破壊的イノベーションの行方「あれ? 水上おるやん」
誰もいないと思われた部屋の明かりをつけると、盛り上がった布団の中でミノムシになっていた水上がのっそりと顔を出した。
時刻は日付が変わる少し前、確かに明かりを消してベッドの中でくるまっている時間帯としては適していると言えるだろう。自分のベッドならば。しかしここは生駒の住む単身者向けアパートの、生駒が一人暮らしするタイミングで購入したシングルベッドが置かれた、生駒の城とも呼べる空間だ。その城の天守閣、生駒のベッドの中には長い身体を器用に折り畳んだ水上が我が物顔で枕に頭を預けながら「おかえりなさい」と返す。と言っても、生駒としても水上が己の家に居座っているのはさして珍しい光景でも無いので上着をハンガーにかけると水上のもっさりとした頭をひと撫でした。
「お風呂入った? ご飯は?」
「入ったし食べました」
「良かったあ。今日水上来る思ってなかったから俺なんも用意して無かったし。何食べた?」
「卵かけご飯」
「相変わらず細いなあ、食」
今日は弓場、柿崎達と久々に集まって外で夕食を食べた。ボーダーからそう遠くない場所に美味い豚カツ屋があると評判になっていたので、みんなで行こうという話になったのだ。本当は迅や嵐山も誘いたかったのだが、猛烈に忙しい二人とはなかなか予定が合わなかったので今回はこのメンツとなった。もちろんそれらは事前に水上には伝えていたし、水上も「分かりました」と快く送り出してくれていたはずだ。水上であれば生駒の言っていたことを忘れるなんてことも有り得ないので、もしや間違った日程を告げてしまっていたかと生駒は不安に駆られた。
「あれ? 俺今日ザキ達と夕飯食べてくるから夜は家におらんって言わんかったっけ?」
「言うてました」
「あ、ほんま? 俺日にち間違って水上に言うてたかと思った」
水上は最近だと任務や用事が無い日、生駒が渡した合鍵を使ってこのようにフラッと生駒の家に訪れる機会が増えた。というより、なんか、もはや半分住んでる。生駒の家には水上の着替えを始め歯ブラシやらカップやらが置かれているし、生駒の作るご飯をよく食べているので食費も水上が自主的に納めている。この間なんか大学から帰ってきたら水上がトイレの中からひょっこりと現れて「掃除しときました」なんて言って大層驚かされた。あまりに感動したので無茶苦茶に褒めた後に頭を撫でくり回したら、それ以来水上は何か生駒の家の掃除をする度に頭を差し出してくるようになった。無論可愛いかわいい恋人の頭は常に撫でたいので生駒は差し出された頭をせっせと撫で回す仕事に尽力させてもらってる。
ただ、生駒がこうやってほぼ一日家を空ける日なんかは基本水上は自宅に帰っていたはずだ。生駒としても水上を家で一人待たせるのは忍びなかったので用事がある日は事前に連絡を入れているのだが、それならば何故今日は水上が居るのだろうか。ミノムシから脱して床に体育座りした水上に麦茶を入れてやると、生駒も隣に座った。
「俺おらんのにこの家いるって珍しいやん。それともなんか約束してたっけ」
「いや、べつに」
「せやんなあ。あ、せや、聞いてや。今日豚カツ屋行くって言うてたやん? 最近ボーダーでトレンドになってるあの。これがもうな、凄かったんや。もう豚カツなんて食う前から美味いことは決まっとるやん? 豚カツなんて嫌いになろうとしても嫌いになれへんやん」
「元カレ引きずってる人のセリフや」
「でもそうやん! せやから結構ハードル高めで行ったんやけど……。一口食ってビックリ、むっちゃ美味いねん! 揚げたてのカツがなあ、ジューシーで柔らかくて。んで肉がほんのり甘みあって。薬味とかもな、胡麻とか色々あんねんけど何つけても美味いねんなあ。おろしポン酢とかもあったで。でも俺はやっぱ王道のカラシとソースがベストや思うねん。長年愛されてきたもんには理由があんねん。いや〜、でもほんま人生で食った豚カツの中で正直一番やったかもしれん。思わず弓場ちゃん達と顔見合わせてもうたもん。あ、せや、弓場ちゃんといえば今日弓場ちゃんと合流した時弓場ちゃん任務終わりやったんけど、換装解いたらゆ」
「最近、イコさん忙しそうっすよね」
「へ? そう?」
忙しそう、と言われて心当たりを振り返る。確かに一般的な大学生から見ればボーダーでの仕事がある分忙しいと言えるだろう。しかし、最近は特にレポートの締め切りも無かったし、防衛任務のシフトも比較的緩やかであった。むしろ暇な時期であったのでこうやって柿崎達と外食に出掛けてりしていたのだが、水上にはそうは映っていなかったらしい。いや、でも、と思い直す。
「俺らほぼ毎日会うてない?」
任務はもちろん、近頃は家でも一緒に過ごしているのだ。正直水上以上に顔を突き合わせている人間なんていないし、水上も恐らくそうだろう。なので忙しそうに見える理由もわからず首を傾げれば、水上はちょっとそっぽを向いたままいつもの無表情で続けた。
「先週もなんや出掛けてたし」
「ゼミの飲み会とかあったしなあ」
「明日も用事ありますよね?」
「それが今日来れんかった嵐山が拗ねまくって代わりに明日タピらな気が済まんって言」
「俺二人きりん時あんま他の男の名前出して欲しくない言いましたよね?」
ジト、と水上がこちらを睨め付ける。それはこの間隠岐と一緒にボーダー近くで見つけた猫と触れ合った時の猫の視線を思い出させたが、これも言うと益々水上が怒りだしそうなので生駒は口を閉じた。こういう名前を出す出さないという話をしだすときは大抵、水上が寂しさで爆発をしかけている時だ。
付き合った当初はアッサリ塩ラーメンタイプの男かに思われた水上は、第一次水上大爆発を経た結果全方位嫉妬ラーメン二郎タイプであることが判明した。それ以来開き直ったのかこのように真正面から嫉妬をぶつけてきては、素直に自分の気持ちを口にするようになったのである。生駒的には互いに自分の気持ちを言い合える関係の方が良いだろうという考えなので関係性が大きく前進したな、と感慨深い気持ちなのだが事情を知っている弓場に話すと「甘やかしすぎだろ」と深い眉間のシワと共に叱られた。でも人間というのは基本は恋人を甘やかしたい生き物ではないだろうか。少なくとも生駒は恋人をメチャのクチャに甘やかしたいタイプだ。だって、自分に甘える恋人って、可愛い。そんな可愛い恋人ことラーメン二郎ニンニクマシマシ君はいつだかのデートに水族館で買ったチンアナゴの人形を指差すと、ますます機嫌が悪そうに毛並みを逆立てた。
「このアホ面の人形も未だに生意気に俺差し置いてイコさんのベッドにおるし」
「せやかて抱き枕やしな、これ」
「俺抱けば済む話やしいらんやろ。捨てましょう」
「あ、サトシに向かってひどい言い草! メッ!」
「敏志は俺やろ。なんで同じ名前つけたんやほんま」
「だってなあ、こいつとお前似てへん?」
「は? こいつより絶対俺の方が頭ええし掃除もするしかわええっすよ」
「サトシと張り合おうとしとるん?」
「この間やって二人で久々デート行こってなったのに結局隊のみんなで出かけたし。いや全然ええっすよ? みんなで出かけるんは、楽しいし。でも久々やったし、最初からみんなで出かけるっていうのとデートからみんなでって変更になるのは心持ちがちゃうやないっすか。せやのにイコさん普通に行こ行ことか言うし、そうなったら俺も、」
チュ、と不機嫌な横顔の頬を目掛けてキスを落とす。堰を切ったように喋り続けていた水上は、頬に軽く唇が触れて離れた途端言葉を失う。かと思えば目を見開き、口を開け、すてんと生駒のいる方向とは反対側に身体を仰け反らせた。常とは違うあまりに俊敏な動きに生駒も目を丸くする。どちらかと言えば俊敏さとは真逆に位置する男なので、こんな素早い動きを見せることはあまり無い。また一つ新鮮な水上を知ることができた。
「や、」
「ん?」
「なんで、いま、ほっぺにチュッてしたんすか」
「なんか色々言うてる水上がかわええなあって思って」
「そりゃ俺は可愛い彼氏でしょうけど!」
「せや、かわええよ! 輝いてる! 可愛さに磨きがかかっとるよ! ボーダーの橋本環奈!」
「はしかんは流石に烏滸がましいわ」
いつもの鋭いツッコミと共に水上が身体を起こす。生駒がチュッてした部分を手で抑えながらこちらを恨みがましそうに見つめる水上はやっぱり可愛かった。
「も〜、いっつもこれや。なんなんもう、チュッで誤魔化されへんからな俺は」
「せん方が良かった?」
「いや、そうは言うてませんやん」
「じゃあもう一回する?」
「…………」
テーブルに頬をついて水上の目を見つめ返す。水上は口を開けたり閉じたりを繰り返したかと思うと、両手で顔を覆い深いため息を吐いた。かと思えば生駒の肩を掴み顔を寄せる。恐々と近づいた鼻先がやけに緊張していて、剥がれた虚勢のその先がなんとも意地らしかった。
「んっ」
触れた唇は少し乾燥してカサついている。生駒は少しだけ口を開くとペロリと戯れに水上の唇を舐めた。こっからどうしよう、舌とか入れてもええかも。そんな不埒な考えを巡らせるが、その計画は突如身体を離されたことにより中断される。キョトンと水上を仰ぎ見れば、水上は悔しそうな顔で唇を噛み締めていた。
「いやっ、そんな、エロいチュウの雰囲気では無かったやん」
「えー、お前がそれ言う? 俺らの初キッスベロチューやで」
「それはほら、俺もやけになってましたし」
「なんか、意外とお前俺とそんな経験値変わらんよな。安心したわ」
「……もう〜〜〜っ!」
水上はぐずったような声をあげると再び床に倒れ伏した。喋ったり黙ったり、寝たり起きたりなんとも忙しいやつだ。けれどもさっきよりは随分と機嫌は良さそうなのでそれで良しとする。隠岐が以前授けてくれた『チュッで水上ニコニコ作戦』とやらは結構効き目があるのだ。生駒は仕上げとばかりに水上の耳元に顔を寄せると、ひっそりと囁いた。
「俺今から風呂入ってお尻洗ってくるけど、水上はどうする?」
水上の肩がびくりと強張って、またシオシオと萎んでいく。水上はしばらく黙り込んだかと思うと、蚊の鳴くような声で返した。
「…………待ってます」
「ん。それじゃあ良い子にしててな」
最後にもう一度水上のちらりと見える赤い耳朶にキスを落とすと、慌てて立ち上がる。こんな時間まで待たせてしまった恋人の機嫌を早急に回復させてやりたかったし、何より生駒も既にそういう気分だ。生駒はあっという間に風呂の準備を済ますと、さっさとバスルームに閉じこもる。
「……結局主導権はあっちなんや」
水上のか細い独り言はシャワーの音にかき消され生駒の耳に届くことはなかった。