シリィ・カーニバル第1話02「レクト。動くな。騒ぐな。静かに、じっとしていろ」
「んぇ?」
カイの言葉で正面に向き直って、レクトもソレに気づいた。
白く大きな生き物がそこにいた。全体の輪郭はトカゲに似ているが、丸まっている全長はカイよりも大きい。流線型の頭部は薄っすらと白い毛に覆われているが、背に伸びるたてがみは若草色を帯びて、尻尾の先端では深緑になっている。背中は滑らかな白い鱗が空や霊菫の光を反射して色づいているが、腹部は鱗も毛もない白い皮が内の肉を透かして柔らかそうで、四つ足はサイズを無視すれば猫のようだった。毛皮に覆われ爪の引っ込んだ足の裏側に、珊瑚色のプニプニした肉球が並んでいる。
最も特徴的なのは、たてがみを挟むように頭部に生えた一対の角だった。背中に添って枝分かれして伸びた形は鹿の角に似ていたが、先端が丸みを帯びて印象が柔らかく、花を絡ませた様子は黄金色の樹木のようだ。
「きれいな子だね……」
瞼を伏せて鼻息を立てている。この生き物は眠っているのだ。起こさないように静かに立ち上がると、カイは何故か、青ざめて立ちすくんでいた。
「カイ? どうしたの?」
「退くぞ」
有無を言わさぬカイの雰囲気に、レクトは首を傾げた。危機感のない様子にカイが言い捨てる。
「そいつが起きたら、この辺り一帯塵になってもおかしくない」
「っ!!?」
カイの言葉に、レクトは瞠目して足元の白い生物を見下ろした。丸まって寝息を立てている様子は子犬を思わせるあどけなさで、とてもそんな物騒な生き物には見えない。
黄金色の角から若葉色のたてがみへ、たてがみから尾の先端へ視線をなぞらせたところで、レクトは迂闊にも見落としていたものに気づいた。
「カイっ。大変だ、アレ……」
いつになく真剣なレクトの声に、カイは視線をレクトの指差す尻尾に向けた。毛に隠れて先程は気づかなかったが、先端に近い場所に、黄色いリボンと細い白銀の鎖が巻かれている。
その鎖が緑の宝石を一粒飾ったネックレスだと気づき、カイの鳶色の眼が見開かれた。
「まさか、アレは」
「うん、間違いないよ」
重々しくレクトが頷く。
「老舗菓子店『きりあ・ぎか』の包装リボン! 海に隔てられた公国(コノラノス)西方にありながら菫橋(すみればし)で東方と繋がったことで貿易街として発展した街で生まれ、公国中に名を馳せた名菓子店! 四季折々の花をモチーフにした菓子は見た目のみならず味も絶品で、その味に惚れ込んだ東の職人が移住して専用の包装を手掛けるようになりそれがまた人気を加速させた、店主は龍王国の菓子職人だったのではと噂された伝説の!!」
「いや知らねぇよ」
一応声量は抑えていたが口早の蘊蓄に一歩引き、カイはそのまま更に後退した。
この生物の存在、その尾に巻かれたもの、ついでに西の菓子店のリボンが東方とはいえなぜ街道から外れた僻地にあるのか。気になることは諸々あるが、カイにとって命を賭けるほどの疑問ではない。
「初代店主が引退して、二代目が味を落とすどころか更にバリエーションを豊かにして、これから更に名が広まっていくはずだったのに、店があった街が壊滅してほんとに幻の味になった『きりあ・ぎか』ぁぁぁぁああ」
突っ伏して呻き始めたレクトを放って、木立の向こう側の草原に踵を踏み入れようとしたカイは、レクトの背後と目が合った。
「ッレクト!!」
「ぇっ」
顔を上げたレクトは、目の前にある緑がかった金色の瞳に目を奪われた。縦長の、蛇の瞳孔。宝石のような、宝石にしては大きすぎる艶やかな緑金の瞳に目を奪われている間に、白い生き物は口を開けていた。
口臭は火花の爆ぜるような匂いがした。暖かな吐息はこの生き物が確かに生きているのだと感じさせたが、不快感はなかった。
赤い口に並ぶ真珠のような牙に危機感を覚えたときには、もう身を引くには遅かった。
(食われる!!)
恐怖に負けて目をつむる。激痛を覚悟して身を縮めたが、待ち構えていた衝撃はいつまで経っても来なかった。袖を引かれる感触に目を開ける。
レクトの袖を柔らかく食んだ白い生き物が、くいくいと布を引っ張っていた。
キラキラ輝く瞳に察して、おそるおそるその頭に手をのばすと、ゴロゴロと猫のように喉を鳴らしてきた。請われるがまま両手をすべらせる。
ふさふさのたてがみは赤子の産毛のように手触りが良かった。角は日向を浴びているせいかほのかに温かく、金属ではなく生きている骨の感触がした。顔の毛はびろうどのようだが、滑らかな鱗はきめ細やかな蛇革のようだ。首筋に触れると、指の下に温かな血が通っているのが伝わってくる。
「カイっ。この子、すっごくいい子だよ!」
目を細める様子から紛れもない好意を感じ取って、レクトは意気揚々と背後にいるはずのカイに報告した。
カイは背を向けて、黙々と草原を歩いていた。
「カイぃいいいいいっ!!? ちょっとまって、置いてかないでっ」
「最寄りの神殿を探して応援を連れてくるから、それまでソイツとここにいろ」
にべもなく言い放ちカイは足を早めようとしたが、次の一歩を踏み出す前にレクトが追いついてきた。重い荷物を背負っているはずなのに如何なる理不尽か。
レクトの頭をつかんで引き剥がそうとするが、当然のごとく微動だにしない。
「待ってよカイ、僕たちもいっしょに行くよっ。この子おとなしいから絶対大丈夫だよ!」
「あんなモン連れて人里に行けるかっ。パニックになって軽はずみに攻撃してくるやつが出たらどうすんだっ」
「僕が守るよっ。だって、だって、僕そろそろ、美味しい料理食べたい!!」
「徹頭徹尾食い物のことばっかかテメェは! い・い・か・ら、う、せ、ろ! そもそもお前の寄り道がなきゃとっくに次の街に」
「人の格好したらいいの?」
涼やかな声に、ふたりの言い合いが止まった。聞き覚えのない、鈴を振るような少女の声に、顔を見合わせてふり返る。
木立から顔を覗かせた白い生き物が、草原に足を踏み入れると同時に、その姿は変わっていた。
草原を踏みしめる白い素足。寝巻きらしき薄衣を纏っただけの少女が、若草色の髪を撫でる。ひとりでにまとまった髪が黄色いリボンで結ばれ、少女の慎ましい胸元には緑の宝石を一粒あしらった簡素なネックレスが輝いていた。
少女が近づいてくる。ふっくらした頬、小さな鼻、瑞々しい唇が完璧なバランスで収まった、人形じみて欠点のない顔立ち。伏せられたまぶたは長く細やかな睫毛に彩られ、ピンクに色づくきめ細やかな肌が辛うじて生気を感じさせた。
ふたりの前にたどり着き、少女が顔を上げる。露わになった大粒の瞳は、人ならざる縦長の瞳孔の、緑がかった金色。
「お前……何なんだ?」
カイが呻く。少女がぱぁっと笑う。無邪気なその笑みを見ると、人形のような印象は消え失せた。美醜を超えてただ愛らしい、子どものような印象がそこにある。
「あたし、ラン!」
声を弾けさせた少女がふたりの手をつかみ、思いっきり上下に振った。
為す術もなくそれに付き合いながら、ふと自分が何を言うべきか気づき、レクトはしどろもどろに、それでもはっきりと、彼女の望む言葉を応えた。
「えぇえと、よろしく? ラン」
「よろしく! レクト、カイ!」
天真爛漫な少女の笑みに顔を引きつらせながら、カイは「よろしく」に自分も含まれているのを知り……
やっぱり見捨てておけばよかったと、遅ればせながらに後悔した。