い合うのは恒例である。
ただ、サッチが祝ってくれる日の贈り物は、大抵歳を重ねるごとにクオリティの上がっていく菓子か料理だったし、盛大に祝われる誕生の宴の席かその後で差し出されるのが定番となっていた。
「…しかし…男のおれに、装身具ねェ…、」
思わず、意外のあまり鼻先で笑ってしまったような声にハッとするが、マルコの掌から抜き取った金の輪を手にサッチは気を害した様子もなく屈み込む。
「おいサッチ、そりゃおれがもらったもんだよい」
「おれがあげたもんです、そうです。……御守なんだと」
「"おまもり"?」
「そうそう、そっちの脚乗っけて?その店の姉ちゃんが言ってたのよ、装身具って言っても色んな願いが込められてて…例えば健康祈願!とか、おれ達なら船旅の安全とか…海賊らしく金運上昇とか?色々あるんだって」
「金運上昇…せめて武運長久じゃねェか」
「家内安全かもよ?家族が全員元気であります様にって」
サッチが笑ったまま自然な形で促すものだから、マルコは素直に屈み込んだ膝を突くサッチの腿にグラディエーターを履いたまま脚を乗せる。左の脹脛に巻かれた包帯に、ゆらりゆらりとまだ制御し切れない青い焔が海底の花の様に溢れるのに、何か言葉があるかと思ったが身構える様な言葉はなかった。
「このアンクレットに込められてるのはさ…"良い風が吹くように"だって」
「─── 良い風が、吹くように…」
「そ、取り方は色々あると思うんだ。気持ちよく生活できるように、とか、……新天地でうまくやっていく、とかさ。自由に取れるのが良いだろ、海賊っぽくて」
「おまえ、自由の意味を少し履き違えちゃいねェかい…?」
「おれとしては、おまえに常に良い風が吹くようにってそのまま思ってるよ。だから、マルコも好きなように捉えれば良いと思う」
サッチの器用な左右の指先が、マルコの脹脛に触れる。一瞬、揺らいだマルコの指先がサッチの肩に触れる。それを、バランスを崩したせいかと大して気にも留めることなく丁度良い位置に調整すると、再び手を離した先には包帯をまるで覆い包むように、金属の束が音を立てて澄んだ小さな音を立てる。
「……これ、アンクレットっつうよりは、脹脛じゃ…」
「なははは!!考えてみたら、マルコ大体はそのグラディエーターだもんな!付けるスペースなかったわ、でもほら、違和感ないだろ?な、別にミスったとかじゃないから、多分脹脛に付けても問題ないやつだから!」
明らかに良い笑顔の上に、焦りの汗がたらりと落ちて行ったのを脇目にマルコは自分の左脚をマジマジと見下ろす。右ではなく、敢えて左の脚を示したサッチの意図は分からなかったが、シャララン、と音を立てた飾りにサッチがすかさず人差し指の先を立てる。
「ほら、すでに良い風が吹いてきてるだろ!順風満帆…とは行かない時も…それを着けてりゃどんな嵐だって逆風だっておまえなら上手く乗りこなせる!飛べる!」
海原からは、確かに心地良い風が吹き抜けていた。
サッチの長髪を揺らす風が、マルコの頬を撫でる。
「だから、元気出せ!兄ちゃんからの贈り物だ!……センス悪いとか言うなよ?結構高かったんだからな、趣味じゃなくても捨てたりすんなよ?せめて机の中にしまっておくとか……、」
「……外さねェよ、折角付けてくれたんだ。このままにしておく」
「あっ、そ、そう?そうか?そんなに気に入った?」
「よいよい、まぁ…来年は純金のに変えてもらおうか」
「だーー!!おれの給金考えてから言って!無理、まず無理!十年かかっても無理〜!」
気付くには、もう充分だ。
サッチは目的の為に船に乗って、その事自体を悪い事だとは思わない。海賊船に乗り、海賊を父として、海賊を兄弟として仲間とした。それだけの、純粋に料理を愛し、過去を背負う覚悟を決めた料理人だ。根っから海賊稼業に染まり切ったマルコとは違う、人を殺めたことがない手足を持っている。
こいつが人魚なら、ナイフを突き立てずに海の泡になる運命を受け入れるだろう。不気味な話だ、マルコは別にサッチを人魚にもお伽話の中の姫君にしたいわけでもない。
ただ、こんなのはどうだろうか。
傷心の人魚姫は、失意のあまり海に身を投げる。
その人魚を、海賊が掬い上げ宝箱にしまい込んで自分のシマに連れ去った。そんな筋書きに仕立ててあげてしまうのは。
「───なぁマルコ…、どったの顔すごいことになってんよ…?」
「へぇ…どんな風に?」
「どんな風って…、月のせいかな、目が何か…」
一歩、近寄れば、一歩下がりかけるくせに下がらない。困惑した面持ちを崩さない癖に、とことん情に厚いお人好し。海賊は、宝を奪う。マルコは宝飾品の類に、興味はない。金塊も宝石も、見つかればその分長く仲間達と海を冒険出来る。それだけだ。趣味も酒場のコースターを集めてくる位で金も掛からない、物欲がない。いや、なかった。
家族は宝だが、敬愛する父親をはじめとして仲間達皆で背負う物だ。しまってはおけない。だから、もしも自分の為の宝箱がひとつだけ、鍵がひとつだけあるなら、そこに錠を掛けて閉まっておくのもひとつだけで良い。
自分だけの物にして、しまい込んでおく。大切にしよう、宝なのだから。
「─── 猫の目みたいだ。丸々太った…美味そうな鼠を見つけた時の…、」
勘の鋭い男は、嫌いじゃない。
だが、まだだ。まだ、その時じゃない。
良い風は、きっと吹く。
宝の箱は、やっと開かれたばかりだ。
TO BE CONTINUED_