招(よ)ぶ、音。 あ、という表情で視線を彷徨わせた月島に、傍らにいた宇佐美も気付いたらしい。
「どうし……、」
どうしましたか、と問おうとしたのだろう。だが、その言葉は途中で飲み込まれ、あとにはちいさな音
が響く。
響いて、消える。
「風鈴ですね」
ころころ、と転がるような澄んだ音がいくつも、ようやく陽のかげりはじめた蒸し暑い夏の夕べに重なって響いていた。短く、零れ落ちるざわめきのような音はやわらかく、そのおとの因(もと)の素材の涼しさを伝えてくる。
「えらくたくさん響いてくるな、と」
宇佐美と並んで歩きながら、月島はあたりに眼を走らせ、それにたいし、宇佐美は少し進んだ先にある神社の境内を指さしてみせる。
「あそこにある神社、毎年この時期には七夕祭りもかねて、風鈴祭りってのやってるんです」
ちょっと寄ってみましょうか、たぶん夜店も出てるから。そう言ってにっこり微笑む宇佐美に、月島はしかし、僅かに眉を顰める。
「七夕は、もう過ぎてる」
「旧暦の七夕は、まだ過ぎてませーん」
その時期までやってますよ。そう言いながら、宇佐美は月島の半歩さきを歩き出した。黙って月島も、その後ろからついて行く。
かろかろと、風鈴の音が近づいてくる。
平日だが、公園近くであるせいか、夕刻遅くであるせいか、人はそこそこ行き交って、そこに重なる風鈴の音はまるで、重なる笑い声のようだ。
未だ沈まぬ陽の、夕暮れ時にわずかに赤いその色に、硝子でできた風鈴がたのしげにきらめいて、笑(うた)う。
「壮観だな……」
そこかしこに並べてぶら下がり、きらきらと揺れる風鈴の下にひらひらと短冊が踊り、それを見た月島は思わず溜息とともに呟きをこぼした。それを宇佐美は目を細めて見つめると、不意にその短冊を指さした。
「短冊に願い事を書いて、飾ってもらえるんですよ」
僕らもお願いしてみましょうか。そう言う宇佐美に、月島は少しばかり困惑したような気配を見せた。
「どうしました?」
「……いや」
願い事なんて、何もないから。そう言う月島に、宇佐美はすこしばかり不満げに「面白くないひとだなあ」と口を尖らせる。けれど本気で気分を害したというより、既にその答えを予測したがゆえの揶揄いだということは、言われた月島にもわかっていた。
といって気の利いた返しが出てくるはずもなく、ただ「わるかったな」と更に愛想のない仏頂面で答えるしかない。
それすらも楽しいというように「なら、宇佐美くんの願い事が叶いますようにって書いてくださいよ」と言いながら、ずんずんと受付の方へ歩いて行く。
本当に嫌なら、付いて行かなければいいだけの話だった。だが、何故だろう、それでもいいかもしれないなと思ってしまった月島は、宇佐美のあとについて歩き出す。
まるで、ころころ、かろかろとなりひびく風鈴の硝子のさざめきに導かれ、どこかに迎え入れられてゆくように。
「宇佐美は、なら、何を書くんだ」
短冊に向かう宇佐美に、月島は問う。
「んー……」
少し考えるように、サインペンを持ったまま顎に手をあて、宇佐美は揺れる風鈴を眺めている。
ガラスの音が、うたうように、咲(わら)うように。そこに弾いて、透けて、光(かげ)の色が二人の上を滑ってゆく。
そして宇佐美は、さらさらと紙の上にペンを走らせた。「会えますように」と。
誰に、とは書かない。誰が、とも書かない。ただ「会えますように」のひとことに、月島は不意に胸の奥がちりりと疼く。
まるでその言葉が、自分の中にある何かをも抉り出して目の前に見せつけられたように、ひやりと躰のうちに冷たいものが走り抜ける。
かろん、ころん、ころり、かろ、かろ、ころ
硝子の音が、笑い声のように重なった。
会えますように。
誰に、誰が。
言わなくてもわかるでしょう、と宇佐美は言いたいのか、それとも敢えて、なんとでも読み取れるように書いたのか。
彼ら二人は、ずっと探している。
宇佐美も、月島も、ずっと「そのひとを」探している。
けれど二人はいま、お互いにしか会っていない。
はるか昔、明治の記憶を持ったまま、明治の面影を留めたまま、今のこの世に生まれてきた二人は偶然に出会って、気づけば寄り添うように一緒にいて、けれど他の誰にも出会っていない。
かつて生を終えた時期のずれのせいだろうか。過去とは違い、宇佐美は月島より少し先に生まれて、年上だった。けれど、かつての記憶はそのままに、宇佐美は月島に敬語をつかい、月島は宇佐美を目上としては扱わない。
他にはだれか、いるのだろうか。知らないところで、暮らしているのだろうか。
それとも本当に、「あの記憶」を抱いているのは、宇佐美と月島のふたりだけしかいないのだろうか。よしんば生まれていても、すべてを忘れて何事もなく暮らしているのだろうか。
わからない。彼らは誰にも会っていないのだから。そして、彼ら二人ながらに一番会いたいと探している相手は、いるのかいないのか。
宇佐美は、月島がそのひとに会いたいと思っていることを、知っている。
月島も、宇佐美がそのひとに会いたいと希(ねが)っていることを、知っている。
そしてたぶん、宇佐美が月島の傍にいるのは、「その人が月島の傍に現れるのではないか」と想っている所為なのだということも、月島はうすうす感じている。
月島がそれを受け入れ、宇佐美の傍にいる理由は、月島自身にも判然としない。ただ、宇佐美が会いたいというのなら、その人に会えればいいとは思う。
そして自分は、その人に会ったら───何をしたいのか。わからないが、たぶんその人が「存在(い)る」ことを確かめられればいいと、そう思っていることは確かだ。
おかしな話だと思う。あの当時の記憶をたどれば、会いたい相手はもっと他にいるはずなのに。たとえばくせ毛の彼女。たとえば、たとえば…色々考えるが、けれどむしろ、もし本当にそのひとたちがいるのなら、過去のすべてを忘れて、幸せに暮らしていてくれればいいと思う。
自分のように、記憶を引きずりとらわれて、漠然とした不安を抱えて現在(いま)を生きているようなことは、なければいいと思う。その相手が大切であればあるほどに。
けれど。
「───どうしました?」
怖い顔をして、と宇佐美が自分を覗き込み、ようやく月島は、自分はペンを持ったまま動きを止めてしまっていたことに気付く。
その宇佐美の視線を受け止め、見返して、不意に思った。もし会えたら。もし宇佐美が短冊に書いたとおりに「会えたなら」、そのときは多分、自分の傍らにいることをやめ、その人のところへ行くだろう。
本当は、そうあるべきなのだ。そう、月島は思う。「そのひと」への手がかりかもしれないという、その可能性以外に、宇佐美がここにいる理由はない。
月島の傍にいる理由など、どこにもない。
けれど、自分は───
「なんでもない」
言いながらペンを構えなおし、先に宇佐美がいったとおりの願い事を書こうとして、しかし月島は不意に、何かにその手をさえぎられた。
「うさ、み」
ペンを持つ手に、宇佐美の手のさらりと乾いた感触が触れて、力を込めて、さらさらと願い事を書いてゆく。されるままに動かされたペン先は、不自然な書き方をさせられたせいで少し歪んだ文字をつづる。
会いたい、と。
誰が、誰に。
月島はそのことばを否定できない。宇佐美が会えるといいと思っている「そのひと」に、自分もまた、確かに会いたいのだ。会ってどうするのかはわからない。恨み言を言いたいわけではない。ただ「そこにいる」ことを確かめたい。
たしかに存在している───していたという、証が欲しい。
「ねえ、月島さん」
手を重ねたまま、短冊に眼を向けた宇佐美が不意に言う。
「僕ね、思うんです。あのかたはもしかして」
まだ、ずっと、生きているんじゃないかと。
その言葉に、ふと息を吐き、何をいまさらとばかりに月島は口元をゆがめた。
「そう思うからこその、願い事だろう?」
「ううん、そうじゃない、そうじゃなくて」
僕たちのようではなく───と、宇佐美は月島の手を掴んだ指先に力を込め、続けた。
「あのまま、姿かたちも変わらないまま、ずっとこの世にいたんじゃないかと」
「馬鹿いうな、あれからどれだけ経ったと思う」
それで年も取ってなければ、あの時の土方歳三を越える化け物だ。そう言ってさすがに月島は苦笑し、宇佐美を振り向いた。だが、その視線の先にある顔には、軽口や冗談という空気はなく、ただひたすらに真剣に、まるで怒りを覚えているかのような眼差しが短冊の上に向けられて、月島はそれに我知らずぞくりと、恐怖にもにたものを感じる。
「うさみ、」
「だって、きっと、だから、」
ぼくの小指はまだ動かない。
そう吐き出した宇佐美の、月島の手の上にある、ぎりぎりと痛みを覚えるほどの力を込めたその指のうち、小指ばかりに力がない。
うまれつき動かないのだと、出会った頃に宇佐美は言った。
あのとき、かつて、最後に宇佐美が「そのひと」にあげた小指。食い切って、からだの一部にしてもらった小指。
「もし、僕らのようであるなら、きっと、そのとき小指はかえってきていると思うから」
僕の小指はまだ、一緒にいるんだ。そう宇佐美は言う。
「そして未だ僕は「あのかた」の一番で、」
あなたはまだ、まるごとあのかたの右腕で、だから僕が今もあなたの傍にいるのは、至極当然で、と。
続けながら宇佐美は月島の手を解放し、代わりに背後から月島を抱きしめる。こら、と月島はいちおう、抗おうとした。
「人目が、」
「あってもいいんです、別に」
知らない人に何を思われたって、どうでもいいんです。僕はあのかたの一番で、その右腕だからあの方の一部であるままのあなたにとっても、いつだってそうあるべきだと決まってるんですから。
まるで駄々を捏ねるように宇佐美は言って、くすくすと笑う。
「だから、もし、願いが叶っても、あなたは」
僕の傍にいるべきだし、僕が手放すはずもない、と。
どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか。わからないまま、月島はそれならそれでいいとも思っているし、本当に「そのひと」が目の前に現れたら、お互いにどうなるのかわからないとも、そう思っている。
その耳に、かろかろと幾重にも重なる硝子の音をかき分けて、不意に、一閃。
りん──────と、するどく長く緒をひいて、つめたいほどに涼やかに澄んだ、高い音。
「ああ、」
宇佐美はその音に顔をあげた。
長く長く緒をひいた音は、ざわめきを切り裂いて、ざわめきの最中にあっても、その音のあるあいだばかりは静寂を思わせる。
「金属の風鈴ですね、この音」
神社の社殿の軒先にでもあるのかな、と宇佐美は音の行方を追って、そして漸く手を解く。
「ねえ、知ってますか月島さん」
りん──────
長く、いつまでも消えないような、その音。
「風鈴はもともと、魔除けだったんですって」
同時にその音は、何かこの世ならぬものを招く音だったのかもしれませんね。どこか違う場所へ届いて、ここに自分が居ることを報らせるように。
層をなす世界を貫き通し、飛び移るためのまじないのように。
宇佐美はそんな事を言う。
「同じ音を聞いているならいいのに」
その呟きもどこか、響く風鈴の音のように、かろかろとさざめく音のなかでひときわ凛と、耳の中に残って月島の頭の中に響く。
「たぶんきっと、聞いてる気がしますけど」
宇佐美は「誰が」とは言わずにそう続け、それに月島は否とも応とも答えずに、ただ回された腕を「暑い」と訴える。
「あつくるしい、うさみ!」
その声と同時に身じろげば、ようやく宇佐美は両腕を解き、肩を竦めた。
そしてくすりと笑う宇佐美の顔はいつも通りの邪気のない笑顔で、月島はそれにいくらか安堵して短冊を目の前に突きつける。
「ほら!ぶらさげないと願いは叶わないんだろ?!」
それに「はいはい」と答えながら宇佐美は受け取ったふたりぶんの短冊を、少し離れたところの受付へ届けにゆく。
かろかろと、硝子の風鈴が鳴る。
「ねえ、もう!失礼しちゃうなあ!仲のいいご兄弟ですねって言われちゃいましたよ」
戻ってきた宇佐美は少し拗ねたように唇を尖らせていて、それに月島はどこか嫌な予感を感じた。
「……まさか余計なこと、言ってこなかっただろうな」
宇佐美はそのいくらか剣呑な月島の表情に、何かを察してにっこりと笑う。
「言ってきたほうが良かったですかね、恋人同士ですーって」
「ばっ!」
ころころと、風鈴が笑う。
「何も言ってませんよ、やだなあ。だいたい恋人なんて安っぽい関係じゃないでしょ」
「ふざけるな。」
「ふざけてませんよ、かつて生きるか死ぬかの戦場をともに駆け抜けた、戦友なんですから、僕たち」
それは確かに間違いはない。確かに宇佐美と月島は、かつて「戦友」だった。その筈だった。
そして「そのひと」も、彼らをそれぞれ「戦友」と呼んだ。狂ったように奔(はし)り続ける「戦友」だと。
だから月島は黙り込み、それに宇佐美は満足げに頷く。
頷いて、近づいて、そして頬に掌で触れながら額をこつりとぶつけ、囁きかけた。
「僕は、どこにも行きませんよ」
たとえあの人に会ったとしても。ずっと一緒です。その言葉が何を意味するのか、今の月島にはまだわからない。判らないけれど、ただ「ん」と曖昧に呟いて、それに満足したように宇佐美は体を離し、漣のような音の中を歩いてゆく。
「ねえねえチョコバナナ色々な色で超かわいいんですけど!あとかき氷!」
なんか買っていきましょうよ、とはしゃいだ声を出す宇佐美に、月島は「それより腹が減った」と焼きそばの匂いを目でたどる。
「もう屋台コンプしちゃいましょうか綿あめも欲しいし、あ、そのあと帰り道ラーメン!ラーメン食べましょ!」
そのくらい軽いでしょ、といくらかはしゃいだような声を出す宇佐美に、月島は頷き「大盛り!」と答える。
「当然!大盛りで!チャーハンも!」
「チャーハンもいいのか?」
「いいに決まってんでしょ」
たくさん食べて大きくなりましょうねーと、少し戻ってきて頭を撫でてくる宇佐美に、月島は「お前だってさほど大きくないくせに」とふてくされて見せる。
ふてくされても、月島の身長が頭半分ほど宇佐美に及ばないのは事実で、少し前まではまだ伸びると思っていたのだが、さすがにもはや諦めねばならない年齢に達していた。
そういうところも先に生きていた頃と同じになってしまうのか、と諦観の中で月島は思うが、やはり揶揄われると面白くない。だがそれを素直に顔に出せば、宇佐美はいつも嬉しそうに言うのだ。
以前と違って、そういうところが素直で嬉しい、と。
僕には我儘言ってもいいですよ、今は僕の方がお兄ちゃんですから、と。
それを受け容れるにはいくらか抵抗があるが、しかし今はそれでもいいかと月島は思う。これが、いつまで続くのかわからないけれど、と。
かろかろと、風鈴が鳴る。
あの空を鋭く一閃して切り裂くような長く緒をひく音は、もう聞こえない。
どこにもひやりとした音を立てた金属の風鈴はなく、ただようやく夜の中に沈み始めた周囲の空気は蒸し暑く、風鈴の音はただ楽し気に響いていた。
なにかを告げる声のような長く長いあざやかな音は、今はもう、どこにもない。