一口目を君に 階段から落ちたら他人と同居することになった。
以上の言葉を聞いた時、大半の人間が頭にはてなを浮かべることだろう。意味が分からない、文脈に整合性がない、と訴えることだろう。けれども現に水上は階段から落ちた結果、自身の先輩兼隊長である生駒の家に転がり込む羽目になった挙句、たった今まさに「アーン」を強いられている状況である。口元に押し付けられた油淋鶏は揚げたての衣がサクサクジューシーで、いかにも美味そうな見た目をしている。これを三十分程度でササっと作れてしまうあたり、生駒の料理スキルは相当高いことが窺える。それ自体は水上にとって敬意に値する。自分では絶対にできない。感服だ。のだが、だからと言って「アーン」を許容できるかどうかはまた別の話であった。
「揚げたてで美味いで? 今食べな損やぞ」
「ちょ、ほんまに大丈夫なんで。フォークとか出してもらっていいっすか?」
「フォ、お、く……?」
「流石に分かるでしょ。あ、それとも無いんすか」
「いや全然あるよ」
「あるんかい」
意地でも食べる気配のない水上に折れたのか、生駒は「ちぇー」などと言いながら立ち上がると、渋々食器棚からフォークを取り出す。水上はポケモン柄の、明らかに子供向けのフォークを受け取りながら、内心でため息をついた。
階段から落ちて利き腕を骨折した。ボーダーでの用事を終えた、帰り道のことであった。幸い任務はトリオン体で行うのでボーダーの活動に支障はきたさないが、それにしたって腕一本が使い物にならなくなったのはかなりの負担だ。辛いのが折れた箇所を動かさなければどうにかなるという話でもなく、肩なども動かせば連動するように腕全体が悲鳴をあげだす。水上は全身の筋肉は繋がっているということを、文字通り身をもって学んだ。
そんな愚痴を復帰明けの隊室で話せば、真織が肘をつきながら少し呆れたように息をついた。
「アンタがそないボーッとしとるって珍しいな。普段ボーッとしとるんは顔だけなのに」
「真織さん?」
「でも確かにうんこするのとかめっちゃ大変そうっすね!」
「やかましわ。でもほんま海の言う通りやねんな。箸使えんし、風呂もギプス濡らせんし、着替えも大変やし、もう散々やわ」
「トリオン体でずっと過ごせるんなら楽そうですけどねえ。あ、でも先輩トリオン量少ないから無理か」
「トリオンタンク君は口もよう回りますなあ」
いつものようにみんなでヤイヤイ言いながらも、この話は流れていくはずだった。そもそもここのメンツは冷淡なわけではないが、だからと言って必要以上に他者に干渉するタイプが集まっているわけでもない。よって水上から何か働きかけがない限りここでおしまい、精々完治するまで生暖かい目で見守られる程度で終わるはずだったのだが。ここで右ハンドルを切ったのが、ずっと黙って流れを見守っていた男であった。
「……そんなら、うち来る?」
奥で腕を組みながら、珍しく黙って話を聞いていた生駒が口を開く。生駒の突然の申し出に、それまで騒がしかったはずの隊員たちは目を丸くして生駒の話に耳を傾けた。
「そんなんやと普段の生活もままならんやろ。赤子のようなもんやろー」
「あー、確かに。水あか先輩ですね」
「おい、語感もうちょい考えろ」
「治るまで水あか先輩って呼んだ方がいいっすか?」
「それはもう一種のイジメや」
「俺、水あかの助けになりたい」
「そろそろ泣きますよ?」
水あかだかなんだか知らないが、確かに生駒の言う通り生活が不便なのは間違いない。入院中は四六時中介護をしてくれる看護師が近くにいたわけだが、退院後はそれらを一人で行わなければならないのだ。まだ自立して一日目だが、水上はすでに今朝のトイレや洗面所で絶望的な気持ちを味わっている。そう、確かに一人でなんとかするのは大変であった。しかし、だからと言って生駒の世話になるのは話が飛躍しすぎな気もする。水上は「ありがたい申し出ですけど」と前置きをしながらも、首を横に振った。
「いくらなんでもイコさん家に転がり込むんは申し訳ないっす。この腕完治に三ヶ月かかる言われてますし」
骨折の完治は思ったよりも時間がかかる。下手したら半年くらいは平気で完治しないものだ。そんな長い期間、いくら気心知れた仲とはいえ厄介になるのは、水上としては承服できなかった。それでなくとも数ヶ月も他人と同じ屋根の下暮らすなんて、想像しただけで頭が痛くなってくる。よって水上は丁重に生駒の申し出を辞退させて頂こうとしたのだが、意外にも生駒は簡単には引き下がらなかった。
「そんなん言わんとこういう時は甘えとき? 三食おやつ、昼寝つき。今ならオプションで生駒達人がついてくるオススメ物件です」
「間に合ってます」
「えー、イコさんと水上先輩でお泊まり会ですか? 楽しそう! 俺も行っていいっすか?」
「ええよ」
「開催せんから」
「イコさんばっかずるいです。先輩、そんなら俺んち来てください!」
「お前そんな俺の介護したいん?」
「いや、別に……」
「ほんまに何?」
訳の分からぬ状況のまま、何故か水上を賭けて生駒、海、隠岐の三人でじゃんけん大会が繰り広げられる。長い激闘の末、戦いを制したのは言い出しっぺの生駒であった。生駒は拳を掲げると、そのまま腕を振り下ろし水上を指差す。
「水上とのワクワクお泊まり大会、もろたで!」
「勝手に人を景品にせんでください」
「ちゅうわけで今夜任務後、そんままお前の家着いてって荷造り手伝うから。よろぴく」
「マリオ〜〜〜、助けてくれ〜〜〜」
「巻き込まんといて」
助けを求め可愛いかわいいオペレーターを振り返れば、真織はすっかり興味をなくした様子でパソコンの画面に釘付けになっていた。いつもは積極的にツッコミに回ってくれるのだが、今日は対象が水上にロックオンされているので早々にツッコミを放棄したようだ。かくいう海と隠岐も、ただじゃんけん大会に参加したかっただけのようで、今や水上の方など見向きもせず二人でゲームの動画を見ている。先ほどまでのじゃんけんの情熱をもう少し思い出してほしいものだ。
「大船乗った気持ちで任せとき」
そう言いながら生駒が水上に向かって多分、おそらく、メイビー、きっと、ウインクをする。実際は両目を思い切り瞑っていたのでよく分からなかった。
これは逃げられんな。
水上は心中でため息をつく。生駒が一度決めたら自分の意見を早々曲げない頑固なところがあることを、水上は嫌というほどに理解していた。
そういう経緯で階段から落ちた結果、生駒の家に転がり込むことになったわけだが。生駒は何を張り切っているのか、それこそ赤子に接するがごとく水上の世話を焼こうとした。アーンをしようとするのは当たり前、着替えも手伝ってくる。流石にトイレにまで着いてこようとしたのは、必死に頼み込んで止めた。水上としては確かに生駒のサポートはありがたいのだが、自分でできる範囲はなるべく自分でカバーしたいと考えているので、できれば放っておいて欲しかった。本当に困った時は生駒を呼ぶので、それまで見守る体制でいて欲しかった。けれども、生駒の様子を見るに、生駒は見守るどころかおそらくこの状況を大いに楽しんでいる様子だ。その証拠に今だってタオルを片手に目を輝かながら、水上の風呂に着いてこようとしている。水上は振り返ると今度こそ思い切りため息を吐き出した。
「イコさん、さっきも言うたでしょ。上はそれ用のシャツやから一人で脱げるし、下もゴムのズボンやから脱ぐの大変やないし、俺着替えくらいなら一人でできますから」
「でもお前風呂やで? 髪とかどないするん?」
「片手でいけますて。強いて言うならギプスに嵌める防水のやつ、手伝ってほしいくらいすかね」
風呂に入る時、基本はギプスを濡らすのは御法度なので専用の防水カバーをつける必要がある。これだってやろうと思えば一人でできるが、こうでも言わないと生駒は風呂の中まで乗り込んできそうだったので、水上は敢えてカバーをつける手伝いを頼んだ。「任せとき!」なんて元気な返事と共に嬉々として手伝うかに思えた生駒は、しかし水上の反応を見ると目を瞬かせて水上を見つめた。なんだ、何が不満だ。この程度の手伝いじゃ足りないとでも言うのか。生駒を見つめ返せば、生駒は何を思ったのか突然水上の額に手を当てた。
「わ、なんすか」
「熱はないなあ」
「え?」
「なんか、お前朝とか、こう、変なもん食った?」
「珈琲しか飲んでないす」
「あ、またお前は」
「その代わりボーダーで食いましたから。面倒なんすよ、片腕で飯準備して食うの」
「ふーん、まあええけど。明日からモリモリ食わすから覚えとき」
「なんすかその捨て台詞」
生駒はカバーをつけると、「なんかあったらすぐ呼んでな」とだけ残して浴室を去る。一人になった浴室で、水上もおでこに手を当ててみた。特に熱くも冷たくもない額はいつも通りで、鏡を見ても見飽きた自分のなんてことない顔が映るだけだ。身体だって腕以外にどこかが不調を訴えているわけでもない。どこからどう見てもいつもの、ただの水上なのだが、生駒は何をもって水上が不調そうだと判断したのだろうか。やっぱこの腕だろうか。水上からしてみれば、普段の倍はおせっかいになっている生駒の方がよっぽど不調そうに見えるのだが、そういうわけではないのだろうか。
「……めんど」
生駒に聞こえない程度の音量で呟く。どうにかこの謎の同居生活を早々に解消できないか、水上は上裸の状態でしばし考えた。
「みずかみー」
講堂の入り口で見覚えのある男がぶんぶんと水上に向かって手を振る。水上は半ばやけの気持ちでリュックを引っ掴むと、大人しく声のする方へと足を向けた。
「わざわざ迎えにこんでもいい言うたでしょ」
「でもお前逃げるやろ」
「もう懲りたんで逃げません」
「こないだはごめんな」
生駒の隣で話を聞いていた柿崎が、困ったように笑いながら頬をかく。どうやら今日はこの三人で昼を取るようだ。
生駒の家で世話になるようになってから、午前と午後にかけて講義がある日は、こうやって生駒と食堂でご飯を食べるようになった。と言っても当初は必要ないと断っていたのだが、生駒から逃げ回って隠れて食事をとっていたら、生駒と愉快な仲間たちに探し回られる羽目になったので、それ以来逃げるのは諦めている。嵐山に大声で「水上ーーー!」と叫ばれながら探されるというのは、水上にとってなかなか衝撃的な経験ではあった。
「生駒との生活は慣れたか?」
柿崎がカツカレーを頬張りながら尋ねる。水上もシンプルなカレーを口にしながら、少々目を泳がせた。
「逆にどう見えます?」
「んー、戸惑っている?」
「なんでや。俺たちこの二週間でもっとグッと距離縮まったやろ」
「そうなんですか?」
「あとはお前が俺のアーン受け入れたら完璧や」
「絶対に嫌です。絶対に、嫌です」
「二回も言う?」
いや、の部分を強調して言えば、生駒がショックを受けたようにカレーを食べていた手を止める。アーンに関しては本気で御免被りたいので都度抵抗しているのだが、いまだに攻防を繰り広げている状況だ。そもそも水上がこうしてカレーを食べているのも箸を使わずに済むメニューであるからで、隣で虎視眈々とチャンスを狙う生駒がいなければ今頃フォークでうどんを食べていたことだろう。狙うな、そんなもん。
ただ、生駒との生活についてはこの場では誤魔化したが、正直想像よりもずっと快適で驚いているのが現状だ。生駒は確かに水上の介護を楽しんでいるし、何故かアーンのチャンスを付け狙ってはいるが、だからと言って水上に対し余計な干渉はしてこなかった。例えば、水上が一人で本を読んでいるタイミングなどは基本的に声をかけてこない。それどころか「ちょっとランニング行ってくるな」などと言って、水上が一人になれる時間を作ってくれるのだ。家主がそんなに気を遣わなくて良いとは言ったのだが、「俺も走ってると思考がスパーってなるから丁度ええねん」と言われてしまえば、水上としても引き下がるしかなかった。
かと思えば、水上が暇を持て余しているタイミングを見計らっては声をかけてくる。昨晩も「人おる時しか観れんしなー」などと言いながら、生駒はホラー映画鑑賞に水上を誘った。昨今流行りのモキュメンタリー形式のホラー映画は、妙にリアルな質感で生々しい恐ろしさがある。そのクオリティの高さには感心しながらも、「しょせん作りもんやしな」という思考が抜けないので水上にとってホラー映画はそこまで怖いものではないのだが、生駒はあまり得意ではないようで顔は無表情ながらも、隣で延々と「目ぇ離したらあかんって〜!」「なんであかん言われてるとこに入ってく?」「呪い拡散されとるやん、も〜!」などと元気な雄叫びをあげていた。生駒の腕の中のポムポムプリンの人形が哀れなほどに筋肉に押し潰され、小さくなっていたのが印象的であった。
適度に構って、適度に放っておいてくれて。与太話は多いが、余計なことは突っ込んでこない。けれども話せば無茶苦茶面白くて、時間を忘れて喋っていられる。介護だってなんだかんだ水上が欲しいタイミングで然りげ無く手伝ってくれる。まさに至れり尽くせり、どころか快適すぎて怖いくらいであった。この調子だと三ヶ月など瞬く間に過ぎていくことだろう。
元々生駒と過ごすこと自体は水上にとって楽しいことではあった。眺めているだけで面白くて、会話だって意識せずともスルスルと進んでいく。そもそも、楽しくなければ今頃水上は生駒の隊に籍を置いていなかったことだろう。つまらない時間を無為に過ごすほど、水上だって暇ではない。ただ、その事実をこの二週間でより強く理解させられてしまったのだ。だからまあ、柿崎の問いへの答えは「楽し過ぎて逆に困っている」というのが正解なのだが、わざわざその本心を言葉にするのは少々癪であった。
「まあ生駒もさ、水上のことが心配なんだよ。だからつい構い過ぎちまうんだろうけれど、ワザとじゃないんだ。もちろん嫌ならハッキリ断って大丈夫だけどさ」
むっつりと黙り込んだ水上が困惑しているように見えたのだろう、柿崎がすかさずフォローに入る。水上は一気に水を煽ると、一つ息をついた。
「嫌とかは全くないですよ。自分で言うのもなんですけど、無理や思ったらとっくに自分の家に帰ってるんで」
「お前そういうん全部まるっとハッキリ言うもんなあ。剥き身過ぎてビビる時あるもん」
「飯作ってる時や風呂入ってる時にうたってる自作の謎の鼻歌がやけに上手くて、耳に残ってほんのりイヤ、っくらいっすかね」
「え、イヤやったん? 言うてや、控えるのに」
「止めろとは言うてません。続けてもらって良いです。たださっきも授業中頭から離れんくて、邪魔やったなあって……」
「そこまで言うてて続けて良いって逆に何?」
「……アハハ、水上って案外なんでも言うタイプなんだな」
水上と生駒のやりとりを見守っていた柿崎が、何がツボったのか口を抑えて笑い出す。どこか生暖かい視線に気まずくなり見つめ返せば、柿崎が「わりいな」と咳をした。
「いやな、ほら、閉鎖環境試験のとき文香が世話になったろ? その時に水上の話をチラッと聞いたんだけど、あいつ水上のことを『甘えた』とか言うからさ。水上っていつもしっかりしてるし、ちょっとイメージ湧かなかったんだけど、ようやく文香が言っていた意味が分かった気がする」
甘えた、とは。照屋が評した水上像に首を傾げる。自分は試験中、『甘えた』な部分を見せていたのだろうか。その上、柿崎が今の水上と生駒の会話を見て、照屋の評価に納得いったのも遺憾である。水上としては普段通りの生駒との会話であったので、それを『甘えた』と言われるのはどうにも据わりが悪かった。
俺、イコさんに甘えてたんか。
今更ながらの自覚がじわじわと垂らされた墨汁のように拡がっていく。頼りにしているとか、遠慮がないとか、明け透けに言えば懐いているとか。それくらいの自覚は流石にあったが、甘えているというのはちょっと、かなり、自身の隊長に向ける感情としては八ツ橋に包んでおきたい部類のものである。チラリと横目で生駒を窺えば、生駒はどこか気恥ずかしそうな様子で鼻の下を擦っていた。
「いやあ、そっか。水上俺に甘えてたんか、なるほどなあ。この甘えんボーイめ」
「……」
「まあ俺的にもな、やぶさかではない言うか。むしろどんとこい言うか」
「……」
「水上、今日から俺んことお兄ちゃんって呼んでもええで」
「ザキさん」
「本当にすまん」
柿崎が手を合わせながら深々と頭を下げる。もうこれはさっさと食って次の講義に逃げてしまうしかない。そう思いヤケクソでスプーンを動かす水上の頬に、隣から生暖かい視線が突き刺さる。居心地が悪くって仕方がなかった。
「あ、そう言えば今夜バスケサークルの飲み会あるけど生駒はどうする?」
空気を変えるように柿崎が顔を上げる。生駒はボーダーの活動が忙しいこともあり正式にどこかのサークルに所属していることは無いが、たまにスポーツ系のサークルに顔を出しては汗をかきに行っているというのは前から聞いていた。バスケサークルというのも恐らくその一つなのであろう。また、生駒は体を動かすのも好きであるが、同時に飲み会も嫌いでは無いようで、誘われればフラフラと参加しているようであった。なので任務も何もない今晩は当然参加するかに思われたが、生駒は意外にも首を横に振った。
「んー、今回はやめとくわ」
「了解。用事でもあったか?」
「いや、そういうわけと違うんやけど。今回はええかなーって」
「……もしかして、俺に遠慮してます?」
思い返してみればこの二週間、生駒がどこかへ出掛けていた記憶はない。大学からボーダーに至るまで、ほぼ水上と過ごしていたと記憶している。あの最低週一は謎の飲み会に参加していた生駒が。いろんなサークルに顔を出し過ぎて学祭では屋台を三つくらい掛け持ちしていた生駒が。フラッと入った居酒屋で相席になった初対面の人間と一瞬で仲良くなり、二人でこないだキャンプしてきたと楽しげに話す生駒が。何故か四六時中水上と共に過ごしているのだ。これは明らかに水上に対し生駒が気を遣っているに違いない。確かに生駒には大変助けられているし、生駒さえ良ければ完治するまで世話になれればと心変わりしているほどではあるが、だからと言って生駒を縛り付けるのは本意ではない。腕が一本使えない生活にも慣れてきたし、一日くらい生駒が居なくともなんとかなる。そう思い声をかければ、生駒はキョトンとした顔で水上を見つめ返した。
「自分で言うのもなんやけど、割と好き勝手させてもらってるかな」
「それは大変良かったです。いやそうやなくて、俺いるから飲み会遠慮してるんやないすか? でも俺飯も風呂もある程度一人でどうにかなるし、全然いってもらって大丈夫っすよ」
「えー……うーん、いやー……」
「イコさん俺を三ヶ月置いとく気なんでしょ? でも飲み会好きのイコさんがそんな三ヶ月も我慢するとか、お互いようないと思うんすよ。せやからほんま俺んこと気にせず行ってもらえればと」
「うーーーん……。いやなあ、我慢しとるとかやなくてなあ」
「じゃあなんすか」
「……ほんまは家帰るまで秘密にしとこ思っとったんやけど」
生駒はそう言って自身のリュックを漁ると、中から袋を取り出す。生駒が苦悶の表情でビニール袋の中から取り出したのは、なかなかお目にかかれない大きいサイズの『ねるねるねるね』であった。頭にDXと付けられたねるねるねるねは、パッケージの中央に赤文字で「超でっかい!」と書かれている。目に痛い色合いのパッケージは、知育菓子としての矜持を失っているように見えた。
「これは」
「DXねるねる」
「見りゃわかります」
「これなあ、スーパーで処分なってて。もう見た瞬間スーってレジ持ってってん。こんなん絶対ぜったいやりたいやん。今日やりたい、今すぐやりたいやん。でも今日は任務ないし、そうなるとやる相手は必然と水上になってくやろ。せやから俺これ買った瞬間今夜は何がなんでも水上とねるねるねるね練りまくろう思って、ずーっと楽しみしてて」
「はあ」
「やから誘ってくれた手前悪いけど、俺今日は飲み会どころやないねん。DXねるねると水上が俺を待ってんねん」
「おい、ちゃんと水上に合意を取れ」
「俺は待ってないっす」
「え、うそ! お前これを前にして正気で居られるんか!?」
「頼むからこんなとこで正気失わんといてください」
DXねるねるを練りまくること自体は、まあいい。どうせ今晩も大してやることはないのだ。知性を置き去りにした知育菓子は、暇を潰すのにはちょうど良いだろう。問題は作った後の処理だ。水上が記憶している限り、ねるねるねるねというのは見た目のインパクトが優先され、味については二の次であったはずだ。舌に張り付くわざとらしい甘さと、どう考えても身体に良くなさそうな毒々しい色合いは、水上の食欲を減退させるのには十分な効力を発揮している。そんな後処理に困るものを二人で、しかもこのサイズで。いくらなんでも無理があるだろう。パッケージにだって「4〜5人で楽しめる!」と書いてあるではないか。生駒の性格上食べ物を捨てるなんてことは基本あり得ないので、一度始めたら逃げることはほぼ不可能であろう。水上は思わず頭を抱えた。
「……ちなみに、明日隊室でやるいうのは」
「……水上が、どうしても、どうしても練りたくない言うならまあ、諦めるけど。でも俺的にはできれば今日やりたいいうか……。このキャンディチップ全部水上にやる言うてもあかん?」
「問題はそこや無いんですよねえ」
「……でも、無理強いするもんでもないしなあ。そんなら今日は諦めるかあ」
「やらんとは言うて無いでしょ」
「え?」
「いいですよ、やりましょ。どうせ暇ですし。そん代わりイコさん頑張って食ってくださいね」
そう言えば生駒は嬉しそうに目を輝かす。ここ一ヶ月見た中ではいちばん嬉しそうな顔であった。知育菓子ひとつでこんなに喜ぶ成人男性がいるのか? そう疑問に思いつつも、生駒の喜びようにそんなことは些事かと思い直す。楽しそうな飲み会よりも何よりも、生駒は今日水上とDXねるねるを練ることを選んだのだ。多数の人間と過ごす時間よりも、飽きるほど一緒にいる水上との時間を。そのことに気がついた時、水上の指先がじんわりと熱を帯びたような気がした。
「ザキはどうする? 練る?」
「いや、俺はさっき言った飲み会があるから遠慮しとくよ。二人で楽しんでな」
「ほんまに? この機会やないと早々できんで?」
「お前のそのねるねるねるねに向ける情熱はなんなんだ」
柿崎が苦笑しながらトレーを持って立ち上がる。時計を見れば次の講義が始まるまであと十分を切っていた。そろそろ移動しないとまずいだろう。水上もリュックを背負うと、片手でトレーを持って立ち上がった。
「俺もそろそろ行きます」
「一人で大丈夫?」
「問題ないすよ。じゃあまた後で、終わったら連絡します」
「うん。気いつけてなー」
生駒はそう言うと手を振って水上を見送る。水上は会釈を返すと、背を向けて食堂を立ち去った。
「……フフッ、なんやあのサイズ」
喧騒に溶けた水上の独り言を拾うものはいなかった。
扉を開くとなんとも食欲をそそる香りが漂ってくる。この物件は玄関から即キッチンに繋がっている構造をしているので、帰宅すると生駒が謎の鼻歌を口ずさみながら夕飯を作っている光景が目に飛び込んでくる、というのは良くあることであった。
「ただいまです」
「お、おかえりー。見て、今日はなんと……唐揚げ!」
生駒はそう言って目の前のバットを指差す。バットに並べられた黄金色の衣たちは、キッチンの真白いライトの光をうけてキラキラと輝いていた。水上は匂いに寄せられるようにフラフラと近づくと、生駒の背後に立った。
「いっぱいある……」
「二人やし、思ったら嬉しくなっていっぱい揚げてもうた。揚げたてやでー」
生駒はそう言って比較的小さな唐揚げを箸でつまむと、水上の口元に差し出す。芳ばしい香りに誘われるようにかぶりつけば、鶏肉のジューシーな肉汁が口いっぱいに広がった。衣はザクザクとした食感なのに中はしっとりとした唐揚げは、家庭で作るものとしてはかなりクオリティが高いと言えるだろう。水上は思わず頬を緩めた。
「うま、お店みたい」
「これなー、実は小麦粉と片栗粉両方つこてんねん。そうすると小麦粉特有の香ばしさと、片栗粉のサクサク感がええ感じに……マリアージュ? すんねん」
「フフッ」
「あとなー、やっぱ二度揚げ大事。唐揚げはぜったい二回揚げた方がええ」
生駒のお料理うんちくを適当に聞き流す。正直手順をどんなに説明されたところで再現できる気がしないし、する気もない。それに、生駒なら言えばいくらでも作ってくれるはずなので、覚えなくとも良くないか? というのが水上の感想であった。人には適材適所があるというものだ。気に入ったのでもう一個もらおうと口を開けば、生駒は心得たとばかりにまた小さめの唐揚げを放り込んでくる。かと思えばじっと水上の顔を見上げた。
「なんふは?」
「お前、ついに俺のアーン受け入れたな」
生駒はそう言うとどこか得意げな顔でピースをよこす。言われてみれば、確かにこれは『アーン』に分類されるのかもしれない。いや、『かも』ではなくて間違いなく分類されるであろう。ただ、別に人目もないし、今回の場合は特段抵抗も無かったので水上は唐揚げを呑み込むと、「そすね」と真顔で返した。
「前よりも更なる絆、深まっちゃった感じ?」
「というよりは唐揚げの魔力ですかね」
「あ、やっぱ? まあ男の子はな、みんな唐揚げ好きな生き物やもんな」
「そんな年違わんでしょ俺ら」
水上はそう言うと手を洗うためキッチンを後にした。
そうは言っても水上にも流石に以前よりも生駒に絆されている自覚があった。言い訳をさせていただくと、だって、まあ、楽しいのだ。生駒との生活は。生駒が面白い人間だなんてことはとっくの昔に知っていたはずだが、間近で朝から晩まで眺めていてもその面白さが変わらない、というのは水上にとってなかなか偉大な発見であった。むしろ共に暮らし始めて一ヶ月が経過した今となっては、一人で暮らしていた狭い1Kでのせせこましい生活が霞むほどである。それくらい生駒という男は水上の生活に馴染み、浸透し、侵食していった。まったく、一ヶ月前、慣れない他人との共同生活に憂悶していた己に、今の自分を見せてやりたい。一ヶ月後のお前は生駒の手料理に舌鼓を打ちながら、この生活を延長できないか呑気に考えていると教えてやったら、一体どんな顔をすることであろう。日々自分好みの味付けにアップデートされていく手料理が美味しくて、澱みなく流れる生駒の話が面白くて、耳を掠めるやたらこぶしのきいた鼻唄が心地よくて。そういう断片を教えてやったとして、過去の自分は信じることが出来るだろうか。いいや、疑い深い己のことだ。くだらないと鼻で笑って終わりに違いない。
「なんかいいことでもあった?」
そう今日声をかけてきたのは開発室の雷蔵であった。
水上はヘルスチェックの傍ら、負傷時におけるトリオン体の動きのデータ提供のために、骨折してからここ一ヶ月開発室に通っていた。といっても週に一度の頻度なのだが、その希薄な付き合いの雷蔵にも「どんどん上調子になってない?」と目敏く勘付かれる程度には、水上は自分が浮かれている自覚があった。
作り替えられている、自覚があった。