最後の一つは口移しでカシャカシャと小気味良い音がキッチンに響く。少し力みすぎて薄力粉がボウルから溢れ、エプロンに白いまだら模様を作る。汚れを落とそうと指で擦るが、いつの間にか指についていたチョコレートをエプロンに塗り広げてしまいため息を吐いた。
「お兄ちゃん、もうちょっと力抜いて混ぜて。じゃないと飛び散っちゃう」
麻里がラッピングの袋を広げながら出元を覗き込み、苦笑いを浮かべた。
思っていたより生地の粘度があり泡立て器を動かしづらいが、小分けにして加えた薄力粉を今度は溢さないように慎重に混ぜていく。白色が濃い茶色に馴染むのを確認すると、麻里がクッキングシートを敷いておいてくれた耐熱容器に流し込む。溢さないように平らにならし、容器を机に軽く打ちつけ入り込んでいた気泡を抜いた。その上に麻里が使った余りのくるみやアーモンドを砕いたものを散らし、そのまま電子レンジに入れて3分セット。最近の時短テクニックは凄いなと考えついた人に感嘆の念を抱いた。
―――――
さて、何故こんなことをしているかと言うと、話は昨日まで遡る。
発案者は麻里だった。
部屋でのんびりとファッション誌を読んでいると、聞こえてきたノックの音に顔を上げた。にこにこ笑う麻里が駆け寄ってきて、雑誌を目前に突きつける。
「バレンタイン特集…?」
「そう、簡単ブラウニーを作ろうと思うの」
「へえ」
受け取った雑誌をパラパラと捲り、レシピに目を通す。刻まず湯煎もしない、オーブンすら使わないという本当にできるのか少し疑わしいほどの簡単レシピに目を瞬かせる。電子レンジでも美味しいのが作れるんだよ!とやけに嬉しそうに話す麻里を見て一つの可能性に辿り着き戦慄する。
「ま、まさか…告白…?彼氏…?」
麻里はもう高校生だ。恋人の一人や二人…いや二人は駄目だな。彼氏くらい居てもいいお年頃である。しかし大切な妹の麻里が何処の誰とも知らぬ馬の骨を連れて挨拶に来ることを想像して動揺してしまう。僕はこんなにシスコンだっただろうか、どちらかというよりは放任主義だったはずなのだが。
「違うよもう、何言ってるの。これは凛子さんたちと女子会で食べるの!」
「あ、そうなんだ」
「そもそも昨今のバレンタインは本命チョコというより日頃の感謝の気持ちを込めたチョコを送る人も多いんだよ!友チョコとかご褒美チョコとかもね」
「なんでもアリなんだな、製菓業界」
「そう、なんでもアリなの。だからお兄ちゃんがKKさんにチョコを作って渡すのだっておかしいことじゃない」
「え、」
机に置いていた読みかけのファッション誌を捲り、チョコレート特集のページを指先でトンと叩く。
考えていたことは麻里にバレていたようで、後頭部をかいて視線を下げる。
KKにバレンタインにチョコレートを送ってみたかったが、彼はそこまで甘いものを好まないし、あげても困らせるのではないかと思い少し尻込みしていたのだ。
「日頃の感謝って言って本命チョコあげたっていいわけだし。ま、KKさんならお兄ちゃんから貰うものなんでも喜ぶと思うけどね」
「そうかな…」
「そうなの。材料は買ってくるから明日、一緒に作ろう?」
「…うーん」
「大丈夫、チョコはビター買ってくるから!」
半ば強引に了承をとると麻里は部屋を飛び出して行く。KK本当に喜んでくれるだろうか。雑誌を閉じ、明日を思って深くため息をついた。
―――――
ピーピーと軽快な音が聞こえ、電子レンジの蓋を開けるとふわりとチョコレートの香りが広がる。ブラウニーの表面を見てみると、液体っぽさもなく乾燥している。レシピによると、この表面の乾燥が重要らしく中まで熱が入っているかどうかはここで判断するらしい。念には念を入れて爪楊枝で端を刺してみる。楊枝に生地はついておらず、上手くできたようだ。
「お兄ちゃんも上手くできたね」
「ああ、電子レンジで本当にできるんだな」
先に作っていた麻里はラッピングも終わらせて冷蔵庫に入れたようだ。粗熱をとっている間に二人で洗い物を済ませる。
「あと拭いておくからブラウニー切っちゃいなよ」
「わかった…こういうのって長方形か?」
「なんならハートにしちゃえば?」
「それは難易度が高いから長方形だな」
「えー可愛いのに」
軽口を叩きながら二人でクスクスと笑う。ブラウニーを耐熱容器から出しクッキングシートから剥がすと端の歪な所を切り落とす。きれいな長方形に切り分け、袋に詰めたらリボンワイヤーで留めて完成だ。
切り落とした端を口に放おる。滑らかな舌触りとホロホロと崩れていく生地の食感、程よい苦味と甘みが口いっぱいに広がり、舌を幸せにする。甘すぎず、重すぎず。これは美味しい。
片付けを早々に済ませ、エプロンを椅子にかける。
「よし、じゃあ行こっか!アジト!」
「待って麻里、マフラー忘れてる」
「あ、いけない!忘れてた」
上着を着込み家を出る。忘れていないか紙袋に入ったブラウニーへ視線を向け確認する。隣で同じ様に確認する麻里と目が合い笑う。
ふんわりチョコレートの香りを纏いながら僕らはアジトへ足を向けた。
―――――
テーブルで行われている賑やかな女子会の盛り上がりは最高潮だ。麻里の作ったブラウニーは僕のと違いホワイトチョコの模様やドライフルーツで彩られている。見た目も味も良しと好評で絵梨佳ちゃんや凛子さんの作ったサンドクッキーやドライフルーツチョコと並べて写真を撮ってSNSに上げるらしい。
スクリーン近くの椅子に座って貰ったオランジェットショコラを食べながらその様子を眺めていると、買い物から帰ってきたKKが女子会に目を向ける。
「なんだ、賑やかだな」
「バレンタイン女子会だって。そういえば今日って皆集まるんじゃなかった?」
「エドは今日はやりたいことがあるから来ないってメールが来てた。デイルはさっき急用で帰ったぞ」
「ふぅん、そうなんだ」
隣の部屋から椅子を引き、KKは近くに座るとビニール袋から缶を取り出して投げてくる。
受け取って缶の熱さに驚き、膝に置いて手を冷やすように振った。
「あっつい!…ココア?」
「それやるよ」
「、ありがとう…もしかしてバレンタインだから?」
さあな、と言うと目をそらしビニール袋を漁りはじめるKKとココアを見比べ、温かいその缶を両手で握りしめる。椅子の下に置いてある紙袋を思い出して視線を泳がせた。
女子会はこちらを気にしてはいない。手作りブラウニー、今なら渡せるだろうか。
「…KK、これあげる。その、いつもお世話になってるから」
紙袋をつき出すと、KKがビニール袋を落とした。缶類が入っているのか、ガシャンと音がする。落ちた袋に目もくれず紙袋を受け取り中身を取り出した。
「これ、手作りか?」
「まぁ…うん。ビターにしたから甘すぎないよ」
「今食っていいか」
返事をする前にラッピングを解いてブラウニーをつまみ、齧り付いた。
もくもくと頬を膨らませて食べる様子に驚く。
KKがこんな風に甘いものにがっつくのを初めて見る。3つ入れたうち2つを平らげると唇についた食べかすを舌で舐め取り、満足そうに口角を上げた。
「美味いじゃねえか、オマエ菓子も作れるんだな」
「え、あ、麻里に教えてもらって…簡単なやつだけど」
「ありがとうな、オマエの気持ちは受け取った。お返しは今夜でいいか?」
「気持ちって…ココア貰ったし、お返しはもういいから」
「これ手作り本命チョコだろ?オマエの心の籠ったモノ貰ったんだ、ちゃんとお返ししねえと男が廃るってもんだろ、なぁ?」
ニヤリと笑うKKに圧されて頷く。
経緯はどうあれ渡せた事に安堵の息を吐いた。彼のようにさり気なく渡すことはできなかったが、喜んで貰えたようで良かった。
無意識に入っていた肩の力を抜く。ブブ、とスマホの通知が来て画面を確認し、女子会の方を恐る恐る見遣る。
にっこり笑う麻里と絵梨佳ちゃんがひらひらと手を振っていた。どうやら見られていたらしい。凛子さんの生暖かい目を向けられ居た堪れない。熱くなる頬を手の甲で隠しながら顔をそらす。
今夜は凛子さんたちの家に泊まるね、という言外に滲ませたメッセージにスタンプで返し、機嫌が良さそうに夜の予定を立てはじめるKKを横目にココアを口に含む。
甘くて熱い彼の気持ちを飲み下した。