【サンプル】幸せの息吹 早いと言われることは、予想していた。あんずも内心、まだ早いかも、と、そう思っていたから。ならばなおのこと、他人からそのように指摘されても、おかしくない出来事だったと思う。
「う〜ん。これじゃない……」
事務所の一角にあるデスクの前で、あんずは頭を悩ませていた。デスク上には複数の雑誌がところ狭しと並べられている。
それらの雑誌には共通点があった。表紙を飾っているモデルはみな、ウエディングドレスを着ていた。それぞれブーケを持ったり、踊るようにしたりしてポーズを決め、花びらのように幾重にも広がる純白に身を包みながら、幸せそうに笑っていた。
それはいわゆる結婚情報誌と呼ばれるものだった。さまざまな結婚式の形を紹介する誌面には、主役のひとりである花嫁のため、役立つ情報が載せられている。
あんずが情報誌を集め、記事を見比べているのには理由があった。結婚について考えているからではない。『プロデューサー』の仕事として、アイドルが関わる企画の案を提出しようとしているのだ。その証拠に、雑誌のいたるところから、誌面の華やかさとは逆をいく、事務的な付箋が顔を出していた。
「はぁ……」
情報を得れば発想が広がるかと期待していたが、なかなか上手く進まない。あんずの口から思わず長いため息がこぼれた。
たしかに、終わったばかりのブライダル企画をまた提出するのは気が早いかもしれない。来月に行うライブですら、調整が難航しているくらいだ。先のことを見過ぎていては、足元をすくわれかねない。しかも来年のこととなると、トレンドも変わってくるだろう。
けれどある程度骨格ができていれば、あとは肉付けするだけとなる。今年と同じように急ピッチで組み立てることはもう、許されなかった。あんずはこのブライダル企画を、定着させたいと考えていた。
しかし、プランは難航していた。あんずは椅子に座って腕を組み、天を仰いだ。この格好のままでいたならいつしか素晴らしいアイデアが湧いてくるのではないか。そう思ってじっとしていたけれど、そんな都合のいいことは起こらなかった。
半ば無意識に手にしたマグカップの中身はとっくに飲み干したあとで、三日月型にコーヒーの痕が残っている。あんずは底が見えただけのマグカップを持って立ち上がった。
「ふあぁ……」
事務所の隅で誰かが気の抜けたあくびをしている。とうに日は暮れてしまっていて、観葉植物は下を向いている。
作り置きのコーヒーもあと二杯分ほどしか残っていなかった。この際、全部飲み切ってしまおう。そんなふうに考えながらポットを覗き込んでいると、再びあくびをする声が聞こえたので、つられて出そうになるから必死で堪えた。せっかく気合を入れ直そうとしていたのに、水を差してくるのはいったい誰だ。あんずは腹を立てながらコーヒーを注ごうとポットを手に取った。
「まだ帰らないの?」
「わあっ!」
油断している時に声をかけられたら、誰だって驚くだろう。しかし、飛び上がるほど――というのはめったにお目にかかれない。あんずの見事なリアクションに、声の主はおもしろいものを見たと満足そうに笑っていた。
「ごめんね。なんだか思い詰めているようだったから、声をかけてみたんだけど」
「天祥院先輩! 残ってたんですか」
目をぱちぱちと瞬かせるあんずに近づくと、英智は彼女の顔を覗き込んだ。英智は背が高いから、小柄なあんずは真上を見るようにしなければ顔が見えなかった。
おまけにお互いの身体がくっつくほど近寄られている。あんずはやっとの思いで英智と目を合わせた。
「おや。恋人に存在を知られていなかったなんて。こんなに悲しいことはないよ。せっかく同じフロアにいるのに」
「す、すみません。いるだろうな、とは思ってましたけど……」
寂しさを表現する英智の声が降ってくる。大げさだな、とあんずは苦笑した。
「もう僕たち二人だけだよ。そのコーヒー、僕のカップにも淹れてくれないかな? 全部飲んでしまおう」
「あ、はい。どうぞ」
「ありがとう」
独占できなくてつまらない、という気持ちもなくはなかったけれど、それより時間を共有できたことを素直に喜んでいた。そうしてあんずは英智とコーヒーを分け合った。
そのまま雑談していると、ふと、あんずはあくびをした人物の正体に思い至った。事務所内に二人しかいないということはつまり、あれは英智のものということだ。急に恥ずかしさに襲われて、顔を赤くする。
「ふふ。どうしたんだい?」
つられてあくびをしかかったことを知ってか知らずか、英智はあんずのころころ変わる表情を見ながら微笑んでいた。
まるで涼しい顔をしているので、あんずは恨めしい気分になって英智を見上げた。ただでさえ難題にぶち当たって、悩んでいるというのに。
カップに口を付ける英智の、その王子様然とした風貌と、今年のシャッフル企画で用意した衣装を重ね合わせた。ふいに、彼の経験からヒントを得られるのではないかと閃いた。
「あの、先輩。今まで結婚式に出席したこと、何度かあるんでしたよね」
あんずは興味津々というふうに話を切り出した。それに対し、英智は渋い顔を見せる。返ってきたのも、厳しい答えだった。
「うん。パーティーだけの場合もあるけれど、式の初めから参列したこともあるよ。……ブライダル企画のリサーチかな?」
「はい」
「今、二度目の企画を通すのは難しいだろうね。そこをなんとかして、手腕を発揮するのが君の役割ではあるけれど」
今年のブライダル企画の評判は良く、関係者から資料提供や提案が舞い込むようになっていた。ファンからの要望もあった。
しかし、一度は実施した企画である。成功したとはいえ、裏を返せば目新しさに欠けると言われることも予想された。変化や進歩がなければ、クライアントを満足させることはできないだろう。
さらに、あんずは多忙な身である。そこに割く時間の余裕は、あるとは言えなかった。今も、ほかの仕事の合間にプランを練っているぐらいなのだから。
「それでも、聞かせてください。印象に残った演出とか、毎回注目していることとか」
けれどあんずは諦めず食い下がった。そこが彼女の長所だった。
その姿になるほど、と英智は呟き思案する。新郎新婦のお披露目の演出や構成などが、アイドルのステージに通じる部分があると思ったのだ。
「そういった観点で見たことがなかったから、参考になるかはわからないけれど」
とはいえ、思い出されるのは社交界の窮屈さと、子どもの頃に感じていた退屈さがほとんどである。形式ばった挨拶をするお偉方の顔が浮かんでうんざりした。
「どんなことでもいいんです」
「そうだね……」
首を傾げたまま答えずにいると、そのことに焦れたのかあんずは質問を変えた。
「楽しみなこととか。例えば、音楽とか」
「……あ」
「なんですか!?」
思いついたことを聞かせてほしい。あんずは英智に迫った。英智は前のめりな彼女にひるむことなく、耳元に唇を寄せて言葉を吹きかけた。
「誓いのキス、かな」
「………」
「お互いの気持ちを確かめる、絶好の演出だよね」
にこやかな表情のなんと楽しそうなことか。あんずはスッと身を引いて冷たい視線を送った。
ドルあんジューンブライドアンソロジー
「君と手をつないで」
2021年12月25日
星とあんずの幻想曲2
2022年1月9日
brilliant days 29(インテックス大阪)
上記イベントのほか、フロマージュさんでの通頒もあるそうです!
素敵なアンソロジーになっていますので、ぜひぜひよろしくお願いいたします。