no title 人は誰しも叶いたい恋というものがある。
「はつこいいい?」
それは十七歳の秋であった。調子外れな声で放たれた言葉を聞いた私は、資料室へと向かっていた足を思わず止めていた。ちらり、と声が聞こえた方へ視線を向ける。そこは四年生の教室だった。
「ウケる」
「ウケんなよ。真面目に言ってんだけど!」
「だってお前が恋とか……」
「わかんねぇからこうして相談してんじゃん」
あの五条悟が、恋愛相談をしている。意外だ。しかも初恋らしい。
――五条先輩の好きな人かぁ。どんな人なんだろう。そんな風な事を思いながら私は資料室へ向かう為、教室から視線を外し歩みを再開した。気にはなるが、この時から特段仲が良いとは言い切れない、ただの先輩後輩の関係であった人に好きな人の事など聞けやしないか、と思った私は早々に知る事を諦めた。知ったところで……とも。だがすぐに、私は五条さんの好きな人を知る事になるのだ。
五条さんに好きな人がいる事が判明してから数時間後、お茶を買おうと自販機へ向かったら、当の五条さんとバッタリ出くわしたのだ。一人の女性と共にいる五条さんと。女性からにこりと笑顔を送られて、つられて笑って挨拶を返したら五条さんがわさとらしく女性を隠すように、私の前に立ち塞がったのを今でもよーく覚えている。五条さんの背に隠された黒いスーツ姿の彼女は確か、今年の春に窓から補助監督へ転身して高専に来た人である。歳は自分達とそう変わらなかったはずで、私の三つか四つ上くらいだったか。異職種へ転身するのは、彼女に限らずよくある事である為、珍しくはないのだが、学生の身であった私の耳に入る程彼女が高専に来て話題になったのは、もっぱらの美人だったからである。
「オマエもなんか買いに来たの」
「あ、はい。少し喉が渇いたので……」
「ふーん。じゃ、ついでに奢ってやるよ」
「えっ、そんな悪いですよ。自分で買えま……す……」
と、私が断りを言い終える前には、すでに五条さんは自販機のボタンを押して落ちてきた缶ジュースを手に取り、それを私の胸にドンと押し付けていた。
「うるせーな、後輩らしく奢られとけ。別についでだからいーんだよ」
「あっ、ありがとうございます」
お茶がよかったんだけどな……。内心そう思ったけれど奢ってもらった立場では何も言えない。それと、身の内に湧き起こる感情に嘘がつけなかった私は、素直に缶ジュースを受け取りながらお礼を口にした。
「五条くん、やっさしー」
五条さんの脇から顔を出した彼女が、揶揄うような口調で五条さんへそう褒めそやす。彼女を見やった五条さんの頬が、途端に赤く染まった。
「うるせー。つかそれより喉乾いてんだろ。何がいいの」
「え? あ! そうだった、そうだった。えっとぉ……これちょうだい」
彼女が指した飲み物をすぐさま購入して手に持った五条さんは、彼女の方へ身体を向けるとそれを差し出す。必然的に私に背を向ける形となった五条さんは、もう私には興味がないというような感じだった。
「ハイ、どーぞ。じゃあもう行こうぜ」
彼女が飲み物を受け取ったのを確認すると、五条さんは私に見向きもせず校舎の方へ歩き出してしまった。慌てたように五条さんの後に続こうとした彼女は一歩足を踏み出すと、あ! と何かを思い出したかのように私の方へ振り向いて「またね、伊地知くん」と優しく手を振ってくれた。それに私が応えようと手を挙げた途端「オイ、早くしろよ」と少し離れたところから五条さんの彼女を呼ぶ声が聞こえた。立ち止まり半身だけこちら側に向けて、ポケットに手を入れながら待っている五条さんの顔は、眉間に皺を寄せていて唇が尖っていた。その拗ねたような顔にのった感情を読み取った私は、振りかえそうと挙げた手を咄嗟に下ろす。
「ごめんごめん! 今行く!」
じゃあね、伊地知くん。そう小声でもう一度挨拶をしてくれた彼女に今度は間違うことなく軽く会釈だけ返した。彼女の奥の方から送られてくる刺々しい視線は、容易く私の心に影を落とす。
「(ただ挨拶を返そうとしただけじゃないか……)」
彼女が小走りで自分の元へ寄るのを見守っていた五条さんは、彼女が隣に来てすぐ歩みを再開した。二人が仲良く並んで歩いていく姿に、無視することができない胸の痛みを感じた私は、二人が校舎の中に入るところを見届けることなく二人とは反対方向へ歩き出した。
彼女を隠すかのように立ち塞がる姿。優しいと褒められて赤く染まる顔。喉が渇いた彼女を気遣う姿勢。――――私と彼女が会話をしようとする度に送られる、嫉妬のこもった目。この短時間だけでも、これだけの要素があれば答えはすぐに導き出せた。
「あの人が、五条先輩の好きな人かぁ……」
私が大失恋した瞬間である。
あれからというもの、五条さんと彼女が一緒にいる光景をよく見かけるようになった。授業や任務の隙間時間をつかって彼女に会いに行っているようで、その行動力に「熱心なことだね」と言ったのは誰だったか。今となっては忘れてしまったが、この時の言葉はよく覚えている。学生だけれど特級呪術師の五条先輩と、その呪術師をサポートする補助監督の彼女はとても忙しい。それでも会いにいっては一緒にいるのだから本当に熱心なことだ。当時の私もそう同じように思っていた。
二人が一緒にいる光景は私以外の人達ももちろん目にしていて、その人達が本人達のいないところで二人の話題に花を咲かせているところを私は何度も遭遇した。
『仲良いよねあの二人』『絶対両想いだよね』『いつも一緒にいるしもう付き合ってるでしょ』『やっぱそう思う?』
そんな話ばかりが何度も何度も私の耳に入ってきていた。
「(僕が知らないだけでもう付き合っているのかも)」
今日も今日とて、廊下を歩いていてふと窓の外を見たら、そこには五条さんと彼女が共に連れ立っていた。彼女の歩幅に合わせて五条さんはゆっくりと歩いている。そんな些細な気遣いや優しさを向けられるくらい、五条さんは彼女のことが大好きなのだとわかるのだ。
辛いなぁ、と内心独りごちる。五条さんに好きな人がいると知ってから、その好きな人のことを知った時から私の心はキリキリと引き攣れた痛みを感じている。そして同時に、昔から言われているあのジンクスは真実なのだと思った。
初恋は実らないのだ。