仕事先からの思いのほか早い帰宅が叶って、玄関の鍵を開けると、廊下の先、リビングの扉に設けられたガラススリットから、橙を薄めた色合いのあたたかな明かりが漏れ見えていた。
親類の家に身を寄せていた期間も長かったから、家に人の気配があるのにも慣れてはいる。それでも安らげる場に人が待ってくれている、ということには独特の高揚感があって、今日は確か午後のレッスンだけであったはずの相手のために、帰りがけに目についた土産のクッキーなどを買い求めたのだった。
『海藻の練り込まれたバターが使われている』という触れ込みに、味の想像はてんでつかなかったが、恋人はきっと目を輝かせて微笑んでくれるだろう。
と、紙袋を片手に扉を開けようとした先、ガラス越しにソファに腰掛けた長身の姿が見える。
密に織られたアイボリーのフィッシャーマンズセーターを着て、膝にも冷気よけの織物をかけてマグをローテーブルに置いた、寛ぎの姿勢で雑誌に目を落としている姿。間接照明に切長な目を潤ませて、頬をかすかに紅潮させているさまは、見ようによっては色恋の気配が漂うが、おそらく新たな深海生物の発見の記事でも読んでいるのだろう。
あまり行儀は良くないが、気づかれぬよう息を詰めるようにして、部屋の中の相手を見つめる。
自分と話しているときには、信頼を帯びた満面の笑みを浮かべながら雄弁に語るさまが好ましいのだが、いまは彫像のように凛とした顔立ちに見とれてしまう。
その見目だけに惚れた訳ではないが、長い髪を背に流しうつむく、まるで絵本の1ページのように調和のとれた絵面に、しばらく鑑賞したくなってしまった。
と、足元から忍び寄る廊下の冷気に、自宅で何をしているのだと我ながら苦笑してしまい、雨彦はリビングの扉に手をかけた。
ただいま。
「おかえりなさい……!」
そう口にしながら、どこか慌てたように立ち上がる相手に、雨彦はちょっとした異和を感じて問いかけた。
「お前さん、何を読んでたんだ?」
背に隠された雑誌の端が翻るのは、視界に捉えている。
ダイニングテーブルに鍵と紙袋、ポケットの財布を置きながらなんとはなしに問いかけた言葉に、しかし、一瞬返事に詰まった相手は慌てたように告げてくる。
「いえ、その、何でもないのです!」
「ほう」
隠し事なぞ珍しい。
上着を取り急ぎダイニングテーブルの椅子の背にかけて、ソファに歩み寄った。改めて腰を下ろそうとする痩身に身を寄せるようにして、その背に腕を回す。
「よっと」
「あ、雨彦……!」
取り上げるようにしたのは申し訳ないが、バランスを崩すようにその場に深く身を沈める相手に擦り寄るようにして、二人並んでも余裕あるソファに腰掛ける。
慌てる表情を視界に入れながら、しかし己の手にあるのは春の装いを纏ったモデルが微笑む、315プロの蔵書管理シールの付された女性誌の表紙である。
何も隠すような要素はないが。そう訝しむまま、折りぐせのついたページを開くと、それはアイドルの、――自分たちレジェンダーズの取り上げられたページだった。
そして、そこに特集として打たれていたのは、葛之葉雨彦、つまり己の演じたあれこれ、とりわけいわゆる『悪役』の姿で。
『ミステリアスなオトナが演じる、冷たい眼差しにキュン♡』などという、気恥ずかしい煽り文に思わず苦笑すると、それをどう取ったのか、横から焦るような声音が響いた。
「いえ、その、……私が知る雨彦は、いつも優しい表情を向けてくださるので」
横を見ると、何故だか抗弁しようとするかのように恋人が両のこぶしを握っている。
「何と申しますか」
そう、ギャップ萌えです!
高らかに宣言する声音に目を瞬いていると、しかしそれを意に介さず力強い声が続いていく。
「猫柳さんと華村さんにお教えいただいたのです。……いつも向けてくださる優しい目が、このように冷ややかな色を浮かべているのを見ると、……何故でしょう、どうにも鼓動が速くなってしまって」
あなたはとても魅力的なので。と、恥じらいながらも率直に告げてくる相手に、雨彦はしばし息を止めたあと、雑誌をローテーブルに戻した。
「雨彦?」
「古論」
琥珀の瞳を見据えて愛おしさに微笑んで見せたあと、一度目線を外す。
世間様に見せている顔は、圧倒的にこの雑誌に載っている役柄のイメージの方が多いのだ。こんな、我ながら惚けたような姿を見せている方が、よほど恥ずかしいのだが。
ふ、と息を吐いて、片腕を伸ばすまま、乱暴に相手の腰を抱いた。
「……今夜はこちらの方が、お好みかい?」
皮肉げな笑みを浮かべて。
引き寄せた眼差しの下で、みはられた蜜色の眼差しがとろりと熱を帯びるのを見定めながら、雨彦は相手を優しく支配するようにその唇を奪った。