夢うつつの自覚 ――ああ、やらかした。
目を覚ましたときに暁人の頭をよぎったのはそんな言葉だった。
昨日はKKとは別行動の日で、一人でちょっとした祓いのバイトが入っていた。暁人一人に任されただけあって現場の状態はさほど悪いものではなく、ただこのまま放置すると良くない物が増えるだろうなと思えるものだった。悪霊になりかけの幽霊の瘴気をそっと祓ってやればすぐに自ら成仏したようなので、普段からすればずいぶんと聞き分けの良い相手だったと言える。そういう意味でやはり凛子の采配は間違っていない。
問題はその後だ。スマホでアジトへの終了報告をすませば直帰の許可がでたので帰途についたところ……ゲリラ豪雨に遭遇してしまった。一瞬どこかで雨宿りすることも考えたものの、すでに
濡れてしまったことをかえりみていっそ家まで走った方が早いと思ってしまったのだ。
今考えると、これが最初の失敗だ。いくらある程度撥水性のあるタクティカルジャケットとはいえ、滝のような雨の前では無力という他なく、あっという間に全身濡れ鼠ができあがった。
家についた頃には下着までぐしょぐしょで、大きなため息をつきながら張り付く服を苦労して脱ぐと全て洗濯機に放り込んだ。タオルで全身をぬぐい、びしょびしょになったそれも一緒につっこんでおく。
ここで二つ目の失敗、シャワーを浴びなかった。湯船につかるまでいかなくとも、せめて湯を浴びて少しでも体を温めるべきだったろうに、どうにも疲労感に負けてしまったのだ。
最後に三つ目の失敗、暖房をつけずに寝たこと。寒くなってきたからと夏用の寝具から冬用の毛布などに取り替えていたのを言い訳に、パジャマを着た後そのまま冷たい布団に潜り込んだ。震える体と、白い息に気づかないふりをして、寝たら朝がくるからと。
そうして迎えた朝。暁人は震えるような寒さと全身の倦怠感に襲われてて――冒頭の言葉につながるわけである。
だるい体に叱咤して布団から抜け出すと、体温計を探し出す。震える手で脇に挟んでしばし。ぐわんぐわんと揺れる頭に耐えながら小さな電子音を待って確かめればそこには無慈悲にも『38.5℃』という数字が描かれている。
「だめだこれ」
布団に戻り、スマホのメッセージアプリを開いた。簡易なものはすんでるとはいえ今日は実際にアジトで凛子に報告をする予定だった。風邪をひいてしまった事と今日は行けない事、そしてその謝罪をどうにか打ち込み終わると布団に文字通り倒れ込む。返信を待つことなく、限界を迎えた暁人の意識はぷっつりときれた。
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「ちょっとKK、悪いけど暁人くんの様子を見てきてくれない?」
アジトに足を入れて早々、凛子の突然の依頼にKKは目を瞬かせた。
「何かあったのか」
「風邪をひいたから今日は行けないって連絡がきたんだ」
「なら休ませてやりゃいいじゃねえか。今は切羽詰まった依頼もねえだろ?」
そう言ったKKに凛子は「休むのはもちろん問題ないのだけれど…」と言ってスマホを確認する。
「彼、真面目じゃない。いつもならあたしの返信に既読だけじゃなく何かしらの反応もある。でも今日は休みの連絡をくれた後、既読すらつかないのよ」
そう言うと凛子はKKにコンビニの袋をずいっと差し出した。
「あたしの早とちりならいいけれど、スマホを見れないぐらいの状態なら一人はまずいかしらって。とりあえずお粥と冷えピタ、経口補水液と熱冷ましも用意したから」
頼むわね、相棒さん。と念を押されとりあえず袋を受け取る。仕方ねえなと言って入ってきたばかりのアジトから足を踏み出せば外は秋どころか冬を感じる冷たい空気で満ちていた。
歩き出す前に暁人に『様子を見に行く』とメッセージを送ってみるが確かに返信はなく、いつも年下がいかに素早く返信をくれていたのかというのを実感してしまった。
スマホをスーツのポケットに戻し、コートの前をかきあわせて階段を降りる。思えば暁人のアパートの前まで行ったことは数える程度にあるが、中に入ったことは皆無だ。というか、行ったところで入れるのか?という疑問がわく。起きられる状態ならいいが、もし凛子の想像通りの体調で、鍵がかかっているようならば門前払いで徒労に終わるのでないのだろうか。
「まあそれならこれだけ置いてくればいいか」
凛子に持たされた『簡易お見舞いセット』、もし出られないようなら取っ手にでも引っ掛けてその旨だけメッセージで知らせればいいだろう。
なんだかんだでKKもまた、相棒を案ずる気持ちがないわけではないのだ。健啖家で普段病のやの字も見えぬ青年が体調を崩したというのだから。
などと考えているうちに暁人の現在の住居であるアパートにたどり着く。古くはあるが安いし交通の便も悪くないとは暁人の弁だ。
コンクリートの階段をのぼり、『伊月』とだけ書かれた錆の目立つ扉の前に立つ。メッセージアプリは未だに既読すらなし。チャイムを押せば、割れたような音がしたものの返事も物音もしない。寝ているなら起こしたら悪いと思いつつも、手にしたままのスマホで電話もかけてみるがやはり反応はない。
「こりゃ凛子の予想で当たりか?」
どうしたものかと思いつつ、鍵がかかっていることを覚悟して取っ手に手をかければ――動いてしまった。まさかとつぶやきながら腕をひけば、扉はそのままあっさりとあいてしまい隙間から狭いあがり段が目に入る。
「おいおい…不用心にも程があるだろ」
あとで説教だなアイツ、と元警官らしく眉をひそめたが都合がいいのは間違いない。
「暁人、邪魔するぜ」
小さい声で義理程度に侵入の宣言をし、靴を脱ごうと足元を見れば無惨にぐっしょり濡れそぼったままの暁人愛用のスニーカーがある。それにKKの中でなんとなく事の顛末が見えてくる。そう言えば昨日は一部地域で雨がひどかったようだ。
一人で暮らす小さなアパートだ、玄関と居住空間を分けた扉を開けばキッチンがまず見えた。昼も過ぎたが室内はカーテンがひかれたままでまだ暗く、まるで誰もいないように静まりかえっている。寒さとあいまって、なんというかあの青年にふさわしくない生活感のなさだった。ただ部屋の隅に小さなテーブルがあり、両親だろう男女とあの日見送った妹の写真が飾られている。その前には花と菓子が丁寧に供えられていて、そこだけが色付いたようだった。それが無性に、KKの胸に寂寥感を覚えさせた。
視線をキッチンの奥にやれば扉がある。多分その奥が寝室がわりなのだろう検討をつけて、そっと扉をあけた。はたしてそれは正解で、頭まで布団をかぶる大きな子供が一人。そっと近づくがまるでこちらに気づかないようだった。
「おい、暁人……大丈夫か」
声をかけるが反応がない。キッチンと部屋の状態を見た限り、薬どころか食事をしたかすら怪しそうだ。
かぶった布団をそっと剥がせば、苦悶の表情で荒い息のまま己を抱きしめるように縮こまっている弟子の姿があった。
――これはかなりひどいのでは。
子育て(熱をだした子供の看病含む)の経験値が低いKKにもわかる有り様だ。となると、やはり何か食べさせて薬を飲ませるのが一番だろう。
凛子に持たされた袋に粥があると言っていた。パッケージを確認すればレンチンで出来る優れ物のようで家事力0の自分でも出来る。文明の進化に感謝である。
ついでに目に入った冷えピタを貼ってやろうと、張り付いた前髪を払おうと指先で額を触ればやはりずいぶん熱かった。
「この強情っぱりめ」
人のことを言えたためしでないのは重々わかっているが、そんな罵りが口からまろびでる。
凛子に連絡を入れた時点で素直に助けをもとめればいいのに…とは思うが、暁人の長男気質な性格上思いつきすらしなかっただろうことも容易に予測できた。それでも頼ってほしかった――とまで考えて、乾いた笑いがでる。
やはり自分はこの子供にずいぶん入れ込んでいるらしい。無理やりこんな業界に巻き込んでおいて、図々しいにもほどがある。
胸に渦巻く暗い想いを散らしながら冷えピタの接着シートを剥がして静かに額にのせる。さすがにそれは刺激になったのか、小さくまぶたを震わせて暁人が目をゆっくり開いたのはその時だった。
「ぇ……けぇ、け…」
「起きたか」
「なんで、ゆめ…?」
寝ぼけている…否、うなされているのか、聞いたことがないほどか細い声で言われた台詞に「夢じゃねえって」と返そうとすればかぶせるように「かぜだからって、ずいぶんつごうのいいゆめだなぁ…」と暁人が自嘲するように笑った。
「……何が都合いいんだよ」
「さみしいときに、けぇけぇがいてくれるなんて……つごうよすぎだろ。でも……ゆめでも、うれしいや」
潤んだ目でうっとりと囁いた年下の姿に、どくりと心臓が跳ね上がる。
それは。それは、どういう意味で。
耳奥でうるさい心臓をねじ伏せて、右手で暁人の頬を掠めれば指先がひどく熱い。それが自分か、暁人の体温なのかわからなくなりそうで。行く先に迷った手のひらに、熱を帯びた年下のものが重なった。はぁ、と暁人が息を吐く。
「つめたくて、きもちい……」
「オマエが熱いんだ馬鹿」
「ゆめなのに、けぇけぇはけぇけぇだな。でも、そういうあんたがすきだから、しかたないか」
熱っぽい吐息と気怠げな目線は間違いなく風邪のせいだというのにどこか艶やかで、KKの中の何かがゴリゴリと削れてゆく気がした。
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先ほど『入れ込んでいる』と表現したがそんなものじゃ生ぬるい。これは醜いほどの執着と独占欲だと、実際のところわかってはいるのだ。
二心同体で過ごした弊害か、今やKKにとって暁人の魂はなくてはならないものになってしまった。側に置かない方がいいと理性でわかりつつも、相棒と呼び共に夜を駆けるのを諾としている時点で罪深い。
マレビトとの戦闘中などは共鳴率があがるせいか、未だにお互いの気持ちや行動がわかることがある。だがさすがに日常生活ではなんとなく感じとれる何かがあるだけで、細かい感情の機微まではわからない。
だがKKは年下の身に間借りし、境界線がわからなくなるほどに共鳴を繰り返したあの日から、二人の魂は重なるどころか混じり合ったままの気がしている。
側にいるのが当然だと、わかたれることが何よりも辛いと、本能がずっとそう叫んでいる。
かえりたい、もどりたい、一つになりたい――。
それが、自分だけの想いじゃないと自惚れていいのだろうか。その手をつかんで引き寄せて許されるのだろうか。
否――、許す許さないではもはやなく、その魂をからめ取って一つに戻すのだ、あの日のように。
「なんにせよ、だな」
この片割れの熱を下げて、正気に戻すところから始めなければならないだろう。
お粥をレンジで温めて、食べることが出来たなら薬の時間だ。熱を下げればうなされるのも少なくなるだろう。そうしてゆっくり休んで目が覚めたなら。
「覚悟しとけよ、暁人」
そう言って獰猛に笑った相棒の姿を夢うつつで見ていた暁人が、後日目の前ではっきりと目にすることになるのはまた別のお話。