Crossing Magenta 赤い果実は、掌に心地良い大きさだ。
大振りのを一つ選んで、美味いかどうかは果実自体が教えてくれる。赤くて、ツヤがあって、自分は美味いと全身で主張している様なのが良い。見栄えなんてものは味には関係ないと思うのは大いに違う。味は、舌で感じなるものだけではない。嗅覚と視覚とが大きく働いている。
舌を誘う甘酸っぱい香りはするか?
シルエットは?
ついでに聴覚も働かせて、指先で丁寧にノックすれば色良い返事をしてくれる。
林檎よ、林檎。
この店の中で一番美味い林檎は、君で合ってるかい?
一口齧れば、目覚めるような甘さは持っているかい?
コンコン、と高い澄んだ音がすれば、まず歯触りの良い林檎であることに間違いない。目深に帽子を被った男の口元が笑みを浮かべる。顎には整えられた髭が、彼は成熟した男であることを伝えていた。
「おっちゃん、これもらうよ」
「あいよ、100ベリーだが…兄さんにはまけてやる、…大きな声じゃ言えねぇが白ひげのおやっさんには、昔…世話になってね」
「おほっ、マジで?」
ポケットからコインを出そうとする男を、恰幅の良い中年の男は緩やかに笑って制する。エプロンが、赤と白のストライプで色取られた天幕と揃いになっている。
この春島でのマルシェの買い物で、すっかり片方の手が食材で満たされた紙袋を抱えていた男は、口笛を吹いてパナマ帽下の瞳を人懐っこく笑ませるのだった。目元に刻まれた不恰好な三日月が彼を決して堅気の人間ではないと暗に示していたが、彼の首から下げられた特徴的な十字架は見る者が見れば伊達や酔狂でモチーフにするには震え上がる代物だと気付くそれである。
大腿骨の十字に、不敵に笑う髑髏には逆さになった三日月がよく似合う。
「おっちゃん、昔はぶいぶい言わしてた感じ?」
「ははっ、そっちじゃねぇよ。十…じゃ足りねェ、十五年は前の話になるか、白ひげのおやっさんが、おれの息子が乗ってた漁船を救ってくれたんだ。別の海賊に襲われてるところを、進路を妨害して邪魔だって理由でよ」
「そりゃあ…、」
男は思わず、顎に手を当てて笑みを溢す。
どこかで聞いたことのある話だ。もっとも、漁船に乗ってはいなかったが。
「何だよ、信じないのかい?」
「いや、いやいや、そうじゃない。信じるよ、実際、おれもそういう場面に出会したことがある」
「だろう、そうだろう!あの時、息子ぁ海に落とされて死ぬか、切られるか撃たれるかなりして死ぬのを覚悟したが、白ひげのおやっさんは違った。おかげで、元気でぴんぴん、家族達にも再会出来たって寸法よ。あれ以来、おれが祈るのは神じゃなくて、…ソレだ」
にやりと、店主は林檎を持った手で頬杖を突く男の胸元を指差す。革紐の先に括られた、十字架だ。
「あんた、傘下のメンバーかい?」
「さぁて、面白い話の礼に勿体ぶらず教えてやりたいが…知らない方が良いってこともあるだろ、少なくとも、神なんかに祈るくらいならコッチに祈る口だ。分かってくれる?」
自分の胸元を、指先でトントン、と示して男はなだらかな曲線を描く唇を持ち上げる。そうに違いない、と声を立てて愉快そうに笑う店主は、結局支払いのコインは受け取らなかった。それどころか、次回はないだろうから、と店先の新鮮な果物をあれもこれもと袋に詰めて押し付けるものだから、サッチの片手は既に目線よりも遥かに上回る量の紙袋が所狭しとひしめきあっていていた。
「得しちゃった、なぁ……っと、ん〜〜うまっ…!!」
春島の春は実に快適だ。
大振りの林檎をシャツの端で擦って、大きく一口歯を立てて飾り付けば、独特の爽やかな香気と共に滴る蜜も甘酸っぱく口角は上がりっぱなしになる。歯触り、最高。これだけ甘い林檎なら、下手な手は加えないで丸齧りが一番だ。パイに仕立て上げるなら、熱に強く酸味がもう少しあった方が───、
シャクシャクと小気味良い咀嚼音と共に街を練り歩く。
さて、今日任されているのは"アフターディナーティー"だ。ミッディブレイクティーよりも、凝っていて、アフタヌーンティーよりもしっとりと深い味の菓子がいい。合わせるならば───、深い緑の瞳をぶらりとした街歩きに巡らせたところで瞳の奥の瞳孔が僅かに拡がる。
彼方、3キロメートルは離れている街の中心、華やかなショッピング街───、明らかに素行良からぬ者達が向ける視線の先に、二つの人影。そこまで把握出来れば充分だった。
「あらら………、───、」
既にその場に、男の姿はない。
走り去った石敷きの通りに、ピンクや紫の柔らかな花弁が風に巻いて澄んだ青空に向かい舞い上がっていた。
✳︎
「きゃーーー!!どうです、これ、似合います?船長が悩殺されてくれると思います〜!?すごく可愛いです!」
どうにも栗色の髪は癖っ毛らしく、柔らかなうねりをその前髪にも垂らしたおさげにも見せていた。鼻先の雀斑は、少女と言うには成長を遂げており、女と言うには何処か物足りない乙女のチャームポイントなのだが本人としてはどう消そうか毎朝鏡と睨めっこしては躍起になっている。
その片手には、白いフリルとレースがふんだんに使われた少女趣味の下着が上下セットでぶら下げられている。
パッと見るだけでは、ハンチング帽の下に街の娘と変わらないような素朴な面立ち。突き抜ける様に青いセレストブルーのジャケットに、胸元にはこれまた趣味らしいフリルのクラバットがホイップクリームで装飾でもした洋菓子の様に彩りを添えている。ジャケットと同じ色で揃えたキュロットからすらりと伸びる足元に置かれる本格的で鹿爪らしいパイロットケースだけ不似合いといえば不似合いだった。
ここは、下着専門店だ。
花弁を重ねて合わせた様なパステルカラーの色味で包まれる店内に、娘のその傍に苛立ちながら底の高いロングブーツを鳴らす姿に圧倒されるだろう。
「一体何着買うつもりよ、そもそも船長にまたお会い出来るまでにあんたのサイズが変わってたらどうすんの?」
「それって…む、胸が大きくなるかもしれないってことですかーー!?」
「貧乳が何言ってんの」
全身をグレーベースの総柄マドラスチェックチェックで占めるパンツスーツに身を包んでいるが、胸元のみ大きく開いている谷間からは豊かな乳房がぎりぎり、しかも完璧に真っ赤に染め抜いたハートの襟から覗いていた。鳥の鶏冠の様に片側を刈り上げて流す黒髪に、真っ赤な唇、一本一本確固たる意思を持って天を目指す睫毛までが毒々しいが惹き寄せられる花の様な姿である。
並び立つ二人の身長差は、少なく見積もっても90センチメートルはあるだろう。帽子を被った雀斑の方が小さいのではない、パンツスーツの方が3メートルは確実に身長を超えていた。
「えぇ…じゃあ、こっちは?」
「知らないわよ、そんなフリッフリの媚びっ媚びなんてあたしの趣味じゃないもの。知らなァ〜い、でも似合ってるかもね。あんたみたいな、ナインペタンには。あたしはこっちね、セクシーで、罪な…んん〜ダイナマイツッッ♡」
真っ赤に塗られた長い爪の先には、隠す気があるのかないのか。実に際どい下着が下げられている。
「ちょっと、ナインペタンって何です?」
「あたしみたいな、ナイスバディと違うってことよ、ミルクガール。バストがないん、ヒップがぺたん。ね?ナインペタン」
「ひ、ひどい…!船長は、人のこと胸の大きさで判断しません!!何ですか、大きくたって、牛じゃないんですよ!!」
「今あたしの、この神に愛された罪な身体をホルスタインっつったかしら?正気?」
街は春の女神が夏の女神に交代するカーニバルシーズン。いつもよりも客層として観光客が増えるのは当然だったが、女三人集まれば姦しい。二人であっても、十分に姦しいそのありさまに、困った様な微笑みを浮かべて見守る店員もプロ根性であった。
そのランジェリーショップの外から、半円を描く形に開かれる窓より覗き込む、場にそぐわないを極めた男達は顔を見合わせる。
「お、おい…本当に合ってるのか?あれで」
「間違いねぇ…、デッカい方がこれだ、"ブラッディ・ロッソ"……あれで、9500万ベリーの賞金首だぜ」
「一億超え手前じゃねぇか…!!早く来ねェかな、皆…!!二人だけじゃ心許ねぇよ」
この世界では、政府にとっての反逆者は概ね賞金をその首に掛けられる。言葉通り、首を獲って決められた手続きを踏めばその首に掛けられた金額の───手数料やら仲介料諸々を引いたとしても、近い金額が手に入る。となれば、この世の中に海賊という海の犯罪者が増えれば、賞金稼ぎ、という職を選ぶ人口はここ数年で一気に跳ね上がっていた。
Dead or Alive、彼らが選ぶのは圧倒的に前者である。難易度は特殊な能力持ち以外では、どちらも同じところから生け捕りのリスクはあまりに高過ぎる。
損傷させ過ぎて、本人かどうかの確認が取れない。そんな理由で詐欺まがいな殺人が横行した時代もあったが、政府はすぐに天才科学者の力をもって皮膚の一片からでも持ち主の生存を判別出来る特殊な装置を開発していた。だからこそ、賞金稼ぎはある意味で海賊よりも性質が悪いという声もある。
何かしら自分の筋を通す、子供めいた矜持を持つ海賊に比べ、犯罪者は人ではないと割り切り人殺しを生業とする賞金稼ぎと、果たしてどちらが人の道から外れているのか───と。
腕に乗る小型電伝虫に声をかけ続けていたサングラス姿の男は、不意に途切れた通信に慌てて殻を突っつく。一億近くの賞金首に、たった二人で攻め込むのは無謀だ、それに無害そうな片方の女と違って通り名の通りであるなら大分危ない橋を渡ろうとしているのは分かっている。
それにしたって、9500万ベリーは魅力的過ぎる。
「本船もねぇ、単独での行動ならやって出来ねぇことはないさ…しかし、…デケェな…、おれは胸より尻の方が重要なんだが…それでもあの乳には挟まれてみたいぜ…」
「っおい、おい…何だよ、通信がうまくいかねェ…、」
「サウスエリアの下着屋ってのは伝えてあるんだろ、なら大丈夫だって…、何だったら、海楼石だって一発だけおまえ、装填してあるだろ?」
「そりゃそうだが…、」
「何が大丈夫なのかしらァ?」
窓から伸ばされる、腕が見えた。
男二人の視界に入り込んできたのは、正しく腕としか言いようがない。全ての指を彩る赤色が、妙に間近に迫り、磨き上げられた光沢に自分達の驚愕した顔が映る。指先が、形を変える、人差し指と、薬指、小指は立てられたまま、親指と中指とが触れ合わさったと脳が認識した瞬間───、
バゴォォォォォオン!!!!
「…………ひっ…!!ざ、ざざざ…ザーコ!!」
「あらあらあらお友達のお名前?坊や達、今、偉大なる航路に入ったばかりのヒヨコちゃんなのかしらァ?次、自分の番だって思わない?思うわよねェ、普通」
通りを挟んで、向かいの煉瓦の壁にまで叩き付けられた男がそのまま、ピクリともしなくなるのに残された男は飛び上がる。左手で、先程から眠ったままピクリともしない電々虫に連絡を取ろうとすれば、その動きを見通した様に爪の弾き一発で仲間を前衛的なアート作品に変えてしまった女が、その腕を掴んで電々虫をバンドごと引きちぎっていた。
「………ッッ、」
「チャオ〜〜聞こえる?そう、ロッサよ。ねぇ、悪気はなかったのよ〜本当に。だってもう少し普通は踏ん張るじゃない?期待値以下だったの」
「な……何言って……、」
「お店の"中"で騒ぎを起こさないって約束は守ったわァ、ミルクガールは無事よ、仔兎より元気にピンピンしてるもの」
確かに店の外ではある。
腕一本が伸ばされて、まるで暇な午後の長電話の様に窓枠にもたれながら電々虫に向かってぺらぺらと話し続ける女の姿は奇妙を通り越して恐怖だ。だが能力者ならば、圧倒的な力をこちらは持っている。サングラスを口元までずらし切った男は震えながらも、腰のフリントロック銃を女の眼前に突き付ける。赤く渦巻く瞳に抱いた恐怖を、突き返す様に。
「ぶ、ぶ……ブラッディ・ロッ"ソ"!!覚悟しろ…おおおれには二十人の仲間がついてるんだ、は、はは……、すぐここに来る!!能力者が二人も居るんだ!!」
女は一瞥くれただけで、すぐに電々虫との会話に戻ってしまう。おかしい、通話の先は誰だ?誰かと話しているのは分かるが、表情は殻越しでは分からない。恐れで早まる鼓動のせいで、何とか銃を構え続けることに意識の全てが持って行かれていた。
「ランジェリーね、買えたわよ。乳臭い感じによく合う、ゴテゴテのやつを。あたしはオーダーメイドでいいの、この絹の素肌に寄り添うものは一流のものじゃないと」
「お、おい…!!さっきから何を話して…、ほ、本気だぞ…!この銃には海楼石の銃弾がそ、そそ装填されて…!!」
「あ〜〜あ……店の外って言ったって…結局、別の店に迷惑かけてんじゃないの…、」
「!??」
鼓膜を震わす溜息に、男の全身の毛穴から汗が吹き出す。気配がなかったどころではない。肩を組み、まるで親しい友の様に勝手に身体が動かされて気付く。
銃は、両手で握っていた筈の命綱は、一体どこに行った───?
「どうすんのよこれ、いや、近隣の皆さんご迷惑お掛けして申し訳ない。キッチリ、弁償させてもらいますんで、本当に…ロッサ!!ほら、帰るぞ。店にお詫びしてからな…」
「サッちゃん〜〜あたし悪い事してないわ、酷いの。その子達、あたしの事、ロッソって呼ぶのよ心外よ〜〜っと指で弾いただけなのに?」
「だけでもだよ、ビアンカちゃん連れて来てくれ。───あぁ、お兄ちゃん」
汗が吹き出して止まらない。
「お仲間な、命までは取ってねェから皆まとめて、引き揚げてくんねェかなぁ…明日までに。それと、賞金稼ぎは偉大なる航路より外で地道に稼いだ方がリスクはねェよ、頑張って登ってきたんだろうが…新世界から足伸ばしてるヤツらもいるからよ…な?」
涙目でコクコクと繰り返し頷く男に、声の主は唇を持ち上げ二度三度と励ますように肩を叩く。腰のベルトに下げた二本の長剣、パナマ帽の下から覗く傷跡が本物ならば、間違いない。
懸賞金、一億五千万ベリー。
白ひげ海賊団傘下、ライトニング海賊団構成員───
「そ……、」
「ん?」
「"双剣のサッチ"……!!」
✳︎
「ほら、頭下げる!どーもすみませんでした、壁崩しちまって本当…、すぐに直しますんで」
小洒落たパナマ帽を片手に取れば、首筋からゆるく編み込まれた長髪が揺れる。イタリアンカラーの首元から覗く銀のネックレスは、十字架の様でいて微妙に違う。組み合わされているのは骨であり、真ん中の髑髏は口元に大きな三日月形の髭をたくわえて笑っている様だった。
「ごめんなさいねェ、わざとじゃないの。でも、わざとじゃないで済んだら、海軍なんて要らな…あら、済んでも別に要らないかしら」
「あのね、謝れっつってんだからちゃんと茶化さず謝りなさい」
真顔で呟く美女の脚を、それとなく膝で牽制する。
恐縮して、一部分のみだからとしきりに手を左右に振り固辞する街の人間に、それでは流石に申し訳がないと握らせた金額は煉瓦の壁を上等なものに作り替えても、釣りの方が多く残るだろう。
「まったく…、もっと大事になってたらマクガイ船長に報告しなきゃならなかったんだからな、分かってんのォ?」
「サッちゃんが来てくれなくても収められたのよ?一箇所に集めて叩いた方が早いじゃない、ねぇ、ビアンカ?ちゃんと通信も最初から傍受してたし、遮断のタイミングだってピッタリだったでしょ?」
「おまえが纏めて叩くと、通り一面"トマト・フェスタ"になるじゃねェか、トマトってのは美味いもんだ。一般人に不必要なトラウマ植え付けるのは、おれが許しません」
ブラッディ・ロッ"ソ"
白ひげ海賊団傘下、ライトニング海賊団構成員の通り名である。彼が戦場とした場所には真っ赤に薔薇の花が咲く。血塗れのロッソ、背丈3メートル余り。抜群のプロポーションを誇る美女は自分の黒髪を指先で遊び聞いているのかいないのか、肩を竦めるが隣の少女の反応は違う。
「……………、」
「あ〜〜…ビアンカちゃん?怖かったよな、もう大丈夫だから…」
「ち・が・い・ま・す!!」
パイロットケースの持ち手を両手で握り締め、俯いていた乙女の顔はそれこそトマトの様に真っ赤に染まっていた。頬から耳まで染め上げて、身を乗り出す勢いにサッチの編んで垂らした髪束が犬の尻尾の様に跳ねる。
「サッチさん、あ、あ、……」
ロッサとサッチが顔を見合わせる。
身長差で言うなら大分開いてはいるが、サッチも海を離れた街中では比較的背丈は高い方だった。2メートルの20cmを超えたあたりから測らなくなったが、それからまた随分と目線は変わった気がする。
モビーディックを降りて、早五年の月日が流れていた。
「"あ"…?」
「サッチさんの……エッチィ!!あ、あ、あんなに沢山の、ランジェリーをど、どうするって言うんですか!!」
「あんなにって……別におれは着ねェよ?入らねぇもん。おっぱいはみ出ちゃうぅ〜」
「ンッフ!!ふ…ふふ…んんふ…っっ…!!!」
「そんなこたぁ分かってるんです!そんなこたぁ!」
美女が顔面に渋滞を起こしながら笑いの洪水に襲われる姿というのも、中々貴重な光景だ。襟の開いたシャツの合間に覗く逞しい胸筋を左右からむににとわざとらしく寄せるサッチに、遥か下方から体格のチョップが飛ぶ。
「問題は、そのパッツンパッツンのランジェリーをどうするのかって話なんですよ!」
「あぁ、店に迷惑掛けました…ってことで買わせてもらったし、これ今女の子達に人気のブランドなんだろ?欲しい子に配ろっかな…サイズ合うのがあったら、ビアンカちゃんも要る?」
「あ〜ら、ミルクガールはナインペタンだもの。サッちゃんが選んだサイズじゃ、ぶかぶかよォ?」
「あ、そう?いやいや、色んなサイズ買って来たから、一番小さいサイズなら…、」
「知りませ〜〜ん!!私はこの、とても小さくとも!可愛い白の下着で!船長を悩殺するんです、放っておいてください!!」
左手に食材の紙袋、右腕にはランジェリーショップの華やかな大量の厚手の袋が下げられている。真っ赤になって混雑する通りの先を行ってしまうビアンカではあったが、流石にこちらが守れる範疇に居てくれる辺り本気で怒ってはいないのか。サッチの眉尻が八の字に軽く下がっていく。
「まずいな、怒らせちゃったか。娼館辺りで姐ちゃん達に使ってくれって置いてくつもりだったんだけどなァ?」
「あらサッちゃん、モビーにはあの嫌味な位に美しいホワイティ・ベイが居るじゃない。他にも女性は居るんでしょ?お土産にしたらどうよ」
「ん〜〜、姉貴分に下着贈るって…それどう?」
「アリじゃない?」
「妹からならな〜、おれは男ですんでぇ…多少複雑で……うん、やっぱり今度娼館に預けてきちまおう。かわい子ちゃん達の素肌を飾れるんだ、下着も本望だろ」
「そうねェ…、やっぱり…サッちゃんが着たら?」
「はみ出るって言ったでしょうが、見たいの!?」
「キャッ!!そんな汚いもの見せないでちょうだい!」
「胸の話な!?どこ見てんのォ!?」
「でも、アリかナシかで言われたら、アリ寄りのアリよ!!」
「履かねェから!!」
目元を覆いながらも、下半身を凝視してくる仲間にサッチは下着の袋で股間を隠しながら吠え返す。
この年月。
濃い仲間達と、実に、実に濃く中身の詰まった五年間だった。
✳︎
旅立ちの日。夜と朝との境界線を揺蕩う空は、天一面が灰色の雲で覆われていた。前日の夜からまだ止まず、水気の薄いサラサラとした粉糖のような雪が、コートの上をそり遊びの様に無邪気に滑っていく。
─── サッチ少年、本当に良いのですか?
─── なんで、ちゃんと船を降りるってことは伝えたぜ?それに、出発を伸ばしてたのはおれの都合だったし、早い方が良いだろ。
─── ではなく、浮かない顔をしている様に見えましたので。自分!他人の機微に聡いことに対しては定評があるかと!
─── そりゃ〜〜あれよ、慣れ親しんだ船を暫くとはいえ降りるからには、ちょっとナーバスな気持ちにはなるよ。
ゴーグルを付け、背中に巨大なリュックサックを重力を無視して担ぎ上げるヤブサカの言葉に苦笑しながらサッチは小舟に僅かばかりの荷物としてトランクを詰め込んでいく。まだ、兄弟分は部屋の中で眠りこけている頃だろう。
マルコは、自分の隣ではよく眠る。別に、自惚れてはいない。仲間と認めた家族が側にいれば、それが嵐の夜だろうと眠れる時に眠っておく必要があるなら、睡眠をしっかり取れることをサッチは知っている。ぐっすり眠って、目が覚めた時に何を思うだろうか。希望としては、せめて起こしてから旅立って行けと叱言で済むことである。いや、そう思うこと自体が既に自惚れているのかもしれない。
─── それより、ヤブサカも…マジで良いの?おれに付き合わされてない?
─── ノンノン、自分も常々思っていたのであります…、この海を行くからには、皆に最後の一食まで全力で食事を提供したい!自分は、船に乗った理由はサッチ少年の様に果敢なものではなかったですから、尊敬しているのですよ、これでも。
─── 果敢っつうか、…無謀だけどな。
─── 実に紙一重でありますよ。些細なことであります。
励ましのつもりなのか、強く背中を叩かれて下がり気味だったサッチの口角もおのずと上がっていく。
─── グラララララ!降りる前からこの船が恋しいのか、おめぇら…。
─── オヤジ!
─── おぉ、オヤジ殿!!決意表明でありますよ、朝からの飲酒はお勧め出来ませんが!!
─── アホンダラ、可愛い息子達の旅立ちに飲む酒がねェなんてことあってたまるか。なぁ、イササカ…?
燃やしてしまった買い出し船よりも、更に小振りな船で近くの島まで向かい、そこでマクガイの船であるライトニング海賊団と合流する手筈となっていた。未明になるから見送りは良い、と宴の席で伝えてあった筈だが、伝えてあってもなくてもきっと船尾に佇む男はそこに立っていたことだろう。隣に立てば、随分と小柄な男が引き結んでいた唇を徐ろに開く。
─── いや、酒の飲み過ぎは私も物申してェところですが…、別れの盃ともなりかねやせんのでね、実は私も持ってきたんです、ここに。
黒いコック服は、イササカの調理に対する誇りの現れだ。その布地に、白い雪が落ちてはゆっくりと時間を掛けて染み込んでいく。
─── 別れの盃って…、
─── 男が自分で決めた行先だ、そこに何が待ち受けていようと自己責任。マクガイの旦那のところで何があったって、全て自分が選んだ運命だ。諦めるか…、
食材を愛する掌から酒瓶がひとつ、サッチに向かって放り投げられたかと思えばキャッチする間も無く二本目がヤブサカへと放られる。
─── 争って逃げ切りな、おれからは以上だ。
─── い、い、イササカ料理長殿ォ〜〜!!!自分、感動の涙で、涙で前が見えません…!
─── うるせェってんだよ!皆起きるだろうがゴーグル外せ、一旦!
─── あぁっ!?賢いですな、サッチ少年!!もご、もごもご…!!
全員が、蓋を開け高く掲げる。
別れの盃なんかじゃない。
これは、決意の盃───。
─── 風邪引くんじゃねェぞ、馬鹿ども…。
─── もう少し使えるコックになって戻って来やがれ。
─── 行ってくるであります!皆様によろしく!
─── ッス……必ず、必ずモビーに戻って来ますから…!
板に底を打ち付けるは、海に眠る仲間達に。
泡の溢れる瓶を高く掲げるは、同志の未来の為に。
黎明を飲み干した瞬間を、決して、忘れはしない。
✳︎
─────────
──────
───
「なーに見てるんスか?」
友待ち雪が、溶ける頃。
窓外には香雲広がり薄紅連なる花霞───、
ジッと掌の中のビラを見つめる客に、柔らかな茶髪の男が背後から枝垂れ掛かるは夜の花だ。娼館と一口に言っても、女が男に夢を見せるのが殆どながら、ひっそりと男娼の需要は確かにある。女を喜ばせる男でもあり、時には男を悦ばせる男も居る。青年はこの夜に限っては後者だった。
大抵、男の客というのは扱いが手荒いものだったが、今宵の客は違っていた。湯を浴びたばかりの肌から、まだ香る様な海の香りに指先を沿わせながら、うっとりと呟く。金払いの良い、そして扱いの良い客なら大歓迎なのだが、船乗りが繰り返し訪れることはない。分かっているからこそ、逞しい背中に頬を寄せる。
「あぁ…これ、何かの催しかい?」
「んん…、あぁ、劇場での演目のお知らせッスね、こういうのお好きなんスか?」
「いや…酒場に落ちてたのを何となく拾っただけだよい、あんまり得意じゃねェが…、まぁ、似た様なのは観たことあるか…。人魚が、死ぬ話だったか」
店では花の名前を付けられた青年が、口元に掌を寄せてクスクスと笑う。随分と大雑把な省略だったが、それでも思い浮かぶものはあった。
「お客さん、言い方、言い方…ふふっ、人魚姫ッスね、悲恋が好きなら…多分気に入るッスよ」
「幸せな二人じゃねぇのか」
「観るなら、結末を言っちゃったらつまらないでしょう」
「観ねぇよ、他人の恋模様なんて興味がねェ」
男の指先が口元に触れる、下唇を指の腹で撫でられれば仮初の恋だとしても、そのまま何度でもシーツに溺れたくなる。どうせ、互いに一夜限りの夢だ。分かっているなら、少しでも深い方がいい。
ビラの真ん中に描かれるのは女が、横たわる男の唇に唇を重ねている美しく繊細な挿絵だ。愛する者同士の接吻、だが男の薔薇色の頬よりも、女の頬の方が紙のように白いことに気付くだろうか。
「キスで死のうとするんです、この女はね…毒を飲んで死んだ恋人の唇から…、……あ…自分も受け取って…、」
「………そりゃあ…、」
あと一回だけ、懇願したのは青年の方だった。
朝になれば別れを迎える、戯れの恋だったとしても、鍛え上げられた腕の中でぼんやりと思う。
金の髪をいくら乱したところで、きっとこの男の見つめる先に自分は居ない。
そりゃあ、羨ましい話だよい…───、
夜に溺れる、筋張った美しい背中に腕を回す。
そんな顔をさせる誰かがいるなら、羨ましい。
掌から一度床へと落ちれば、あとは色鮮やかな塵に過ぎないのだから。
交差するマゼンダ
TO BE CONTINUED_