(新刊サンプル)幼なじみのトッケン!?プロローグ 桜が舞い散る季節。あんずがこの夢ノ咲学院のプロデュース科に転校してきてから数週間が経過していた。
二年次からの新たな学生生活は波乱に満ちたもので、楽しいとか、充実しているとか、そうした青春じみたものを感じる前に、現実離れした環境に気持ちが浮ついて、地に足が着かないような心地だった。
そして今現在、実際に、あんずの二本の足は宙でぶらぶら揺れていた。地面に足が着いていないのである。
比喩で用いられる言葉を、目の前で起こっている様子を表すために使うのは適切ではないかもしれない。しかし、あんずの身体は事実、ひとりの男の手によって、軽々と持ち上げられていた。
遡ること数分前。
夢ノ咲学院には『校内アルバイト』という校内での活動資金を得る制度がある。あんずは何度かこの校内アルバイトに参加したことがあり、そこで顔見知りになるアイドル科の生徒もいる。だから転校してきたばかりのあんずにとって、ここは優れたバイト先となっているのだ。
その校内アルバイトで、今日はステージの設営を手伝う人を募集していたため、あんずは現場までやってきた。
到着したその時。こげ茶色の髪を外にはねさせた背の高い男が、顔を見るなりあんずに駆け寄った。そして正面から両脇に手を差し込み、上半身を挟み込むようにすると、身体を軽々と持ち上げたのだ。まるで赤子をあやすような掛け声とともに。
「あんずさんじゃあないか! 今日も会えるなんて、ママは嬉しいぞお。ほぉら、高い高ぁあい!」
突然の出来事にあんずは驚き、しかし悲鳴を上げる間もなく、ただされるがままになっていた。
実はこうして彼に抱え上げられるのは初めてのことではない。しかしだからといって慣れるものでもない。抱えあげられた瞬間こそふわっと浮いた心地がするが、そこから先は重力に従うのみ。上下に揺さぶられているから、乗り物酔いみたいになりそうで、もはや恐怖すら感じる。
「せ、せんぱ、下ろし……て――」
あんずが目を回していることにようやく気がついた男は、彼女をゆっくりと地面におろし、手を離した。
「おおっとすまない。あんずさんに会えたことが嬉しくて、つい、はしゃいでしまった」
あんずは青ざめた表情で男の顔を見上げる。男の名前は三毛縞斑。学院の三年生で、一つ年上の先輩にあたる。なおかつ、あんずの幼なじみ―らしい。らしいというのは、あんず自身にその覚えがないからである。なにか思い出せるきっかけはないかと、周りの人に聞いてみたりしたけれど、成果はない。
そんなあんずの様子を知ってか知らずか、斑は幼少期のエピソードをぺらぺらと話して披露する。あんずは、自分も覚えていないような話をされることが恥ずかしくてたまらなかった。
この学院のアイドル科は特殊で、男子生徒しか在籍していないうえ、普通科や音楽科とは校舎が違っている。あんずが転校してきたプロデュース科は、そんなアイドル科と校舎を同じくしている。男子生徒しかいないクラスの中にひとり、女子生徒として加わった形だ。
しかもあんずは転校して間もないため、まだ全生徒の名前を把握しきれていない。そんな場所で、もしも誰かに聞かれていたらと思うと、物心つく前の無知な行動を親に指摘されるのと同じくらい、とても恥ずかしい。もしそんな状況になったら、ここから逃げ出したくなりそうだ。
それ以上にあんずにとって不可解なことといえば、斑についての記憶がまるでないことである。最初は別の人と間違えているのではと思っていたが、面影があるというようなことを言ったり、あんずが好きなものを知っていたりと、どうも斑は昔のあんずのことを知っている様子なのだ。
覚えていないと――思い出せないと、はっきり言ったら斑はがっかりするのではないか。そんなふうに考えて、あんずは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
反対に斑は、あんずのそんな状態を察知しながらも、それについて文句を言ったことは一度もなかった。その代わり笑った顔がかわいいとか笑顔がいちばんとか、適当なことを言う。さらに続けて昔こんなことがあった、あんなことをした、と声を大にして昔話を披露しはじめるので、あんずはそれを止めに入る――というのが顔を合わせた時のお決まりのパターンになっていた。そんな幼いころの出来事を、よく覚えているなと思う。
だが幼なじみであることと斑の出会い頭の愛情表現は、直接的に関係はなかった。
先ほどまであんずが抱えられていたのは、斑が『ママ』を自称していることが関係していた。あんず以外にも、男子生徒相手に同じことをやっているのを見たことがある。名前が『みけじままだら』だから略して『ママ』と名乗っていて、だからそれらしく、母親っぽいことをしようとしているのだろう。どちらかというと力のある男性の仕事のような気もするが。
ともあれ、幼なじみだとかママだとか、さまざまな付随する情報はあったとしても、あんずにとっては学院の先輩であり、アイドルのひとりであることに違いはなかった。そんな彼がなぜステージの設営現場にいるのか。『校内アルバイト』に参加するアイドルも、裏方作業をするアイドルも、いないわけではないだろうけれど。
「三毛縞先輩、なんで」
ここにいるんですか、とあんずが最後まで言い切る前に、斑が食い気味に返事をした。勢いというよりもはや圧力を感じるほどだ。
「あんずさんと同じく『校内アルバイト』だぞお。力仕事は得意だからなあ」
「え? でもそれってちがったんじゃ……」
あんずは斑に最初に会った時のことを思い出して首を傾げた。あの時は終わってから判明したのだが、設営を手伝っていた斑は実は正式なアルバイトの身分ではなく、ただ乱入してきただけだった。その時のことを引き合いに出された斑は、慌てるでもなく両手を腰にあてながら説明をした。
「たしかにあの時は生徒会に追われていて、身を隠すために設営現場に紛れたんだが、今日はきちんと形式に則って『校内アルバイト』に参加しているぞお」
斑は生徒会に追いかけられるくらい、学内では問題児扱いされている。曰く、たいていの校則違反はしているとか。
だが当時の設営の仕事はしっかりしたもので、そのおかげか早く終わって助かった面もあった。だからあんずは、斑の言うことを訝しみながらも、その頼もしさを純粋に喜んだ。
「じゃあ、またわからないことあったら教えてください」
「そんなに遠慮しない! 俺とあんずさんの仲だろうっ?」
「はぁ……」
斑のアピールに、あんずはいまだに戸惑うばかりだ。引っかかるのだ。幼なじみと言うだけでどうして親切にしてくれるのかと。
『DDD』や、桜フェス、それにサーカスステージと、次々に新しいライブの準備に追われていたから、記憶にない幼なじみについて悩んだ時があったことすら、忘れかけていたけれど。
こうして行く先で出会う機会が増えるのなら、頭を悩ませる日々がまたはじまるのかと、あんずは不安に襲われる。
そもそも幼なじみって、そんなに特別な関係なんだろうかと、あんずは不思議に思う。
その疑問に答える者が現れるとも知らずに、あんずは斑とともに設営作業に勤しむのだった。
真緒と凛月の場合 梅雨の季節の、貴重な晴れの日。湿度のある空気が、セミロングに伸ばした髪を少し重たく感じさせる。折り畳み傘を入れたカバンを肩に掛けて、あんずは通学路を歩いていた。
校門に続く道で真緒と顔を合わせたので、あんずは朝の挨拶を交わした。
「おはよう衣更くん」
「おい~っす。おはよう転校生」
真緒は同じ二年生だが、あんずとはクラスが違っている。くわえて生徒会の書記をしているせいか、生徒会室で会う印象が強い。こうしてこの時間に校門前で会うのは珍しく、あんずは不思議に思っていたが、横に並んでわかった。同じく同級生の凛月を背負っているのだ。
真緒と凛月は家が近所同士で、朝が弱い凛月の世話をよく焼いているのだと、そういう話を真緒から最近聞いたばかりだった。その話をした時、真緒のおしめを変えたと主張する凛月と、反対の立場だっただろと訂正する真緒の姿をよく覚えている。
あんずは遠慮がちに、けれど世間話を装いながら訊ねた。
「二人は幼なじみ、なんだよね?」
『幼なじみ』の部分を強調して言うあんずに、真緒は不意を突かれたようでぎょっとした表情をする。だが突然の質問に驚いただけのようで、真緒は回答を拒まず、きちんとあんずに応えた。
「ああ……漫画に出てくるようなエピソードはないけど、小さいころから一緒だな。今も、朝起きたら同じ場所に行くだろ? だからこうやって迎えに行く程度には、何かと気になっちゃうんだよな」
「仲がいいんだね」
「腐れ縁ってやつだよ」
「こないだも言ってたよね。腐れ縁って」
そう返事をするなりあんずは思考に耽った。
(三毛縞先輩がわたしの世話を見たがるのは、近所の子の面倒を見る、みたいなことなのかも)
そんなあんずを真緒は心配そうな目で見ていた。
「どうしたんだ、急に?」
「え、ええと。ううん、なんでもない。大丈夫。答えてくれてありがとう」
「お、おう……?」
真緒は不思議そうに首を傾げているが、あんずはその様子に気づかないまま、真剣に思案する。
(迎えに行く……かぁ。たしかこの間、登校日数がすでに危ないって職員室に呼ばれて言われていたような)
登校時間なら、近くにいるかもしれないし――突如閃いたあんずは、すぐさま実行に出る。
「ありがとう衣更くん。わたし、ちょっと寄り道してから行くね」
「え、今からか? って、しかも校門の前を通り過ぎた! だ、大丈夫か転校生!?」
「遅刻しないようにするから!」
そう言い残してあんずは去って行った。真緒は凛月を背負っているので走って追いかけることもできず、ただ茫然とあんずの背中を見送っていた。
あんずが思いついた計画は、斑を見つけて、一緒に登校するという、ただそれだけのものだった。時間的にも、今からでもできるだろうと踏んでいた。しかし、ことは単純には運ばない。
あんずは今いるこの道で、斑を見かけたことがあった。その記憶を頼りに――それだけを手掛かりにしてやって来た。それがどれほど無謀なことか、あんずは今まさに痛感している。
いつもの時間帯に、いつもと違う道を通るだけで、迷子になった気分になる。そして弱気になったあんずは、そもそもの間違いに気がついた。
「三毛縞先輩の家、どこにあるっていうのよ……!」
あんずは斑の家の場所を知らなかった。
そして、あんずの家の近所で聞いたことのある苗字でもなかった。だから、『近所に住んでいるから、待ち合わせて一緒に登校する』というエピソードは実現不可能なのだ。
あんずは思わずため息を吐いた。スマホで時間を確認すると、ホームルームの時刻が迫っていた。引き返そう。この案はよくなかった。あんずは来た道を急いで戻った。
冷静に考えればわかることを、と思い、気落ちしているあんずの横を、一台のバイクが後ろから追い越した。乗っている人間の風貌に見覚えがあった。何よりその上着やズボンの柄があんずの来ている制服と同じものだった。
(学院の制服? バイク通学できたっけ?)
たしか生徒手帳にバイク通学は禁止とあったような。そんなことを思い返しているうちに、バイクが減速し、少し先で停車した。もしかして、と、あんずの身体に緊張が走る。恐る恐る、ヘルメットを取った人物の顔を確認すると、斑があんずを振り返って見ていた。
「おはようございまあああす! 奇遇だなあ、こんなところであんずさんに会えるなんて。でも、もうすぐ授業が始まるんじゃないかあ。どうしたどうした、迷子かあ?」
「え、えっ、と……」
さきほどまでの『一緒に登校する』という意気込みはどこへ行ってしまったのか。斑のもとに走り寄りつつ、急に気恥ずかしくなったあんずは、迎えに来ましたと言えなかった。この状況では、斑だってそう言われてもきっとなんのことかわからないだろう。
とはいえ、正真正銘の迷子というわけでもないから、あんずは返答に困った。すると斑が優しくあんずの頭部に手を置いた。
「もしかして迎えに来てくれたのかあ?」
どうして、とあんずは戸惑った。読心術でも会得しているのか。あんずは返事もできずコクコクと首を縦に振ることしかできない。
「そうかあ。あいにく、君の分のヘルメットがないんだが……うん。バイクは押して行くとしよう。あんずさんと一緒に登校するのも学生らしくていいなあ。とはいえ、急がないと間に合わないから、少し早く歩くぞお。ついてこれるかあ?」
斑があまりに嬉しそうに笑う。眩しいくらいの笑顔だ。それを受けたあんずも、思わずにっこりと微笑んで返事をする。
「は、はいっ」
計画と違うけれど、むしろ迎えに行くどころか迎えに来てもらった感じだし、面倒も見てもらってしまっているけれど。
にこにことしている斑の様子に、今日のところはこの辺にしておいてやる、と、退散する悪役みたいな捨て台詞を思い浮かべ、隣を歩く斑を睨みつけるあんずなのであった。
英智と敬人の場合 あんずは書類を抱きかかえるようにして生徒会室の前にいた。大事な、肝心な提出物であることを示すように、真剣な表情で目の前の扉を見据える。
「失礼します」
扉を叩いて、いざ生徒会室の敷地に踏み込んだ。すると、開けた扉のすぐ近くで、生徒会長と副会長が言い争っていた。
「いいか英智。無茶をするんじゃない。また入院でもしたらどうするつもりだ」
「このくらい平気さ。それに、もし僕が倒れても、僕の夢は果たされる。そのための布石は打っておかないと」
「だからといって、真夏に遊園地に行く必要はないだろう」
二人のやりとりにあんずは目をぱちくりとさせた。生徒会長の体調がよくないことはあんずも知っていたが、敬人の心配はいささか過保護のようにも思えた。
『喧嘩祭』を終えてから、こういう場面によく出くわすようになった。あのライブが影響を与えていたのなら、開催した意味があった。とはいえ、この騒ぎに巻き込まれたくはない。あんずはふたりの横を通り過ぎ、そそくさと書類を机に提出すると、すぐに回れ右して、静かに退室しようとした。
「失礼しました……」
「待てあんず。用件を聞こう」
「ひっ」
急に名前で呼び止められたので、あんずは驚いて声を上げた。振り向いて敬人の方に顔を向けると、敬人はズレたメガネの位置を指で正していた。気を取り直そうとしているのだろう。
「しょ、書類を提出しに来ただけなので……あとで確認してもらえればそれで……あっ」
あんずは急に小さく叫ぶと身を縮こまらせた。その視線の先で、英智が書類を手に取って読んでいたからだ。
「ふむ……うん、いいね。敬人もご覧。以前に比べて成長が見られる部分があるよ」
「なに? 見せてみろ。なるほど、これは……。しかし、予算を少なく見積もりすぎではないのか?」
「そうかい? 何事にも謙虚なあんずちゃんらしくていいと思うけど。それより僕はどちらかというとアイドルへの負担が大きくなりそうな方が気にかかるかな。いずれにせよ、期日は迫っているから、予算の方は敬人の方でフォローしてもらうとして……」
さきほどまで言い争っていたのが信じられないほど、会話が円滑だ。事務的なムードは残りながらも、建設的な意見を言い合っている。これは、俗に言う。
「喧嘩するほど仲がいい?」
「ん? 何か言ったかい。あんずちゃん」
聞こえてしまっていたのか。あんずは英智の笑顔に恐ろしさを感じた。
「はっ。いえ、ひとりごとです。失礼しました。修正して、最終日までに持ってきます」
ぺこぺことお辞儀をしてから、あんずは逃げるように生徒会室を出ていった。
窓から見える空には入道雲が浮かんでいる。夕立でもしそうな気配だ。
廊下を歩きながら、あんずは息を長く吐いた。緊張で呼吸が浅くなっていたのだろう。吐いた分だけ、また息を吸った。
ふと、あんずは英智と敬人のふたりが幼なじみということを思い出した。言い争っている時も、相手が何を言おうとしているかを、お互いがわかりあっているような印象を受けた。いっしょにいた時間が長いからこそできる喧嘩なのだろう。
(幼いころからずっといっしょにいるのって、どんな感覚なのかな……?)
あんずは自分のクラスに向かう階段の踊り場まで来たところで不意に立ち止まった。あんずの幼なじみといえば斑だが、学院に転校してからの再会なうえ、あんずの記憶ははじめましてと変わらないレベルだ。もしずっといっしょにいたのならどんな風になるのかと、興味が湧いた。
(あんな変な人、近くにいたら忘れないと思うんだけど)
けれど生徒会室に戻って意見を聞く勇気はなかった。突拍子もない問いであるのももちろんだが、わだかまりは解けているとはいえ、心のどこかで生徒会をおそれる気持ちがあんずの中に残っていた。
(もしわたしと三毛縞先輩が喧嘩したらどうなるんだろう)
自分に置き換えて考えてみて、初めてあんずは斑のことをほとんど知らないことに気がついた。
夏の初めのことだ。
三毛縞斑とはどんな人物なのかと、学院内で訊いて回ったことがあった。けれど集まった情報はあんずが目の当たりにして実感してきたことと変わりないもので、噂と違いないということは、それはそれで凄い事なのだけれど、斑の言動の根本を、知ることはできなかった。
きっと喧嘩のために必要なのはそうしたステータスではない。喧嘩できるほど、斑のことを理解していないのだとあんずはひしひしと感じていた。
喧嘩がしたいわけではない。けれど『知らない』ということが引っかかる。あんずの胸の内に、申し訳なさが募っていった。
あんずは夏休み期間中に、斑に家まで送ってもらったことがある。
その時に、くまのぬいぐるみについての話をした。斑が話す昔話について、あんずの記憶は相変わらず抜け落ちたままだった。けれど幼いころの性格からいって、ドジをして泣きわめくといった言動をすることはありえるので、事実なのだろうと思う。多少、話が盛られている可能性はあるけれど。
(三毛縞先輩って、どんな子どもだったんだろう。わたしは三毛縞先輩のことを、知らなさすぎる)
いつかわかるのだろうか。幼いころを知るすべを持たないあんずは、漠然と寂しさを感じていた。
ぽつぽつと、窓を叩く音がする。予想通り、雨が降ってきた。
教室に戻ろうと、階段を降りはじめる。この校舎は増築を重ねているせいか、移動に苦労する。転校してきてからずいぶん経つように思うけれど、あんずはいまだに慣れないでいる。
突如、地響きがはじまった。自然現象からくるものではない。その元凶についてはわかっている。あんずは階段の中腹で足を止めて身構えた。現れたのは斑だった。
「おおっ! そこにいるのはあんずさん! 元気にあいさつをしよう! でも、おはようという時間でもないなあ……だったら代わりにハグをしよう!」
耳をつんざくような大声で話しかけたかと思えば、両腕を広げながら突進してくる斑に、あんずは懐からハリセンを出して応戦した。
「三毛縞先輩! 階段を走って上るのはやめてください。ぶつかったら危ないので!」
そう言ってパシン! と一撃必中。教師でも風紀委員でもないのにどうしてこんなことを言わなくちゃいけないんだ。
「うん。次から気をつけよう。ぶつかった相手が怪我をしたらいけないもんなあ」
動きを止めた斑は、頭の後ろに手を当てて猫背になる。すると途端に小さく見えるから不思議だ。
(小さい頃の三毛縞先輩も、遊んではしゃぐけど素直に謝る子だったのかな)
積極的に周りの子に声をかけるのが目に浮かぶ。それもひとりぼっちで遊んでいる子たちを集めるようにして。ふと、あんずは子どもの姿の斑を連想して、己の性癖が刺激されるのを感じた。
(弟にしては大きすぎるけど……)
「おーい? あんずさん。どうしたあ? ぼうっとして。もしかして、疲れているのかなあ」
「……はっ。なんでもありません! 何食べたらこんなに大きくなれるのかなって!」
無意識に、斑のことをじいっと見つめていたらしい。あんずはつい思ったことを口にしていた。
「俺に興味を持ってくれて嬉しい! とくに好き嫌いはないが、俺が握ったおむすびはでかすぎると不評だから、単純に食べる量が多いんだろうなあ」
「ありがとうございます。わたしもたくさん食べて大きくなります!」
自分でも何を言っているかわからない。あんずは階段を降りていった。
「走って上っちゃだめだけど、走って降りるのもダメだぞお」
あんずの背中にかけられる斑の声には、戸惑いと心配の色がにじんでいた。
出発点 あんずは己の失敗をひしひしと感じていた。
EveとTrickstarのライブを、見ているしかできなかったことを。
ライブが終わってから、失態に気づいたのだ。
期待や信頼は、もう得られないかもしれない。
でも、できるだけ取り返そうと、張り切っていた。
ステージの上で、やれるだけのことをやっていたアイドルと同じように。彼らが一番だと証明するために。もうみじめな気持ちにならないように。
『幼なじみ』ってどんなものだろうとか、幼いころの斑を思い出せないといった問題は、あんずの中ですっかり二の次になっていた。
そんな夏の終わり。
「あんずさあああん!」
あんずは斑に追いかけまわされていた。
グラウンドの向こうから声をかけられたかと思うと、斑が遠くから走ってくる。それに気づくとあんずはとっさに逃げ出した。行った先で見つけた木に登って隠れ、やり過ごそうとしたけれど、さすが陸上部の部長をしているだけあって、あっという間に追い詰められてしまう。
木の周りをぐるぐる回るふたりを見ている周囲の人間たちは、またやってるな、という呆れた表情をするだけで、助ける気配はなかった。
「どうして追いかけてくるんですか!」
タッチして捕まえられ、観念したあんずは立ち止まる。彼女の抗議に、斑は平然として答えた。
「逃げるからだぞお。それよりこの程度の距離を走っただけで息が上がるなんて、少し運動不足なんじゃあないか? そうだ、ママと一緒に走った後のストレッチをしよう!」
さらに妙な提案までしてくる始末で、あんずは斑を避けるように後ずさりする。
「け、結構です……」
「そう言わずに! ほら、いっち、にー、さんっ、し!」
その勢いに気圧され気味のあんずに構わず、斑は屈伸を始める。本気でストレッチをはじめるらしい。斑が身体を動かしている隙に、あんずは再びぴゅうと逃げ出した。
「本当に結構ですからー!」
「遠慮しなくていいのになあ」
斑は苦笑して、残念そうに独り言ちる。その内側で何を思っているかは、悟らせないようにしながら。
「はぁ、はぁ……やっと撒いた……」
あんずは校舎の影に入り、斑が追いかけてこないことを確認すると、その場にしゃがみこんだ。全力で走ったせいか、先ほどよりさらに息があがっていて、疲れがどっと襲い掛かってくる。
どうしてそこまでしてくれるのか。あんずは斑に対して得体のしれないおそろしさを感じることがあった。
よかれと思ってやっているのかもしれないが、完全に余計なお世話である。まあ、そのあたりは彼が自称する『ママ』らしいけれど。
あんずは斑に対して、幼少期のことを思い出せない以外にも、後ろめたい気持ちが生まれていることを薄々自覚しはじめていた。
あんずは『普通の女の子』を自分から取り払おうとしていた。いまはとにかく、プロデュース科唯一の生徒として、やるべきことをやらないと、と思っていた。自分のことは、それこそ二の次三の次である。
だからこそ、こわい。
過去を知られていることは、昔の性格を知られているわけで、それが近い将来暴かれて、晒されるんじゃないか。言葉ではなく、自分自身が、同じように動いてしまうんじゃないか。それを見透かされているような気がしていた。
あんずはスカートを手繰り寄せて縮こまる。
「わたしって、なんだろう?」
あの人にとって、何者なんだろう。
そしていったい、自分自身が何になりたいのか、自問するけれど、答えをはっきり示せない自分の心に、あんずは焦りを感じていた。
斑と奏汰の場合 慣れない化粧をして隠そうだなんて、この人の前では無意味な行為だったと、あんずは後悔した。
あんずは今、薫に手を引かれて水族館を歩いている。
人の歩く道がトンネル状にくり抜かれた水槽の中で魚たちが泳いでいる。上を見ても横を見ても、一帯が青色に満ちていて幻想的かつロマンチックな雰囲気を醸し出している。
にもかかわらず、薫とあんずはお互いうまくいっていなかった。
あんずが化粧をした理由は涙の痕や目の下のクマを隠すためだ。薫といっしょに出歩くからと、それにふさわしい自分を演出する、などといった色気のある答えは望むべくもない。
そうして、理由が理由なだけに、それを薫に言い当てられたらたまったものではなかった。
さらにはこの直前、急に開催が決まったライブの準備をしている時に足を滑らせプールに落ちた。売店で買ったシャツに着替えたけれど、そのセンスも子どもみたいだと言われてしまい、とにかく今日のあんずは、良いところがなかった。
歩きながら、薫があんずに声をかけた。薫も、あんずの前ではうまく立ち回れないことを焦っている様子だ。
「三毛縞くんと奏汰くんは幼なじみなんだってね。あんずちゃん知ってた?」
唐突な質問だったのであんずは首を傾げた。なぜここで斑の話題が出るのか。その表情を見て薫は苦笑しながら話を続けた。
「あ、その様子だと知らないんだ。ふーん、不思議だね。昔三人で遊んだりしてたのかなぁ、って想像してちょっとうらやましく思ってたけど、違うのか……」
「はい、すみません……」
「はは、なんで。謝る必要ないのに。むしろ予想が外れてほっとしてる俺の方が謝らないと」
「………」
奏汰が斑の幼なじみであることはあんずも知っていた。あんずは二人とも記憶にないから、とっさに詫びの言葉が出てしまったのだけど。薫に謝っても意味はなかったと反省する。
斑とあんず、斑と奏汰は別々の場所や時間で会っているのだろう。
不快に感じさせたと思ったのか、薫はさらに言葉を続ける。
「ほら、知ってる人の話をすると落ち着くとかあるでしょ。昔話でもしたら気分が変わるかなと思ったけど、どうやら逆効果だったみたい」
「……え?」
あんずが顔を上げた。見上げたところにある薫の目は寂しそうに細められていた。
ふたりがもといたイルカショーのステージに戻ると、途端に薫は、どこから現れたのか零と渉に連れられて行ってしまった。急いで衣装に着替えるのだという。衣裳は近くで公演中の劇団から、渉が借りてきたものらしい。
ライブに出る奏汰と颯馬、それから斑はすでに着替えを済ませているようだ。あんずは三人を見てすぐに、それぞれサイズが合っていないところがあることに気がついた。パフォーマンスに影響が出ないように、微調整する必要がある。あんずは意気揚々とカバンから裁縫道具を取り出すと、まずは奏汰のところへと赴いた。
「深海先輩、動いてみて突っ張るところがあったら教えてください。あ、ここ詰めたほうが良さそうですね。ちょっと触るので、じっとしててください。針が刺さると危ないので」
「あんずさんは『はたらきもの』ですね。『だいじょうぶ』ですか?」
「はい、がんばります!」
会話がかみ合っていないことにも気づかないくらい、あんずは衣装の仕事に熱中していた。
そこへ斑が割って入ってきた。奏汰に用事があるらしい。
「奏汰さん。大丈夫だからなあ。打てる手はすべて打っておいたぞお」
「おおきな『おせわ』ですよ、まま」
「君のためにみんな手助けしたいって思ってるってことだ」
「はぁ、ふしぎです……」
二人の会話を聞く限り、心配している斑を、奏汰が煙たがっているようにあんずは感じた。
(普段は穏やかな深海先輩も、三毛縞先輩相手には態度が冷たい――むしろ見たことないくらい不機嫌……)
そのやりとりが、親密さを感じさせた。
あんずは、先日の斑と自身とのやりとりを重ねて見た。追いかけられてとっさに逃げるのだが、かえってしつこく追いかけまわされる。いつしかそれが当然のようになっていた。そして、いつからか、きっと来てくれると思うようになっている。それこそ、何があっても見守ってくれる母親のように、絶対的な何かのように。
なるほど、昔からああいうお節介な人だったのかも。そう思った瞬間、あんずはなぜか胸がキュッと締め付けられるのを感じた。
(どうして、覚えていないのかな)
寂しさにも似た、不思議な感覚。あんずは手を止めて、無意識に斑を見ていた。この気持ちはおそらく、気づいてはいけない。これ以上、近づいてはいけないものだ、と、体内に警鐘が鳴り響く。
「熱心に見てどうしたんだあ? まだどこか衣装に気になるところでも?」
「い、いえ。気になるところがないことを確認していました!」
斑に話しかけられて、我に返ったあんずは妙な言い訳をすると、そそくさと斑に背を向け、次は颯馬のところへ向かった。
その間、薫の言葉を思い出していた。
――昔三人で遊んでたりしたのかなぁ、って想像してちょっとうらやましく思ってたけど……
(うらやましい、なんて。いったい何を考えているんだ、わたし)
胸に宿る痛み。その感覚がどんな感情から生まれるものなのか、あんずは知る由もなかった。
分岐点 あんずは星望病院の病棟で、途方に暮れていた。
学院で意識を失い病院に搬送されたことを、伝えられた。過労だという。そして微熱があるからと、念のため何日か入院することになった。
せっかく休めるのだから、今のうちにきちんと休むようにと、お見舞いに来る生徒から口々に言われる。しかし時間があると、かえって焦りが生まれるものだ。
年末の『SS』まで、残り時間は短い。TrickstarがEdenに勝つために、準備をすることがまだまだたくさんあるというのに。
居ても立っても居られなかったあんずは、病室から脱走した。見舞いにきた千秋が、なぜか子守歌を歌いながら自分で寝てしまったのでどうしようかと思ったけれど、そのまま寝かせておくことにして、そっとベッドから抜け出した。
そして今、あんずは談話室にいた。入院患者と見舞いに来た人がいっしょに食事をしたりできるスペースだ。内装が落ち着いた色を基調にしており、観葉植物のレプリカなどが置いてある。
とはいえ、病院というのは慣れない。早くここから出て帰りたい、という気持ちを起こさせる何かがある。
出入り口を目指してあんずはこそこそと歩いていた。すると、病室に残してきたはずの千秋の声が聞こえた。目が覚めて、あんずがいなくなっていることに気づいたのだろう。あんずを捜すその声は必死だった。
「あんず! あんずはどこだ~っ、返事をしてくれ!」
その声に、あんずは思わずその場にあった椅子の陰に隠れるようにしてしゃがみこんだ。
「だ、脱走!? えぇっ、どういうことでござるか!?」
忍と斑が騒ぎを聞きつけ千秋のもとへと駆けつける。千秋が経緯を説明すると、斑が指揮を執る形であんずの捜索が始まった。
「ともあれ、俺たちもあんずさんを捜そう」
千秋は入り口付近、斑は非常口付近へ行くという。残る忍は、近辺を見て回るらしい。
あんずが意識を失う直前、最後に記憶していたのは掲示板にポスターを張る忍の背中だった。その前には斑とも朝の挨拶を交わしたように思う。
自分のことを必死になって探してくれる人がいることを、あんずは知らなかった。この場にいなければ、知らないまま、ただじっとしているのが我慢できなくて本当に病院から抜け出すところだった。
(心配ばかりかけて、ごめんなさい。このまま病室に戻ろう)
あんずはこっそりUターンした。
「あっ! あんず殿でござる~!」
するとその動きで察知されたのか、忍に見つかってしまった。あんずは言い訳を述べてから、それでも素直に謝った。
「脱走はよくなかった。ごめんね、これから病室に戻ろうと思う」
「拙者と一緒に病室に戻ってくれるでござるな? 一安心でござる♪」
そうして忍に連れられ、あんずはしばしベッドの上で時間を過ごすことになった。
ほどなくして、あんずの病室は個室へと変更になった。
そして当の本人は病院のベッドの上で裁縫道具を広げて、手を動かしていた。
別に、じっとしていたら死ぬ生き物ってわけではないけれど、生きている心地がしない性分ではあるとあんずは自分でも感じていた。
病室を抜け出して以来、すっかり医者と看護師に要注意人物としてマークされたらしかった。一人部屋を用意される程度にはVIPな人物であることも注目される理由になるだろう。正確には、高貴な方々と親しい間柄であるだけで、あんず自身は庶民なのだが。
ともあれ、抜け出したことを反省しながら、あんずは気分転換になるからと懇願して、裁縫道具とその材料を手に入れたのだった。
ひっきりなしに見舞いに来る生徒たちの人数を考えると、個室にして正解だったかもしれない。これでは他の入院患者に、迷惑がかかるだろう。部屋を移動してから、夏目や薫も顔を出した。
君のために、みんなが来てくれている。それはなぜか考えるようにと、ふたりに宿題を課せられた。あんずは手を動かすことで集中し、ストレスを発散する。そうすることで、宿題に答えるための心の準備を整えていた。
翌日は快晴だった。ようやく訪れた退院の日。しかしあんずの表情は暗かった。
ボストンバッグに着替えなどの荷物を詰めていると、個室をノックする音がする。
「どうぞ」
あんずの返事を受けて、扉が開いた。入ってきたのは夏目だった。
「子猫ちゃん、Good Afternoon……♪」
(後略)
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『幼なじみのトッケン!?』
小説 特殊紙表紙+空押し加工 84ページ 文庫本
イベント頒布価格500円
頒布スペース 1月7日インテ 2号館つ43b【米の丘】
BOOTH https://ainouta.booth.pm/
よろしくお願いします!