シリィ・カーニバル第2話04「なんで僕ばっかりぃぃいいいい!!?」
押し流されていくレクトの悲鳴を聞き流しながら、展開した術式を起動する。
青白く輝く幾何学模様が宙を奔り、杯を貫こうとして、逆巻く泥の波に阻まれた。
(ッ!? この深度の術を防いだ? 魔物が?)
魔物は精霊法則に反しているため、霊的に極めて脆い。石ころ一つ動かせぬそよ風でも、それが巫術や法術で起こしたものなら、魔物には業火に等しいはずだ。ましてカイの術は一瞬で魔物を蒸発させる密度で練り上げている。
杯から起き上がった影は、雨風に晒された絵画に似ていた。ぼやけて滲んで、男か女かもわからないが、人の輪郭をしている。
魔物は往々にして人体からかけ離れた形になる。人格が揮発した強い未練の塊に、理性などないからだ。人の形に近い魔物を生み出せるのは、生前から霊力に馴染み、それを自在に操っていた魂。
(龍王国の神官か、騎士? 神殿が討伐隊を組むレベルだぞ)
舌打ちして四方八方から伸びてくる泥の手を青く輝く突風で消し去る。核である推定神官の魔物は動かないが、その防御を貫く術式を編みながら絶え間ない攻撃を防ぐのはカイにしても容易ではない。
「『定義する――掌は雲――雲に嵐――吹きすさぶは雨粒――雨粒に雷――波を渡り、海底を打つ――』」
普段は肉声での詠唱など意識を込める程度でしかやらないが、霊力で直接術式を編み上げる思考詠唱は迎撃で手一杯になっている。
錆びついた発音が乱れないよう注意しながら、泥の波が途切れた一瞬に、突風に見立てた指を突き出す。
「『鳴り響け』」
一点に集中させた力が、泥の手に触れた途端、青い波紋となって聖堂を満たした。広がる光は淡かったが、すべての防御を蹴散らすには十分だった。
手早く霊力を編み上げ、放つ。無言で、一瞬で、強力な術を放てるのがカイの強みだ。泥を根こそぎ消された影が新たな濁流を用意するより早く、カイの放った稲妻が杯に届く。
寸前で、跳躍したレクトにぶつかって掻き消された。
「レクト、お前……」
痛みに叫ぶこともなく、汚泥に着地したレクトの表情は静かなものだった。琥珀色の目は茫洋として、半開きの口はいつも以上に間抜けで、普段の騒がしいまでの意志が感じられない。
レクトがカイに向かって手を伸ばしてくる。泥の手たちと、同じように。
(操られてる……いや、死霊の念に当てられて、魔物と同調したのか!)
物理耐性が高いからといって遠慮なく囮にしすぎた。反省しつつ矢継ぎ早に稲妻を放つが、レクトは怯むこともなく正気に戻ることもなく距離を詰めてくる。動きは鈍い、が。
「くそっ」
掴みかかってきたレクトを躱して距離を取り、復活した他の泥を薙ぎ払う。レクトの動きは単調で、今のところ普段の理不尽な速さはない。だが、防御できない攻撃が一手増えただけでも厄介だった。
回避に動かないといけないせいで、肉声の詠唱をする余裕がない。泥の手が尽きる気配はなく、徐々に息が上がってきたのを自覚して、カイは歯ぎしりした。
レクトが邪魔で、横から伸びた泥の手を消し損ねた。返す手で焼き払ったが、壁際へ追い詰められ、カイはレクトの琥珀の目を睨みつけた。
「タリナイ」
レクトが声を発した。いつもの底抜けに陽気な声とは違う、声帯を引き絞るような、ひび割れたうめき声。
「贄ガ、タリナイ。私ダケデハ、聖下ニ託サレタ民ヲ守レナイ」
「そうか」
同情はするが、それだけだ。霊力を引き絞り、意識を集中させる。泥の手をすり抜け、邪魔なレクトを掻い潜り、杯に立つ影を貫く軌道を演算する。
レクトが腕を突き出しながら、すり足で寄ってくる。演算はまだ終わっていない。後少し……精査する時間はない。
的中していることを祈って、カイはレクトを指差した。青い炎が螺旋を描いてレクトの脇をすり抜ける。
そのまま杯に向かって炎が伸びて――
『祈りを捧げます――どうか、雨を、川を、いずれ雲となり、天へと至る、地を駆ける嵐を、ここに』
声が聞こえた。肉声ではなく、思念の声。この場を支配する死霊が紡ぐ祈りが。
その声は当然、精霊には届かない。だが、魂に染みつくまで訓練された力は、自力で望んだどおりの事象を起こした。
杯の影から放たれた濁流が、嵐となって炎を飲み込む。ちっぽけな炎はそれでも濁流を八割は消し飛ばしたが、残る二割がカイの脚を飲み込んだ。激痛が走る。
魔除けを刺繍された布地を貫いて、魔物の泥が皮膚に染み込んでくる。痛みに耐えて術を練ろうとするが、レクトがすぐそばまで来ている。間に合わない。
「じゃ~~~んぷっ」
覚悟を決めて殴りかかろうとした瞬間、脳天気なランの声が、カイを天井際まで跳ね飛ばした。