初描き宇佐月(たぶん2020年の10月くらい…?) 事務室にまだ明かりが皓々とついていることに宇佐美は驚き、そして部屋の中にいた月島はこの時間に事務室に入って来る者がいたことに驚いた。
「あれ、お疲れ様でーす!」
ヘルメットを小脇に抱え、作業服に安全チョッキというスタイルの宇佐美が声をかけ、それに対し幾分くぐもった声で、打ち合わせ卓のところに座っていた月島が「お疲れ」と返した。そして口の中にあったものを飲み下し、「お前も食うか?」と目の前に並べ立てている諸々を指し示す。
「何食べてんですか?」
晩飯にしちゃ寂しいんですけどぉ。そう荷物一式を自分のデスクに置いて近付いてきた宇佐美は、その段ボールの前に屈みこんだ。
「こないだ入れ替えしただろ?」
備蓄の非常用食料。そう月島は答える。その声を聞きながら、ああそういえばこの間、災害対策物品のうち、そろそろ賞味期限の切れそうな非常食一式が総入れ替えになったなあと宇佐美は缶詰のパンを手に取りながら思い出していた。そして古いほうの食料品や缶詰は、適当に持って帰っていいぞと言われていたことも。
「だからって、晩飯にこんなもん食わなきゃいけないほど、お賃金少ないわけじゃないでしょう」
なんで一人で残って、ごそごそ非常食ディナーしてらっしゃるんです。そう揶揄うような眼を向ければ、プラスチックのスプーンで袋入りのドライカレー(水があれば20分)を食べていた月島は苦笑した。
「帰り損ねた」
「社畜すぎでしょ」
今何時だと思ってんですか。僕、夜間工事の立ち合いから戻って来てるんですよ?そう宇佐美はごそごそと段ボールから缶詰をいくつか物色し、打ち合わせ卓の上に並べだす。そう、宇佐美は今、夜間工事の現場で開始ミーティングを終えて、だいたい予定通りに作業が走り出したので、あとは現場監督に任せて戻ってきたところだ。その工事の開始時間はといえば二十一時である。
もうそろそろ終電もなくなろうかというその時間に、未だ月島がこんなところで非常食を食べているものだから、もしかしてこの人は帰らないつもりだろうかと思いながら、向かい側に座り、途中で飼ってきたペットボトルの蓋を開けた。
「もう帰るのも面倒臭くなってな」
案の定そう言う月島に、宇佐美は軽く眉を上げる。
「そして鶴見部長に怒られたいんですか?もしかして鶴見部長に小言言われたり心配されたくて、わざとやってます?」
「そうじゃないが」
慌てて否定する月島に「どうだか」といじわるく言いながらペットボトルの無糖の紅茶を一口飲んで、そして5年保存可能なパンの缶詰を開ける。ぱきりと軽い音とともに、黒糖の匂いが微かに漂った。
五年と3か月ほど経過しているそのパンは、それでも一応食べられる固さだが、あんまり美味しそうじゃない。そう平常時ならではの贅沢な感想を抱き、宇佐美は続ける。
「あなたのそういうとこ、ホントにたまにイラっとすんですよ」
僕は要領がいいから、こんな残業もほとんどないし、帰りが遅いのはそういうスケジュールだからですがね、と。
「言われてるでしょ。仕事に命かけるな。一杯一杯になるまえに上手く捌け。自分に無理をかけるような仕事のしかたはするなって」
「お前はほんとにその通りにしてるよな」
えらいもんだ、と嫌味でもなんでもなく、本当に心の底から感心するように微かな微笑を湛えて返す月島に、パンを毟りながら宇佐美は皮肉気に唇許を歪めた。
「だから、僕は鶴見部長に信頼されてます。でも、あなたみたいに心配してもらえない」
手の中のパンは、それでもやはり少しパサついていた。賞味期限が切れたせいなのか、それともそういうものなのか。
それでもそのパンを見て、月島は言う。
「そっちも割と美味そうだな」
「…少し、食べます?」
幾分辟易しながら、それでも缶のかたちそのままに円筒形をしたパンを、宇佐美は千切って手渡した。そして自分も残りを少し千切って、口の中に押し込んでみる。
不味くは、ない。だが
「美味しくない」
「…レンジかなんかで温めれば別なんじゃないか?」
「そこまでして食べたくもないです」
ていうか、僕は普通に晩御飯どこかで食べます。そう言って、それでももそもそと手をつけたものを茶で流し込み、宇佐美は少し可笑しくなった。
「なんだか、二人で遭難してるみたいだな」
その宇佐美の心をそのまま読んだように、月島は言う。それが可笑しくて、思わず宇佐美は声を立てて笑った。
「月島さんと一緒に遭難なんて、心強いけどイヤだなあ」
「なんだそれ」
「鶴見さんといっしょならいいけど」
「そりゃそうだろうよ」
「でも、サバイバル力や非常時の生活力は、月島さんのほうがありそうですよね」
生存率高そう、と付け加えてぱたぱたとパンくずを叩き、宇佐美は立ち上がる。もう帰ります、と言おうとして、しかし不意に視界が奪われた。
「あ」
自動消灯。そう、暗闇の中で、月島が間の抜けた呟きを漏らした。そういえば、定時すぎると一定時間経過したら電源が落ちるんだった、と宇佐美も思い出す。
「自動消灯、オフにしてなかったんですか」
「それまでには帰るつもりだったんだ」
「しょうがないなあ」
一度、電気つけてきます。そう言いながら宇佐美は立ち上がり、しかし徐々に闇に慣れて来た眼の中に、ぼんやりと座る月島の影を認め、ふと悪戯心がわいた。
宇佐美を眼で追うわけでもなく、ただじっと座るその姿は少し疲れているようで、そして同時にひどく無防備に見えた。全くこの人は、こんな時間まで、何やってんだか。そして朝になって事務所泊りがバレて、鶴見さんにお小言を貰って、それでもきちんと仕事は仕上げてお礼を言われて。
…そういうところ。ホントに無自覚なのイラっとする。そう思いながら、電源のほうでなく月島に近付いた宇佐美は屈みこみ、その頬を手さぐりに触れて、ああ髭が伸びかけてるなあと思いながら、こちらは普段から伸ばしている顎髭に触れる。
「うさみ」
怪訝そうな声に、一切の警戒がない。そのことが少しばかり腹立たしいなと思いながら、宇佐美は屈みこんで半開きだった月島の唇の中に、自分の舌を突っ込んだ。そのあとで、おもいがけず柔らかい唇の感触がある。流石に躰を反らして逃げようとした月島の頭を抑え込んで舌を追いかけると、先まで食べていた非常食の混ざった味がまだ残って、その変な安っぽい生活感がこの人らしいと思える。あまり嬉しくはないけど、自分も現場帰りで埃臭いからおあいこだよねとそう思いながら、静かなオフィスの暗闇に響く音が酷くいやらしいなと、そう思った。
―――まあ、いやらしいキスを、自分がしているわけだけど。
そう思って声を立てずに笑いながら、無言で月島から離れ、部屋の壁に慎重に進み、照明のスイッチを手で探る。
部屋が明るくなったとき、茫然と座ったままの月島の表情に、宇佐美は少し、眼を細めた。赤面してもいない。けれど、怒っているわけでもない。ただ何がおきたのか把握しかね、その目の前の部下に何を云ったものかと考えあぐねているような困惑の表情に、もういちど宇佐美は微笑を向ける。
かわいいな、と思いながら。
「…ね、月島サン」
こんな味気ない食事、本当に遭難してからにしましょうよ。そう宇佐美は云いながら、着たままだった安全チョッキのホックを外す。
「僕、着替えてきますんで、そこ片しといてくださいね」
一緒にご飯食べましょ。何かあったかいもの。そんで一緒に帰りましょ。
「深夜勤なんで、僕ちゃんとタクシーチケット貰ってますから」
いやしかし、と少しばかり躊躇いをみせる月島に、宇佐美はきっぱりと云ってのける。
「こんな時間にできる仕事なら、明日にだって十分できるでしょ」
月島さん一応優秀なんですから、むしろひと眠りしたほうが効率よく早く仕上がります。そうきっぱりと云うと、月島は顔を顰め、それから苦笑して首を振った。
「そうかもな」
「だから夜勤から戻った部下に、ビールの一杯でも奢ってください」
「…ああ」
そして座ったまま、自分が食い散らかしたものをゴミ袋に纏めて放り込みながら、ロッカーに向かう宇佐美に、ふと思い出したように声をかける。
「な、宇佐美、さっき…」
それに宇佐美はくすりと悪戯っぽい笑顔を浮かべ、そして心底楽しいなあという口調で応える。
「パンはぱっさぱさでイマイチでしたけど、ドライカレーのほうは結構美味しかったみたいですね」
その台詞に言葉に詰まった月島の頬が、今更のように赤くなる。そして「バカ野郎」と乱暴に吐き捨てると顔を背け、それに更にくすくす笑いながら宇佐美は「ごめんなさい」と言い添えた。
それに対して、眼を逸らしたままの月島が、どこか拗ねた子供のように唇を尖らせて「謝って済むことじゃない」と呟いた。まあそうかなあと思っている宇佐美の耳に、しかし、更に月島が続ける。
「…腰、抜けるかと思った」
まだ立てない。そう続けた声に宇佐美は眼を瞠って一瞬だけ絶句し、それからすぐに「あはッ」と声を立てて笑う。
「いいですよ?着替えて戻ってもまだ立てなかったら、肩抱いて歩いてあげますから」
「ふざけるな」
「ねえ月島さん」
ぶすっと黙り込んだまま自分に視線を向ける月島に、宇佐美は首を傾げて見せる。
「月島さん…月島さん、ね、」
怒ってます?そう訊ねる声に、月島は答えず、ただもの言いたげな表情で黙っている。云いたいことがあるならはっきり言えばいいのに、と宇佐美は思い、とにかく着替えようと踵をかえしたところで月島の声が届いた。
「せめて歯磨きしたあとにしてほしかった」
おっさんのカレー臭い口とか、嫌だろ。その言葉に宇佐美は脚を止め、そして振り向いた先にある羞恥にいたたまれないと言わんばかりの月島の表情に、認めたくないが動揺する。だがそれを面に表すことはせず、ただひとこと。
「おいしかったです。御馳走様」
こんどこそ月島の表情が怒りを滲ませた気がしたが、でも嘘じゃないもんねえ、と思いながら、宇佐美は笑ってロッカーのほうへ小走りに向かう。早く着替えて、早くあのひとを連れ出して、どこかで暖かくて美味しいものと、冷えたビールにありつこうと思いながら。