二人ぼっち奈落の旅 声が聞こえたのだ。
もう二度と、聞こえないはずの声が。
明けない夜が続く8月22日が終わり、渋谷は再び朝を迎えた。彼岸から戻った暁人が最初に目にしたのは美しい朝焼けで、知らず涙がこぼれた。
段階的に人が戻ってきているのか、渋谷の喧噪は少しずつ大きくなっていっている。今は良いにしてもこのままここに立ち尽くしていれば邪魔になるのは明らかだった。
目の端に残る涙をジャケットの袖でぬぐう。それで気がついたがお揃いだったはずのタクティカルジャケットは元の私服に戻っていたし、目の前のバイクを起こせば、相棒と直るかどうかなんて話してたそれは何事もなかったかのように無傷で目を見開いてしまう。
……全て夢だったのかと思ってしまいそうだ。
「行こうか」
右手にはもう誰もいないというのに癖のようにそうつぶやいてしまい苦笑がもれる。
「……なんか、静かだな」
***************
それから暁人は日常に戻ることになった。
全て夢ではなかった証拠に、病院では冷たくなった麻里と対面した。病室では涙がこぼれ続けたが、それでもきちんとお別れを言えたのだから良かったのだと自らに言い聞かせ、葬儀も喪主として執り行った。喪主をするのは二回目だった。ほぼ身内だけの式だったが、麻里が仲良かった子たちも、暁人の大学の友人たちも顔を出してくれた。無事に送り出せて少しだけ肩の荷がおりたような気もする。
残りの夏休み中は友人たちが何くれとなく連絡をくれた。真摯にこちらの体調や状態を気にしてくれる者、いつも通りにご飯に誘ってくれる者、色々だった。ありがたいことだ。友人に恵まれたなと思う。
長い夏休みが終わればまたいつもの大学生活が始まって、忙しかった中でも単位はきちんととっていたし、就活も問題ない。残るは卒論だけで、卒業に向けてバイトも減らしたものだから少しだけのんびりとした日々が始まってしまった。
そう、忙しくなくなってしまって初めて、暁人はついに己の気持ちと向かい合わなければならなくなってしまった。
――さみしい。
胸がすぅすぅしてたまらない。あるべき場所にあるべきものがない。聞こえていた声が聞こえない。
二心同体の一夜は、暁人を孤独に弱くさせていた。
誰かが側にいる時はなんとか誤魔化せたが、一人で妹と暮らしていたアパートに戻るとその孤独さが際立った。
生き抜くと約束した。だから自死なんてするつもりはないけれど、それでも独りぼっちの部屋は暗くて寒くて、冬には早いというのに凍えそうだった。
そういう時は預かったパスケースを相棒に見立てて話しかけた。最初は家族に渡してほしいという遺言に従うつもりだった。だがエドに話を聞ければと葬儀の後にアジトに向かったがすでにそこはもぬけの殻で、相棒の本名すら知らない暁人は何一つ手がかりを見つけられなかったのだ。
託されたものを返せないという申し訳なさと同時にわいてきたのは、これを手放さなくて良いという紛れもない安堵だった。
そんな自分を情けなく思う。でも自分の記憶以外にあの夜を証明出来るものはこれ以外になくなってしまったから。
そう、現世に戻った暁人から適合者としての力は失われていた。エーテルの扱いどころか霊視すら出来ない。弓も札も手元にないから試せないし、あれからマレビトはおろか猫又も他の妖怪たちも見えない。
それが普通の、KKに出会うまでの日常だったはずなのに。
「KKは女々しいって笑う?」
意外と繊細で優しいところのある人だったから、「お暁人くんはしょうがねえなぁ」って笑って許してくれる気もしている。
「せめて霊視が出来たら、このパスケースで色々見えたかな」
引き剥がされたKKを追いかけた時のように、黒いもやが見えただろうか…でも安らかに眠りについた彼の残滓が見えるとは限らない。何も見えぬことに絶望したかもしれないことを考えれば、これで良かったのかもしれない。
「ねぇKK、僕頑張ってるよ」
でも頑張れば頑張るほど、その存在を感じられないことに飢えてしまうのだ。
……きっとこの体には穴があいている。本来一人分の魂しか入れないというのに、無理矢理開かれて突っ込まれた分の隙間が戻っていないに違いない。
胸の奥に感じた存在と、中から響いてた耳に残る低い声。それにどれだけ助けられていたのか突きつけられる。そしてそれがない今、苦しくてたまらなかった。
「会いたいな」
無理だとわかってるけど。
寝たら夢で会えるだろうか。
***************
ふと意識が覚醒した。パスケースに語りかけているうちにうたた寝してしまったらしい。何時かはわからないが、部屋は闇に包まれていた。握りしめたケースをそっと手放し顔を上げると、ソレはすでにそこにいた。
「――っ?!」
ひゅっと喉が鳴る。
黒い、人型のような何かが、真っ暗な部屋の中唯一窓から差し込んだ月明かりのもとでぼんやりたたずんでいた。それはあの夜KKと共に祓った悪霊にも似ていて、暁人は無意識に後ずさる。
もう適合者ではなくなったはずなのにどうして――?! それとも力のない自分にすら見えるほど強い霊だとでも言うのか。
……逃げなければ、気づかれる前に。なるべく気配を消して、そっと、でも急いで。
そう決意したのと、黒い何かがこちらを見たのは同時だった。
見つかった――!
全身真っ黒のソレに目など見あたらないが、なぜか視線が合ってしまったのがわかる。
ごくりと、唾を飲む。咄嗟に右手で印を組もうとして、それが今や無駄だと思い出した。
それに首を傾げた(ように見える)黒い人型が、すっとこちらに手を伸ばし、一歩近づいてくる。
どうすればいいどうすればいいどうすればいい?!
生き抜くと誓った。どんなにさみしくても、苦しくても、心を極寒に置いてきていたとしても。いつか家族と、あの人に胸を張って会えるように。でも今、自分はこんなにも無力だ。
恐怖でガチガチと歯が鳴る。あの夜ですら、こんな恐ろしいと思ったことはない。
だってあの夜は、KKがいたから――。
「けぇけ……っ、たすけっ」
思わず今はいない相棒の名を呼んだ時。
『あきと』
「え」
聞こえるはずのない声が聞こえた――目の前の、黒い影から。
『あきと』
もう一度、呼ばれる名前。囁くように、願うように、縋るように。
幻聴かと思った。けれど聞きたくて聞きたくて、狂いそうだったその声を、けして自分が間違えることはない。
差し出された手に、そっと近づく。恐怖はすでに消えていた。だってこの人にそんなもの感じるはずがない。
「KK……」
右手でふれた瞬間、黒い人影だったものが再構築され会いたかった人を形作った。白いものが混じった短い髪も、無精ひげも、黒いタクティカルジャケットも、全て別れたあの日のまま。それは間違いなくKKその人のはずで――でも。
「……KK、だけど。あんたは僕と過ごしたKKじゃない……?」
するりと滑り落ちたその言葉に、自分でも首をひねる。何が違うかと聞かれれば言葉に出来ない。KKだという確信と、でもこの人は自分が相棒と呼んだ人そのものではないという確信。矛盾したそれが違和感なく両立していた。
『……そうだな』
目の前の相棒ではないKKが静かに頷く。
『オマエは――オレが見殺しにしちまった暁人じゃない』
そう目を伏せて言ったKKに、わかってしまった。このKKもまた、自分と同じだと。『相棒』と別れ、『相棒』を求めて独りぼっちで彷徨ってるのだと。
「でも、KKだね」
『暁人』
あの日と同じように、二人の想いが重なるようだった。さわれないKKの手を握るように包むこむ。感触はないけれど、その存在を感じて胸に喜びが満ちていく。
「僕はあんたの暁人じゃない」
『オレはオマエのKKじゃねえ』
「うん。でも――側にいてほしい」
暁人の願いに、少しだけKKが息を詰めた。困ったように、どこかを見つめてKKは続ける。
『……このオレはもう、ただの悪霊かもしれねえぞ』
「そんなの知らないよ。だってもう、独りは嫌なんだ」
『ガキだな』
「そうだよ、ガキを泣かせた責任とれよ。あんたのせいなんだから」
『そっちのオレのせいだろ? ……って言っても、オレはオレか』
「だいたいKKだって、僕と同じだから来たんじゃないの」
その台詞にKKが大きく深くため息をつく。
『生意気なクソガキめ。……オレはオレだしオマエはオマエか』
「うん。違うけど、きっと同じだから」
『――お暁人くんはしょうがねぇなぁ』
想像していた通りの答えに、くふりと笑みが落ちた。
***************
「来るぞ暁人!」
「わかってる!」
前方ら現れるマレビトの群れに先手必勝とばかりに火のエーテルをぶち込んで、露出したコアにワイヤーを伸ばす。巻きついたワイヤーをグルグルとからめ取り引っ張れば、バリンと音を立てて複数のコアが砕けた。
途端、目の前の下の階層への入り口が光を増して道が開けたことがわかった。
「これでいったん猫借亭かな」
「おう、お疲れさん」
鼻歌交じりに足を踏み入れれば、一瞬ぐらりとした後にいつもの帰還場所に出る。目の前には数珠が二つ。今回はダメージもほぼ受けず、ミッションなどもスムーズにクリア出来たように思う。
ふふんと機嫌よく「褒めてくれてもいいんじゃない?」と言えば「あぁ、よくやったな」と素直な賞賛が返ってくる。
この異空間に来てどれくらいになるだろうか。相棒ではないKKを胸に迎え入れたとき、(ああやっぱり僕のKKじゃないんだな)となんとなく感じ取ってしまって少しだけ切なくなったのはいつの日だったか。
その後気づくとこの場所にいた。なぜかはわからないけれど、どうでもいいとも思う。
一度失ったからか、それとも今ともに在るのが別のKKだからか、かつて身につけたはずのエーテルを含む技たちはほぼ減退化というかリセットされてしまっていた。どうしたらとうろたえる暁人に「また一からやりゃいいんだよ……オレもいるだろ」とKKが慰めてくれて、それがなんだか面はゆくて「優しいじゃん」と照れ隠しに返したのも懐かしい。
なんだかんだで予想通りに――予想以上に二人はうまくやっていると思う。
暁人はあの日素直になれなかった分、今取り戻すように甘えた態度をとっている自覚がある。KKもまた出来なかったことをするように、暁人に対して言葉を尽くしてくれる。
お互いにわかっているのだ。
KKにとって相棒とは死んだ暁人のことで、暁人にとって相棒とは眠ったKKのことだ。とっさに『相棒』という呼び名が口からまろびでてしまうこともあるが、これはもはや条件反射のようなもので、そう呼ぶことはなんとなくお互い避けてるふしもある。では今の関係が何かと言えば――『共犯者』、これにつきる。あってはいけない、この世の摂理を曲げた罪を、二人で抱きしめている。
二人の関係が、今ある信頼がまったく嘘だとは言わない。それでもいつだって、お互いにミリ単位でずれたところに、たった一人の『相棒』に向ける思慕がある。それを飲み込んで、それを込みで二人で在ることを自分たちは選んだ。
それが愛なのかと聞かれるとよくわからない。執着と、妄執と、その他ドロドロとしたものを煮詰めたような感情は、果たして愛と呼べるのか。
傷の舐め合いと言われればその通りだし、この関係が不健全で歪んでいることなど百も承知。いつかこの欺瞞に心が壊れる日が来るのかもしれないけれど。
でも出会ったあの日、すでに二人は壊れかけていた。もう独りで立てないところまで来てしまっていた。だからお互いの手を取ったのは必然で、魂が絡み合うのも当然なのだ。
この死なない――死ねない空間は、一般の人間からしてみれば地獄のようなものかもしれない。でも今の自分たちには天国だ。ここにいる限り、死という別離は訪れないのだから。
どこまでも行こう、奈落の底まで。行き着く先があるのかなんてわからないけれど、二人ぼっちでいられるならそれでいい。
ひとりぼっちは、もう嫌だから。