怖い話(Twitter分岐で連載なう)産屋敷家には■■が棲んでいる。
まことしやかに語られる噂は、その広大な敷地内にある自然に紛れた何かのせいである。動物とも人間ともつかない■■がいるという。
ただの■■■■ですよ。
屋敷の主はいつもそう語る。果たして■■■■とは。
その秘密は、誰も知らない。
「兄が、怪異に囚われているんです」
自分が相対した相手は、屋敷の前当主。齢百と十を超えた産屋敷家の老爺・輝利哉は、当代としての役目を息子に譲り、悠々自適に隠居をしていた。最高齢としてテレビに出演してみたり、なにかの相談に乗ってみたり、日がな一日日光浴をしてみたり。ただ、屋敷内の知識について、この翁に及ぶものは居ない。ゆえに、自分は彼にこの話をもちかけた。
「兄さんが、へんなものに」
「……へんなもの」
ほのかに残った自らの歯で、ふわふわと発音された、ようやく形を保っている日本語。ほわりとしたそれを聞き取って、カナヲは頷いた。
此処は産屋敷本家。文化人を囲うという酔狂極まりない一族のまさに中枢にて、茶の湯に通じる胡蝶の家からぽろりと零れたカナヲは、栗花落の家に養子に出ていた。旧姓・胡蝶。新姓栗花落カナヲ。
目の前の老人をじ、と見つめて呼吸を一つ。兄・胡蝶しのぶの姿を脳裏に浮かべて話を進める。
「私の、兄さん……胡蝶しのぶ、と」
「しのぶかい、知っているよ」
「はい。兄さんが、実は。ええと……」
◆◆◆
ある、梅雨の日のことである。夕飯刻、カナヲは次兄のしのぶを呼びに行った。栗花落の家へ養子に行くとは形ばかりのことで、胡蝶の家と栗花落の家は、産屋敷の長屋において、隣家であった。つまり、カナヲはいつもと変わらず隣の胡蝶家にて夕飯を食べ、しのぶとカナエはいつもと変わらず隣の栗花落家にて朝食を食べ、平穏な一日を過ごしている。栗花落の両親は夕刻に居らず、胡蝶の両親は朝刻に居らず。子供たちはそれらを行ったり来たりしていた。
さて、胡蝶の家にて夕飯を知らされたカナヲは、それを次兄に伝えるために家を出た。確か、兄は大池の茶室の方へと向かっていったはずだ。最近はそこで過ごすことが多いような気がする。などと考えながら歩を進める。
きし、きし。
小さく廊下がきしむ。
産屋敷の敷地は広い。戦後の動乱に混ざって、都内の一等地を買い集め、大きな邸宅にしたという。主要な駅からは少し外れているが、ごみごみとした同級生の住宅地よりは断然広く、使い勝手はよいとカナヲは信じている。
ぐるりと大きく回り込んで、邸宅の隅にその部屋はある。多くの客を招く茶会を催すためだけの部屋。その部屋に、最近次兄が入り浸っている。なぜ入り浸っているのか。どうしてあの部屋なのか。カナヲは何も知らない。ただの純朴な男子中学生である。
さ、
雨が降った。廊下の屋根を雨粒が叩く。ざらざらと緑が揺れる。窓越しに見る青々とした柏の葉から、ぽたりと雫が垂れている。
雫の向こうに、僕は日常を視た。
――次兄、胡蝶しのぶのこと 34.6%
「どうしました、カナヲ」
まるく、水晶玉のように垂れた水滴を僕の目がとらえた。まあるい雨粒の中に、ふと、次兄の横顔がよぎる。長めの前髪をサイドに垂らし、毛先にはほのかな煙の香りをまとっている。さらりと揺れた髪が、陽に透けてゆかりの色となる。困ったような笑顔で、カナヲに話しかける次兄のまなじりは、おだやかで芯の強い長兄と違い、どこか、迷いのような、憂いのような。世を斜に見ているような。そんな危うい感じがした。
世捨て人、とでもいうべきだろうか。聞くところによれば、次兄・胡蝶しのぶは、各種疾患により十八までしか生きられない身体らしい。今、僕……もといカナヲは14歳、しのぶ兄さんは16歳。あと二年しか、僕は兄さんと生きられない。本人は、呪いだと言って力なく笑っていた。
「もう! しのぶはネガティブなんだから!」
長兄が次兄の背を叩く。次兄は苦笑している。力なく揺れた毛先から雫がぽたりと垂れる。
――!!
はたと気づけば、柏の若葉から滴る水滴が、一秒間に数えられる数を超えていた。嫌な予感がする。カナヲは歩を進める速度を倍にした。走らず、歩かず。限界の速さで急ぐ。きしきしと唸る廊下の音が、五月雨の中に混ざっている。
「――! にいさん!!」
大池の茶室には、不気味な噂がある。
渡り廊下を越え、左手に和室を見て広縁を巡る。一番奥の茶室へはあと数歩。雨の音が激しくなる。大池が波打っている。
このふすまを開けば、茶室に次兄が寝転がって、本を読んでいる。はずだ。そのはずだ。絶対に、そのはずだ。
ふすまに指をかける。指先から、湿気が伝わってくる。じわり、じわり。
緊張か。いや、違う。
なにかに気圧されている。
指先がふやけている。このままではいけない。できるだけ息を吸って、吐いて。意を決して。ふすまを開けた。
ピシャ
ふすまを開けた音と、何かが入水した音とがほぼ同時であった。
カナヲの視力は良い。特に、移動するもの、静止するものを正確にとらえるという、生まれ持った能力がある。
――それが、凶と出た。しかも大凶だ。
(あ、)
カナヲは、視た。
縁側から落ちる人間。
カナヲは、視た。
見慣れた足先。
カナヲは、視た。
一瞬だけ浮かんだ、兄の指先。
「にいさ、ッ」
水面は雨に穿たれている。大きな空気が、水中からいくつか浮かんで消えた。ごぽ、ごぽ。
「しのぶ兄さん!!!」
カナヲは叫んで、もうそこには無い次兄の名を呼んだ。
水面を視る。梅の枝のような、ヒトのような指先が、水面からひとつ。浮かんでいる。
「あ、」
漏れる声をそのままに垂れ流す。カナヲは息を呑んでいる。ぴしゃり、と。
大きな魚の黒い尾ひれが、水面を打って沈んでいった。
◆◆◆
「それから、です」
「しのぶがおかしくなったんだね」
穏やかに老爺が言葉を紡ぐ。何だろう。この人の前では、何もかもを見透かされている気がする。それこそ、遥か昔の事までも。
老爺への質問
――大池のこと
普段は感情を表に出さず、物静かなはずの自分が、勝手に動いている。確かに次兄の事は好きだ。だが、なぜ。指先がきしんでいる。端坐の膝に、握りなおした拳を置いて、顔を上げる。カナヲは意を決した。じとり。手のひらが汗ばんだ。
「あの」
質問を制したのは、微笑である。すでにしわがれた表情が、息を吹き返したような気がする。産屋敷家本邸奥の間。いつも張り替えた畳の香りがする奥座敷にて、カナヲは先代の顔を視た。
にこり。
笑った笑顔がみずみずしくなる。まばたきを一つ。皮膚に刻まれたしわが消える。閉じたままの瞳が開く。
(日本、人形……?)
そう形容するにふさわしい姿があった。黒髪おかっぱ、藤色の振袖。ちいさく座した老人の先代が、日本人形の形に視えた。
(、否)
否定して深呼吸する。もう一度先代を視れば、老爺は翁であった。
「池の事を聞きたいんだろう、カナヲ」
は、と。意識を現実に戻す。季節を外れた藤の香りが鼻孔に届く。盛夏の終わり、本日は立秋。暦の上では秋といえど、暑い事には変わりない。エアコンのない奥座敷は、なぜかいつも快適な空気が保たれている。
「……はい」
意を決して、カナヲは頷いた。老爺が居住まいを正す。浴衣の衣擦れが、じりりと響いた。
「何から話そうか……産屋敷が、戦後の混乱にまぎれて土地を買収した話は知っているね」
こくり。静かにうなずけば、いつになくはっきりとした口調で老人は語り始めた。
◆◆◆
平安から続く産屋敷の一族は、先見に長けていた。とある目的を成すために、財をたくわえ、その財を使用し、また財をたくわえ。それを繰り返すうちに、膨大な資産を手に入れた。政府の目をかいくぐり、それなりの財を保っていたころに戦争が起きる。米国の手が入った日本は、それまでの曖昧さに線が引かれた。
そこで、当主は財を土地に変えたのである。
広大な敷地を買い取り、一部を庭内神しとした。ちいさな神社を建て、その一帯に神を祭ったのである。神を祀る付属として、狭霧山から水を引き、大池とした。
「……つまり、あの池は」
「そう、私が提案した神社の一部だよ」
「……じんじゃ」
「そうだよ、カナヲ」
そうだよ。言われた言葉が腑に落ちない。もやもやを抱えていたら、ふと。スマートフォンが揺れる。
誰から?(limit 17:00)
――友人・不死川からのメール 41.2%
制服のスラックス。右ポケットに入ったままのスマートフォンは、三回の振動で止まった。夏用の薄い生地が、振動を正確に太腿へ伝えた。
「死者や祖先の霊を祀る場所……お墓や、氏神様などを祀っている土地は相続税の対象から外れるんだ」
お墓、神様。そういえば、森の中には何か、合同墓地のようなものがある。聞けば、前当主の前の当主が身寄りのない子供を引き取って育て、奉公先で亡くなったら個別に供養していたらしい。十代半ばから二十代前半ごろの子供が多かったそうだ。そういう時代だったのだろうとカナヲは理解していた。彼らの遺骨が納められた本当の墓は、多摩の山奥にあるという。
「ああ、この話はタゴンムヨーだよ。それで節税しているなんて、バチあたりだからね」
ふふ、と笑えば、老爺の目じりにしわが刻まれる。細いままの瞳が伏せられ、これ以上の会話は無意味であるとカナヲは悟った。
ありがとうございました。またいつでもおいで。
「失礼します」
退室したカナヲが、跪座の姿勢で、三度にわけて襖を静かに閉めた。20cm、10cm、数センチ。襖の枠がぴたりとあって、すりあしの音が静かに去ってゆく。
輝利哉は、ふうと息を吐いて、神棚を見上げた。
「カナヲ。あの子を見ていると、昔の義勇を思い出すね」
真榊にかけられた五色の幟が、風もないのに静かに揺れた。
しっかりと未来を見据える目。何者をも視逃さないあの眼差しは、輝利哉の知るカナヲと同じものであった。
◆◆◆
奥座敷を辞してから、カナヲはスマートフォンを取り出した。タップ、ロック解除。メールアプリが着信している。
【不死川玄弥】
同級生の見知った名前。夏休みの真っ盛り、仲の良い男子からのメッセージである。昼食を共にする程度。それなりに付き合いがある玄弥のアイコンをタップすれば、続きのメッセージが表示された。
【栗花落、買い物行かねえか】
かいもの。そこでカナヲは、はたと思い出した。
「そうだ、盆のお使い」
ちいさく呟いて、カナヲは自らに課された使命を克明に思い出す。盆の買い物。いつもの店で、来客用とお供え用のお菓子。線香とロウソクは、鳩の名がついた指定の店で買う。
違うことを考えた脳を切り替えて、カナヲは玄弥へ返事を打った。
【僕も買い物がある。どこに行く】
【xx屋。兄貴からおはぎ買ってこいって言われた】
【わかった。明後日の昼に行こう】
互いに同意を得て、カナヲはスマートフォンをスリープにする。時として、歩きスマホは視界を狭くする。それは、視力の良いカナヲも例外ではなかった。
屋敷内を歩いていると、人に当たった。
誰に当たった?(limit 23:30)
――派手好きな謎の男・宇髄天元 66.7%
どすり、大きな胸板に額が当たった。 しまった。前方不注意をしたカナヲが顔を上げると、そこには銀髪の派手男が立っていた。宇髄天元。自称忍者の派手男は、華やかな外見に似合わず、すぐどこかに消えてしまう。
「すみませ、」「この俺様にぶつかるたァ、いい度胸だな」
一言会話を交わしたカナヲは、彼にぶつかったことを後悔した。面倒ごとの感じがする。スマートフォンは静かなままだ。
「胡蝶んとこのガキだな」
こくり。無言でうなずく。今は栗花落だが、訂正するよりも先にこの場を去りたかった。じ、と。自分よりも大きな男を見上げれば、それは何事かを思い出したようで、不意に自分の懐を探った。
「そーだ、コレ。出てきたからしのぶに渡しといてくれ」
小さな紙袋。中を見ようとすれば、ガキには早ェから見るんじゃねえと視線で制された。む。この男は兄さんの何を知っているのか。苛立ちを隠さずに表へ出せば、宇髄は臆面もなく笑った。
「この中身は何だ」「マホーの道具だよ」「ば、馬鹿にするな」
宇髄は静かに目を細める。長めの銀髪がさらりと揺れた。マホー、魔法。そんなおとぎ話のことを聞いているんじゃない。これは、この中身は、何かの小箱がいくつか入っている。軽い音が触れあって、簡素な袋の中で鳴っている。
「まあ、渡しといてくれ。俺様からだって言えばすぐ判るだろうよ」「ま、待て」
「俺様は忙しいんだ。盆が近いからな」
じゃあな。ひらりと片腕を振って、大きな男は煙のように消えてしまった。カナヲは、押し付けられた紙袋をそっと見る。グレーの小箱が薄く透け、パッケージに描かれているだろうアルファベットのRが見えた。
盆が近い。そうだ。買い物……は明日。八日にしよう。玄弥とはお菓子を買いに行くから、その前に線香とロウソクを買わなければならない。
宇髄の言いつけ通り、これを次兄に渡すべきか。夏休みの真っただ中、夕食には少し早い時間。次兄は何をしているだろう。カナヲは素直にこれを届けることにした。
次兄はどこにいるだろうか(limit 10:00)
――大池の茶室 38.5%
次兄の行き先を思い出す。今朝、家を出る前に挨拶をした。おはようございます。おはよう、カナヲ。兄さんはどちらへ? 秘密ですよ。
秘密の増えた次兄の行き先は、決まっている。大池の茶室だ。
蝉時雨が降っている。じいじい、かなかな、つくつく。いろいろな音が入り乱れている。廊下をめぐって、大池の茶室を目指す。廊下の軋みと蝉時雨と、木々のざわめき。それに、大池の波の音が混ざってくる。風が荒れれば波は激しく、風が凪げば波は静まる。当たり前の移ろいが、今は怖い。
カナヲは恐怖を知らないが、緊張は知っている。茶室に近づくにつれ、あの光景が蘇る。暗い水面、沈む次兄、水鏡を穿つ尾ひれ。作り物のような、透けた大きな魚の尾ひれが波紋を作って、ぴちゃり、ぴちゃりと蠢いている。凪いでいたはずの水面が、波が、無数の白い手と成って兄を連れていってしまった。
大事なものを失うのが怖い。
もう一度、宇髄に預けられた紙袋を握りしめて茶室の襖へ挑んだ。
座る、手をかける。
作法通りに襖のすきまに指を入れ、数センチ、静かに開けた。
(――?!)
大池にせり出した濡れ縁に、人影がふたつ。
一つは恐らく次兄のもの。こちらに背を向けて、大池に足を垂らして座っている。そうするのが好きなのだと言っていた。
――もう、一つは?
濡れ縁に上半身を凭れている。水から上がるような格好で、しかし、上がらない。今、大池は水が満ちている。一昨日の雨で、水面が上がっているのを昨晩確認した。
……、ッ!
動けない。正確には、動いてしまったらどうなるのかわからない。
次兄の隣にいる人影の、髪が揺れた。黒髪。水分を含んでいる。その毛先から、水がぽたりと滴っている。
見覚えが、ない。
産屋敷に住まう者は、互いが顔見知りである。子供が生まれれば、その家がほかの家を訪問する。例えば胡蝶、例えば宇髄、例えば時透。
その、誰とも違う。
そもそも、大池に浸かるような人間はいない。
ならば。
あれは何だ。
カナヲは思わず手に力を込めた。くしゃり。宇髄から預けられた紙袋がちいさく音をたてる。しまった。正気に戻ってそっと中を覗く。
黒い影がこちらに気づく。光の加減が動く。
――化物。
化物のような、美しさだった。
息を呑んで、数秒。
「カナヲ、どうしました?」
力んだ手からふすまを開けられ、カナヲは全身の力が抜けた。目の前に立つ次兄・しのぶはいつもの通りで、カナヲはようやく品物を渡すので精一杯だった。
◆◆◆
その夜、カナヲはうまく眠れなかった。
誰かにこれを話すべきか。もやもやとした思考を何度も繰り返している。
見たものを誰かに話す?(limit 15:00)
――大池に行く 66.7%
眠れないのなら、起きるしかない。
意を決して身を起こす。時計代わりのスマートフォンを見れば、夜中の一時。普段はぐっすり眠っている時間だ。着信・メール、ともになし。なんだか胸のあたりがむずむずして、パジャマと言えぬジャージのまま、布団から抜け出した。
嫌な予感がする。それを反転させれば、いい予感なのかもしれない。しかし、これは。嫌なものであってほしい。幽かな願いを胸に抱きながら、カナヲは駆けた。
ぎしぎしと廊下がきしむ。
楚々と歩きなさい、と普段からしつけられている。
それどころではない。
兄が。しのぶ兄さんが。
喰われてしまう。
息を切らせて、カナヲは走った。日頃の所作など何も構わず、夢中で走った。
――!
ぴしゃり。
襖を開く。目の前には、ただ大池が広がっている。ざあ。風が水面を撫でた。
水面には、なにもない。
良かった。
――なにもなくて、本当に。
……本当に?
いや。
何もない、のか?
夜は茶室の雨戸を閉めてあるのではないか?
なぜ、池が見えるのだ。
それに気づいてしまった。かたかたと奥歯が揺れる。進んではいけない、進んではいけない。ゆっくりと足が動き出す。一歩、二歩。池に吸い込まれるように、進んでいる。
「あ、あ……ッ」
池の中に、何か居る。
ちゃぷりと頭を出して、そこから波紋が広がっている。
黒髪に抜けるような白色の肌。月明りが水面を照らし、その反射で顔がくっきりと浮かび上がっている。
上弦の十日月。十分な灯りがともっている。
半分だけ顔を出していたものが、近づいてくる。
音はない。波がある。
背筋に、汗が流れている。
「あ、ア……?」
「お前は」
水怪。怪のくちびるが動く。音が聞こえる。にほんご、理解できる。反応はできない。
「お前は だれだ」
水面に浮かぶ怪がヒトの形をとっている。
黒々とした瞳、ちいさな鼻。唇も同じくらい小さくて、皮膚にウロコが生えている。ウロコ。うろこ。
『兄さん、それは?』
『おまじないですよ』
次兄がスマートフォンのケースに、スパンコールのような、うろこのような。そんな欠片をはさんでいたことを思い出す。
これだった。
「……ツユリ?」
怪が言った。そう、カナヲの名を言い当てた。
声にならぬ響きを喉から出せば、怪はちゃぷりと沈んでいった。
「……カナヲ? こんな時間に何を」
不意に背後から声がかかる。振り向けば、次兄がいた。緊張が切れる。へたりと座り込んで、カナヲはつぶやいた。
「にいさん……」
「僕を探しに来たんですね。読書も終わりましたし、すぐに戻ります」
カナヲの頭をなでる兄の手。少しひんやりした、安心する指先からは、なぜか煙草の匂いがした。
昨晩のアレは、何だったのだろう。(limit 20:30)
――次兄・しのぶに昨晩のことを聞く
結局、昨晩は次兄に連れられて自宅へ戻った。ちいさく駄々をこねれば、しのぶ兄さんが一緒に寝てくれた。カナヲは甘えん坊ですね。それでいい。しのぶ兄さんと、一緒に居られるのであれば。
翌朝、僕が目覚めたら、兄さんの姿は既に無かった。階下で朝食の気配がする。ぱたぱたと階段を下れば、カナエ兄さんとしのぶ兄さんが、揃って朝食を用意していた。
「おはよう、カナヲ。よく眠れた?」
「カナヲ、顔を洗ってきなさい」
「はい」
二人からの言葉へ、同じ返答をした。勝手知ったる何とやらで(そもそもここは僕の生家だ)洗面所へ赴く。白色のフェイスタオルが一枚用意されている。これを使えということなのだろう。二人の愛用している洗顔フォームを拝借し、掌で泡立てる。細かな白い泡をもちもちにして、顔の皮膚に押し付ける。数回そうして、泡を洗い流した。
(……、これは?)
洗面台の排水溝に、何か、引っかかっている。半透明の、ちいさな皮。きらきらした、網目模様の、円形の……?
排水溝からそれを引き出したカナヲは、フェイスタオルで円状のそれを拭った。ところどころに、黒色の斑点が出ている。
「カナヲ、焼けましたよ」
「! は、はい!」
キッチンからの声に思わず返事をし、カナヲは足早にリビングへと向かった。半透明のちいさな皮は、寝間着代わりのジャージのポケットに入れた。
◆◆◆
朝のことを終え、カナヲはしのぶに声をかけた。昨晩の出来事は何だったのか。腑に落ちないからである。水面からこちらを覗いたあの人影。兄から流れた煙草の匂い。ぬめった指先、滴る水。
「カナヲ?」
「しのぶ、にいさん。その、昨晩は茶室で何を」
「……? ああ、そのことですか」
ふ、と笑んで、次兄は昨晩の事を訥々と語り始めた。その前に、茶を一つ。ふわふわにあわ立った抹茶をいただき、カナヲは心を落ち着けた。
――あんな時間に、茶室で何を?
――片付けです。茶釜が崩れていましたので。
――宇髄から預かったものは何だったのか。
――蝋燭です。ほら。引き戸の滑りを良くするために、よく使うでしょう?
――大池にいたものは何か。
「池から、ヒトが顔を出していた?」
ぱちぱちと数度瞬いて、次兄は柔らかく笑った。細められた目は、淡い紫色。どこか虚ろで、光のない瞳に、昨晩の水面が見えた。
ぱちゃん。
水面が揺れる。波が立つ。渦になる。カナヲは抗わずに頷いた。
ゆっくりと考えるようなそぶりをみせた次兄の前髪が揺れる。髪の一本一本が、なぜか克明にばらけて見えた。すだれのような髪のはざまから、どろりとしたものがあふれている。
「……気のせいですよ、カナヲ」
次兄の雰囲気に気圧されるまま、カナヲは頷いた。
◆◆◆
「何か、来る」
ちいさな唇で、女がつぶやいた。水の滴る黒髪が、きれいな裸体に張り付いている。月明りの照らす裸体は、蠱惑的で美しい。まろやかな素肌のところどころに、魚のウロコがみてとれる。
「聞こえるんですか、冨岡さん」
「ああ」
小さく、ひそやかな会話。冨岡と呼ばれた女は、大池に爪先をつけた。
月明かりが爪先と水面を照らす。二つの足先を揃えて水につければ、そこから波紋が広がった。
不規則な波紋が、女の足を飲み込んでゆく。
白い素肌が、水に溶ける。闇に溶ける。
波立つ皮膚、黒化する肌。
一分ほどで、女の下肢はひとつになり、黒く染まった。
――とぷん。
音もなく女は消える。深夜一時。カナヲが襖を開くまで、あと数秒の刻であった。
◆◆◆
その日、カナヲは記憶通りにロウソクと線香を買った。菜園でナスときゅうりを収穫する。カナエはとってきたミソハギを束ねている。
盆が近い。向こう側から、たくさんの子供たちが帰ってくる。
産屋敷は、そんな家だ。
翌日に備えて、カナヲは玄弥にメールを送った。駅前に十時ごろ。寝て起きて、着替えて身支度をして駅前へ向かう。
人ごみに紛れて、友人の玄弥がいた。
玄弥との待ち合わせはスムーズだ。特徴的な髪型は、すぐに見つかる。一言二言話しかけて、仏具店へと二人で向かう。昨晩、カナエから「買い物にいくならこれも」と仰せつかったものだ。カナヲは素直に言うことを聞いて、カナエから金銭とメモを預かった。
『産屋敷です、と言えば通じる』
【仏具 悲鳴嶼商店】
物騒な字のあてられた店に入る。店先には、暑気を避けた猫が日陰に寝そべっていた。
「にゃう」
店内は静かだ。店番をしているちいさな子供に「うぶやしきです。これを」と、メモを渡した。それを見た子供は、ぽんと両手を合わせて「お待ちください、用意してまいります」とカナヲに伝え奥へ引っ込んだ。
鉄風鈴の音がする。
ちりり。
「栗花落んちって、ツユリじゃねーの?」「複雑なんだ。興味があればあとで説明する」「興味ある」
男子中学生二人で、意味のないやりとりをする。カナヲ自身も、家が複雑であろうことはなんとなく肌で感じていた。
「産屋敷さま、品物はこちらです。お代は頂いておりますので」
小さな包みを三つ。それを目の前で紙袋に入れ、子供はカナヲに差し出した。それを素直に受け取り、二人は仏具店を辞した。
まもなく、昼食時である。(limit 12:00)
――定食屋へ入る 42.9%
閑静な住宅街にあった仏具店の次は、繁華街に店を構える和菓子屋である。盆前の平日、街中は上着を脱いだサラリーマンでごった返していた。時計を見れば間もなく十一時。殺人的な暑さが本格化を始めた。紙袋を握る手が汗ばんでくる。この暑いのに、玄弥はTシャツの上にカーディガンを羽織っている。暑くないのだろうか。
「玄弥、昼にしよう。混む前に済ませたい」「わかった」
特に打ち合わせもせず、テスト帰りのときに利用する定食屋へと赴く。それなりの量でワンコイン。中学生にはありがたい定食屋は、繁華街と住宅街の境目にある。すたすたと早足で歩くカナヲに、巨体で黒づくめの玄弥がついてくる。はたから見ればアンバランスな二人なのだが、当人たちは何も気にしていなかった。
定食屋の席はまばらだ。先に食券を買って席に着く。カナヲは唐揚げ定食、玄弥は肉野菜炒め定食。どちらもご飯は大盛で。食券の半分をカウンターに置き、それぞれ番号札を取る。ついでにセルフサービスの水もとって(今の時期、水ではなく麦茶だった)二人は席に着いた。
「あっち……」
衿元をくつろげて空気を入れる。仏具店の紙袋が、かさりと鳴った。向かい合わせに座った席で、机上にスマートフォンを出す。ポケットの奥から、昨日洗面所で見つけた円状のフィルムが椅子の上に落ちた。カナヲの掌より一回り小さかった程度のそれは、乾燥して4センチ程度の大きさに縮まっている。両側から本で押せば、きれいな円状に整った。
隠す必要もないと思い、カナヲはそれをテーブルの上に置く。
スマートフォンを確認し、どこかから連絡が来ていないか、お使いの変更はないかのメッセージを確認する。着信なし。このままミッションを遂行する。
「栗花落、それ何だ」「家で拾った」「見ていいか」「好きにしてくれ」
玄弥がごつごつとした指先で円状のフィルムをつまむ。陽に透かしたり、回したり、一通り検分して、カナヲにそれを返した。
「あ……あー、玄弥、水ん中に人がいることって、あるか」
「そりゃ、あるだろ。水泳選手とか」
カナヲの脳裏に、月夜が浮かぶ。
「や、違う、ちがうんだ」「歯切れ悪ィな」
テンポの良い玄弥の返し。麦茶の氷がカラリと鳴る。
「お待たせしました、カラアゲと……、肉野菜です!」
いっぱい食べてね! と笑顔で伝えた女店主に、ぺこりと礼をする。
二人は備え付けの割りばしをぱきりと割って、手をあわせた。いただきます。
「深夜一時に、魚もいる池に水泳選手はいないだろ」「……はァ? だいぶ非常識な時間だな」
マヨネーズににんにく醤油を混ぜて、からあげにつける。遠慮なくマヨネーズをたっぷりつけて、カナヲはからあげにかぶりついた。じわりとあふれる熱い肉汁が、味覚を刺激する。あつい。美味しい唐揚げという食べ物を、カナヲはここで知った。
『からあげは、アツアツにかぶりつくのが一番よ! マヨネーズをたっぷりつけてかぶりついたりすると、そりゃあもう最高なんだから!!』
うっとりとしながら、カナヲにそうアドバイスした不思議な髪色の女店主は、せこせこと働いている。これからのランチタイム、負担を少しでも軽減するため、仕込みに余念がない。
かみ切った鶏肉の断面から、肉のうまみと少しの醤油、それにしょうがとにんにくの味。ほどよい弾力で噛み切れるこの肉質は、見事なものだと思う。それに、マヨネーズのまろやかさと、カリカリの皮、それから、衣にすこし染みたニンニク醤油の風味が食欲をそそる。食べた傍からお腹がすく。不思議な食べ物だと、いつも思う。
美味しいものを食べ始めると、人は無言になる。二人でもしゃもしゃと定食を平らげ、白飯を食べた。カナヲはテーブルのマヨネーズをほぼ使い切り、玄弥は一味を割と使った。
水を飲み干した後、周囲を見渡せばスーツ姿のサラリーマンが増えている。
「それ、何なんだ?」
水を飲み干した玄弥が、カナヲの荷物を指す。
「ああ。白ちょうちん三つと、松の木と、抹香。いつもの盆セットだよ」
玄弥の瞳が細くなる。何を驚くのだろうか。
「毎年、同じの用意してんの?」「普通じゃないのか」
カナヲが立ち上がって荷物を持ち直す。スマートフォンとフィルムはすでに仕舞ってあった。玄弥もあわてて後に続く。
「ごちそうさまでした」「ごちそうさま」
桜もちのような店主の女性に挨拶をして、二人は店を出た。
「はーい! また来てね!」
にこにこと二人を見送った女性が、二人の跡を片付ける。食器を下げて、テーブルを拭いて。テーブルの上に、何かきらりとしたものが残っていた。
「……?」
小さなフィルムのかけら。ぽつぽつと黒点がついている。
「……とみおか、さん?」
無意識から出た言葉は何だったのか。わからないまま、女性は片付けをした。次の客はすぐに入ってくる。そんなに時間をかけていられない。
「いらっしゃいませ!」
これから魔の二時間だ。頬を叩いて気合を入れなおす。店主・甘露寺は大きな声で客を迎えた。
さて、次は和菓子屋だ。繁華街のど真ん中、ビルの一回に居を構える老舗有名和菓子店に、カナヲは玄弥を伴って入っていった。ショーウインドウに並ぶ上品な和菓子をよそ目に、カナヲは店員に声をかける。
「産屋敷です。盆に使う羊羹の詰め合わせをお願いしておりますが」「産屋敷様、お待ちしておりました。こちらが品物になります」「ありがとうございます」
黒地に金色の虎が三体印刷された紙袋。それを三つ受け取って、カナヲは有名和菓子店を出た。玄弥も無言でそれに続く。
さっきまで、ワンコインの定食屋で唐揚げを山ほど頬張っていた男子中学生にしては、堂々とし過ぎている。よく来ているのだろう、と玄弥は深く考えずにカナヲの買い物に続いた。
かりんとう、最中、クッキー。銀座に点在する多種多様なお菓子の店をカナヲは機械的にはしごした。増えた荷物は玄弥にも分担してもらう。疲れたら休みなさい、と言われて兄から渡された五千円札を思い出し、玄弥に休憩を提案する。三時過ぎ。人を殺すような暑さと、冷房との気温差にやられてしまう。
兄たちと入ったことのあるビルの一角。喫茶店とは結び付かない店構えの扉を開く。おどおどしながらついてくる玄弥に、兄さんからお金貰ってるからここは出すよ、と伝え、中に入る。男子中学生にはだいぶ敷居の高い店なのだろうか。以前は兄たちと入ったので、特に何も感じなかった。
「……何頼んだらいーのかわかんねェ」
メニューを眺めること五分。音を上げた玄弥からメニューを取り上げ、ざっと眺める。
「今の気分は」「疲れた、暑い」「じゃあかき氷。味はどれ」「うーん……」「お腹すいてる?」「……少し」「じゃあ宇治金時。甘さは必要?」「……あると嬉しい」「じゃあ練乳追加でお茶はあさぎり……勝手に決めたけど、いい?」
最早、カナヲが何を言っているのかわからない。玄弥は力なく頷き、オーダーはカナヲに任せてスマートフォンを起動した。店の名前を検索。それなりに名の知れた店だということが判明した。スマートフォンから顔を上げ、カナヲの顔を視る。どうした? とでも言わんばかりの涼しい顔。一体どういう育ちなんだ。玄弥は本日何度目かの溜息を吐いた。
しばらくすると、かき氷とお茶が二人分運ばれてきた。宇治金時・練乳がけと、いちごの練乳がけ。お茶も二つ。あさぎりは玄弥に、紫苑はカナヲに。
シャリシャリと二人でかき氷をほおばりながら、口火を切ったのは玄弥であった。
「……栗花落んち、どーなってんの」
「どう、って?」「フツー、男子中学生はこんな店知らねえよ」
きょとん、とした顔でカナヲが首をかしげる。カナヲとしては、兄と来た、近くにある、かき氷とお茶が美味しかった。この三点から判明した店に入っただけで、特に他意はない。玄弥の顔をじっと見つめれば、はた、と思い出したように手を叩いた。
「そうか。僕は変な家に住んでいるかもしれない」
ふむふむ、と一人でうなずきながらかき氷を発掘する手を早める。
「何から話したらいいのかな……」「話しやすいところからでいいんじゃね」
わかった。しゃくしゃくと色の違うかき氷をほおばりながら、カナヲが話し始めた。
「僕は『産屋敷』に住んでいる。ちゃんとした町名とか番地があるんだけど、産屋敷家関連の親類が多く住んでいるから、大体は『産屋敷の栗花落』で通じるんだ。そして、産屋敷家は大きい。たくさんの家がある。その中に、僕の……栗花落の家がある。
僕の家は二世帯住宅で、栗花落の家と、胡蝶の家がつながってる。僕が生まれたのは胡蝶の家、で……実の兄さんが二人。カナエ兄さんとしのぶ兄さん」
ふう、と息を吐く。お茶を一口すすって、緑の水面に波紋が浮かぶ。
「ンー……っと、つまり、栗花落の実家は隣の胡蝶家で、胡蝶家と栗花落家は合体してて、それも産屋敷の一部、ってことか?」
「うん。大体そう」
しゃくり。カナヲが苺の果実を食べる。玄弥はあずきの部分を食べる。
「この仏具とお菓子の量、オマエんち新盆なの?」
ぴしり、と。カナヲの荷物量を指して玄弥が言った。一家の盆を迎える割には、大量過ぎる。店頭に赴かないと購入できない部分は、宅配を頼んでいた。
「……産屋敷家は合同で盆を迎えるんだ。毎年、これを用意して僧侶が来る。ヒメジマさんっていう、さっきの仏具店の縁者」
白ちょうちんは理解できる。盆が終わったら使ったちょうちんを燃やす風習がある。ただ、松の木と抹香はわからない。松の木は迎え火と送り火に焚く。初盆に初めてあの世から帰ってくる故人が、迷わないように焚くものだ。抹香は言わずもがな。初盆でもない家で、盆に焼香をすること自体がおかしい。まして、周囲の姻戚関係が薄れている現代では尚更である。
「……毎年、だれか亡くなってンの?」
玄弥は、なるべく言葉を選んで核心を突いた。カナヲは少し戸惑って、視線を逸らす。
「そういう、わけじゃないだろうけど……いかんせん、産屋敷は関連する人が多いから、毎年だれか亡くなっていてもおかしくはない、かも」
ああでも。しゃくり。一合目まで崩したかき氷が、液体になり始めている。
「カナエ兄さんなら、産屋敷家をほぼ網羅しているから……誰が亡くなったとか、知ってるかもしれない」
ぼそぼそと呟いて、二人はかき氷とお茶を飲み干した。フルーツのたっぷり乗ったスイーツは、あっさりとしたお茶で流された。
◆◆◆
玄弥の目的とした和菓子屋は、店名を伊黒という。二人の入った定食屋の近くに店を構え、最近は凝り性の店主が趣向を凝らしたカラフルなおはぎを作ることで有名になった。
「こんにちは」「失礼します」
引き戸から二人が入る。店主は作業をしていた。こちらをひと睨みし、特に接客する様子はないようだ。昔ながらの木箱に、彩鮮やかなおはぎが並んでいる。
「すみません。粒あんときなこと青のり、三つづつ下さい」
無言で店主が動く。奥からパックを取り出し、玄弥の言ったおはぎ三種類を詰めて、紐でくくる。それを三つ。会計をしている間、カナヲは店のなかでもいっとう鮮やかなおはぎを眺めていた。
ちいさな木箱に、ブリザーブドフラワーを詰めたようなおはぎが彩りあざやかに咲いている。
「栗花落、終わったぞ」「うん」
じい、と。カナヲはその芸術品に魅入られている。
「……欲しいのか」
はた。マスク越しに店主の声がした。隔てられた向こう側に立つ店主をよく見れば、きれいなオッドアイをしていた。
「いえ、ええと、きれいだなと思って、見てました」
「……産屋敷か」「は、い?」
虚をつかれたカナヲが返事をする。店主が息を吐いて、二人に座っていろと指示をした。店のすみっこに、二人でちょこんと座る。
「……何だろう」「さあ」
会話はそこで途切れた。待つこと五分。店主が、ちいさな木箱を持ち出した。
「ツユリ」「……、はい!」「これを胡蝶しのぶに」「は、い」
カナヲは言われるまま木箱をのぞき込む。中には、色鮮やかな、金魚と鶴を模したおはぎが詰まっていた。
「えっと、お代は」「貰っている。伊黒から、と言えば通じる。宇髄でもいい」
関係者だろうか。カナヲはそう判断して、伊黒からおはぎを預かった。
その日は駅で玄弥と別れ、帰路についた。屋敷へ戻り、荷物の整理をする。カナエに報告し、おつりを返そうとすると、小遣いにしていいと言われたので、そっと財布に仕舞った。小銭の中に、円形のフィルムがひとつ。紛れている。
◆◆◆
「兄ちゃん、いる?」「実弥は出かけてるぞ」「粂野サン、」
匡近でいいって。いつもそう言って、粂野――匡近は笑う。にこにことした笑みの彼は、兄の同期らしい。こうしてちょくちょくあったりするが、玄弥に直接の面識はない。
「実弥は盆に戻るってさ。今は東北に行ってる」
匡近はそう言うと、風が起こった。木々がざわめく。とある森の一角にある、古めかしい神社にて。二人は会話をしている。人好きのする笑顔を浮かべる匡近に、玄弥はなんとなく苦手意識を抱いていた。何なら、今も抱いている。
「実弥に何かすんの?」「美味しいおはぎを友人から紹介されて、兄ちゃんに買ってこようかと」
いいねいいね。匡近はにこにことして、玄弥の手を取った。俺の分もよろしく。は、はぁ。気圧されるまま玄弥は承諾の返事をする。
「あ、実弥なんだけど……帰ってきたらいつもの場所で打合せみたいだから。その後は確かフリーだよ」
風がざわめく。木々が揺れる。玄弥は鳥居を見上げた。
木製の鳥居、その上に、匡近が居る。足をぶらぶらと投げ出して、人には到底たどり着けない高さに腰かけている。
「んじゃ、またな。玄弥」
匡近が、鳥居から飛び降りた。玄弥はそれを見守っている。風が数度、巻き起こる。匡近は背から生えた翼をばさりとはためかせ、どこかへ飛んで行った。
◆◆◆
今夜は疲れた(limit 6:30)
――ゆっくり寝る
――しのぶにおはぎを渡す
簡素な夕食をとって、僕は風呂に入った。猛暑にやられた汗を洗い流し(少し日焼けしているようで、首筋の皮膚が痛い)部屋着に袖を通す。仕訳けた荷物の中に、あのおはぎがあった。
(そうだ)
和菓子屋店主の言葉を思い出す。その言葉に従って、僕は長兄に次兄の居場所を聞く。
「……多分、自分の部屋か、いつもの場所だよ。盆前だから、前の当主様に呼ばれているかもしれないけど」
「ありがとうございます」
さて、どうしよう。
(おはぎを確認する。賞味期限は特に書いていなかった)
――「いつもの場所」へ向かう 62.5%
――いつもの場所。あの茶室だ。
「しのぶは、あの茶室に魅入られているんだ」
くっきりとしたまつげを伏せて、カナエは言った。哀愁というものがあれば、それにふさわしい表情であっただろう。ただ、カナヲがその感情を理解するには、いささか幼過ぎた。
木箱に詰められたおはぎを持ち出す。カナエに、伊黒という和菓子屋で頂いたことは説明済みである。カナエは、その箱を紗の風呂敷で包んだ。紅牙瑞錦の鳥獣と草花を織り込んだ風呂敷は、胡蝶の家にある物でも、特に上等なものではなかったか。やわらかな手触りを両手で包み、カナヲは部屋着から浴衣に着替えた。松煙染めの古典裂取文様を、男物に仕立ててある。カナヲが『これを着なさい』と言った。それだけで十分だ。ざらりとした肌触りの浴衣を着て、紐と帯で身体を括る。
何か、儀式めいたものを感じる。
「カナエ兄さん、どうして」「盆を迎える準備だよ。今年はカナヲが選ばれた。それだけの話」
兄の話を、うまく理解できない。風呂敷で包まれた木箱の上に、袱紗で折られた金魚が乗っている。そのまま持って行きなさい。はい。しのぶが氷点をしているから、その場にそっと置いてきなさい。はい。ああそれと。
――決して、喋ってはいけないよ。
■■■
静かに、静かに。包みを押しいただきながら、カナヲは歩いた。手紙を届ける禿のようだ。最も、あちらは鈴を鳴らしながら歩いていくが。ちりちり、からから。一切の音を立てずに、カナヲはしずしずと歩いた。床のきしみもたてず、風を切らず、自然に紛れて何物にも見つからないように。
爪先から髪の先まで、神経を使う。
この空気に飲まれないように。
あの怪異に、呑まれないように。
茶室の襖は閉まっていた。いや、よく見れば、細く……あいて、いる。静かな月明かりが漏れている。
(声を出してはいけない、と)
声を出してはいけないと、カナエ兄さんは言っていた。ここに、木箱を置いて去ればいいのだろうか。
カナヲは逡巡する。
息を、吸った。
「ひゅ」
かすかな喉の音。声。しまった。どうしよう。ヤバい。
やくそくを破ってしまった。きちり。身体が固まる。
『だれだ』
静かな声が、どこかに伝わっている。
喋っているのか? いや。これは空気に、耳に、脳に。
直接響いている。
どうしよう。
――動けない
金縛りだ。話には聞いたことがあるのだが、カナヲにとっては初めての経験である。眠るときになることが多いと、医学に詳しい次兄から聞いてはいた。だが。今。自分はしっかりと起きている。
指先の筋肉がぴくりとも動かない。身体に動けと命じる。動かない。眼球だけが情報をもとめてさまよっている。
約120度。両目で見える視界の範囲だ。ここから動く手立てを考えて、カナヲは必死に目を動かした。
『なにをみている』
(ひ、っ……)
相変わらず、脳内に直接届く声。背後から生暖かいからだが迫り、両手が迫り、それが
ぼくのあたまを掴む。
あたまを掴んだその両手は、ぼくの骨のうちがわに沈み込む。
そのゆびさきが、ぼくの 目 を コテイ した。
瞳孔がふるふると揺れている。視界が涙でにじんでいる。これは恐怖か。怖い。何をされるのかわからない。怖い。こわい。コワイ。恐い。おそろしい。なにをされるのか わからない。
「……は、アッ……」
声を出すのも構わずに、口で呼吸をした。渇く。かわく。みずがほしい。口の中の水分が、すぐに消えていく。ああ。だめだ。どうしよう。
「、どうした」
すとん。
解けた。
からくり人形の糸がぷつりときれるように、カナヲはその場にへたりこんだ。木箱だけは最後の意地で死守したまま、ぺちゃりと廊下に尻をつく。
「あ、りがとうございます」
誰かが、いた。
――派手好きな謎の男・宇髄天元
『産屋敷家には、人でないものが棲んでいる。』
それをカナヲに教えたのは、声の主・宇髄天元だった。彼は音もなくカナヲの傍に近づき、背を叩いた。こふこふと何度か噎せる前に、宇髄が木箱を取り上げる。
「厄介な役になるんだなァ、オマエ」
けたけたと笑いながら、宇髄は細く開いたふすまに木箱を差し入れた。大きな手をすぐに抜く。ぴしゃ。襖が閉まった。
「、いまの……は?」
「ん? ああ、パーティーしてんだよ。ド派手な化け物のパーティーだ。盆だしなァ……あいつらも集まりてえんだろ」
ニヤニヤと笑った眼帯には、大ぶりのキラキラとした石がいくつも輝いている。出会ったときから眼帯をしている宇髄は、忍者のくせに海賊の末裔だとか言っていた。月光を遮断されたので、きらきらとした意思はそのきらめきを失っている。
「しのぶ、にいさん、は」
す。宇髄の片目が細まった。時々、この男は感情を消す。そうしたら、何を聞いても無駄になる。カナヲはそれを知ってはいたが、充分に理解をしていなかった。
「宇髄、しのぶ兄さんが」「あァ。居るぞ。そん中に」
見るなよ。
――!!
ふすまに手をかけた瞬間。カナヲの身体が固まる。
「成りてェなら別だが。お前はそのまま生きてろ」
こうなりたくはねえだろう。宇髄が眼帯を開いている。カナヲはその中身を見た。動かない静かな瞳孔。まるく、黒いふちをよく見れば、模様が刻まれている。何かの家紋だ。黒い丸がバランスよく五つ。真ん中から放射状に線が伸びて、五つをつないでいる。
息のかかる距離で、カナヲは宇髄の瞳に引き込まれている。
不意に、空気が緩んだ。
ぱちん。
「ッ、痛!」
「あんまり見んじゃねえよ。高ぇぞ」
いつのまにか、眼帯を戻した宇髄にひかれて、カナヲは家に戻った。宇髄はカナヲをカナエに引き渡し、役目を無事に終えたことを告げる。
「じゃあな、胡蝶」
ひらりと手を振って、宇髄は胡蝶家を辞した。
■■■
「宇髄、」「お、伊黒か」
胡蝶家を去った宇髄は、大池へと向かっていた。途中、柏の木からにゅるりと白い蛇が出る。蛇はするりと宇髄の首に巻き付いた。
「冷てェな」「そういう生き物だ」
音もなく宇髄は進む。茶室のふすまの前で一度止まり、呼吸をして扉を開けた。
「しっつれーしまーす。伊黒連れてきたぞ」
ぞろり。月明りに照らされた影が、宇髄を見る。二対の目が四つ。ぎょろりぎょろりと動き回る目が、宇髄を認識して止まる。
「ああ、宇髄さん。今から水点てしますけど、お飲みになりますか」
奥の水屋から出てきた胡蝶が、宇髄に声をかけた。ここは、茶室だ。
「茶は温い方がいい」「わかりました」
そう言って、胡蝶は水屋へと引っ込む。宇髄の首に絡まった白蛇が、伊黒が。影の方へ行けと催促をした。しゃあねえなあ。伊黒の指示通り、茶室のふちへと向かう。
黒い影が一つ、腰かけている。
上肢はヒト、下肢は魚。人魚であった。
この世のものとは思えぬような、アンバランスな美しさをその顔に湛え、静かに、手をついて、ぱしぱしとまばたいている。
黒いまつげからは、星のような雫がこぼれ、瞳のふちにあるウロコの上を滑って一つになっていく。
「……トミオカ、胡蝶とはよろしくやってんのか」「……よろしく、とは?」
ぱしゃ、ぱしゃ。夏の夜に鳴く蝉が、静かになっている。風が強い。朧雲が月を隠し、流れていく。
「ったく、テメェら栗花落を巻き込むんじゃねえ」
宇髄の独り言が流れていく。隻眼で見上げた空には。何か、大きな鳥が舞っている。
■■■
翌朝、僕は目が覚めた。その日は特に何もなく、ただ一日が過ぎていった。夏休みの宿題を終わらせ、屋敷の掃除をした。
盆であわただしくなるからと、長兄に早く寝るように言われている。
あの日から、僕は次兄を見ていない。
――寝付けずに屋敷を散歩する
早く眠れ。そういわれると目が冴える。部屋着のまま布団をすりぬけて、幼いころ、寝付けなかったときにそうしてもらったように、散歩へ出た。胡蝶家から産屋敷邸へ。同じ敷地内にある産屋敷邸は、財のあるところだけ鍵がかかっている。一族の者であれば、それ以外は出入り自由だ。
じわじわと暑い真夏の夜半、夢を解きにカナヲは歩き出した。きい。木製の引き戸を開ける。静かな廊下が、暗い廊下が、ただただ続いている。
――奥座敷へ向かう
きしきしと廊下をきしませながら、カナヲは歩いた。布団から抜け出したままなので、靴下などという高度なものは履いていない。裸足の皮膚が、木目をなぞる。途中、いくつかの縁起物を踏みしめて、カナヲはひんやりとした廊下をあるく。
ひた、ひた。
怪談でよく聞く効果音を耳にしながら、カナヲは歩いた。廊下を歩いた。空を切って歩いた。温みを裂きながら歩いた。
(、ここ)
突き当たった先は、前当主・きりや様と話をした奥座敷である。摺り上げの雪見障子、下半分が上がっている。
中は、薄暗い。
――いや。
明かりがひとつ、灯っている。
LEDライトよりも小さく、懐中電灯よりもちいさく、非常用のライトよりも小さく、そう、いうならば。
通夜に一晩中灯っているロウソクのような。
そんなあかりが、ぽつりと灯っている。
(――っ!!)
心臓が収縮する。ぞぞぞ。血液の逆流する音。波のような音が五月蠅い。ざあざあといつまでも、いつまでも。鎮まらないでいる。
まるで、大池の波のようだ。
一呼吸を置いて心を落ち着ける。すでに、額には汗がにじんでいた。
「きりやさま」
なるべく静かに、平静を装って声をかける。きりやさま、きりやさま。教えてください。僕に、私に、何もかもを。
………………………………
しん、と静まり返った周囲が圧し掛かってくる。呼吸が、どんどんあがってくる。
「ッ……、」
息を吐く、息を吸う。回数が早くなる。
なるべく声をたてないように、なるべく音を出さないように、なるべく……? なる、べく?
不意に、ぷつりと糸が切れた。緊張というものがぴんと張った糸ならば、それが急に消え失せてしまったような。そんな感覚があった。
「あ」
どうして、僕は音を出さないようにしたんだろう。
どうして、僕は静かに歩いていたんだろう。
どうして、僕は
どうして、
どうして
どうし
どう
ど
……
…………
………………
……………………
…………………………
リ
ゆ
つゆ
ツユリ、
「栗花落! 戻ってこい!!」
は。
「は……ッ、あ。ッ……」
ひゅう。呼吸を思い出す。ひゅうひゅうと口で何度か呼吸をした後、肺に生ぬるい酸素を巡らせる。浅い呼吸を繰り返す。いち、にい、さん、よん。
「大丈夫か、栗花落」
「う、ズイ……さん」
ようやく喉を震わせる。目の前の人物を確かめて、カナヲは声を出した。うずい、てんげん。屋敷をうろついている、自称元シノビ。
「うずい、さん。僕、おれ、わたし」
「落ち着け、泣くな。何を知りたい」
顔面ににふわふわしたものを押し付けられ(多分タオルだ)、それ越しに何度か呼吸をすれば、心が落ち着いてきた。
「過呼吸だな。落ち着いたか」「……っ、はい」
肩で何度も息を繰り返す。ふと、目前の奥座敷を見れば、あかりは灯っていなかった。
「宇髄さん、ここは?」
「……大池の茶室だ」
ちゃぷ、ちゃぷ。
開け放たれた障子の向こうから、波の音が聞こえてくる。波の向こうから、何かがくる。
「あ……っ、あれ」
「オイ栗花落、落ち着け」
栗花落が震える指で指した先。大池の真ん中に、ちいさな枝がある。
「あれは、」
ぱちん。栗花落の頬を軽くたたく。喉から音を発するだけになった栗花落が、震えている。宇髄は大げさに、呆れた息を吐いた。
「枝だよ。梅の枝だ」
「なかった。そんなものはない。ぜったい。絶対になかった。あんな真ん中に梅が生えているがずがない。宇髄さん、僕は何を見ているんだ」
震える瞳が、否だと告げている。宇髄が大池を見る。そこには、凪いだ水面が広がっていた。上弦の月あかりできらきらと照らされた、鏡のような水面は、まるで星の海であった。
宇髄は言った。
「幻を見てるんだよ」
その声音は、なぜか優しかった。
「ほんとう、に」「ああ」「じゃあ、兄さんと居た水の化け物は」「アレは家のモンだ」「しらない、ひとだ」「俺は知ってる。カナエも知ってるだろうよ」「うそだ」「嘘じゃねェ、あいつは冨岡って言うんだ」「トミオカ」「ああ。潜水が得意な奴でな。水底から色々拾ってくるんだ」「いろ、いろ」
そうだ。宇髄が立ち上がる。話は終わりなのだろう。カナヲは宇髄を見上げる。視線で促され、そのまま立ちあがった。
「あー……」
歯切れが悪い。ぼりぼりと頭を掻いて、言いづらそうに、言葉を選んで、宇髄が口を開いた。
――屋敷について、知りたいことがある(謎が、解けていく)
宇髄の発言をさえぎって、カナヲが先に口を開いた。ゆるりとした部屋着の袖口から、生ぬるい風が滑り込む。大池の水気をたっぷりと吸った空気は、カナヲの皮膚を濡らすように、湿り気を分け与えた。
じとり。
畳についた下肢に、湿度が入り込む。
ぺたりと座り込んだカナヲの足を包み込むように、空気が動いている。
「何を」
「何を、渡したんだ」
鈍い空気がゆるりと動く。ぱしゃん。
大池で、魚が跳ねた。
「兄さんに、僕を通して、何を渡したんだ」
かしゃりと握った白の紙袋。細い小箱がいくつか入っていた指先の感覚と、薄く透けたRの字が見えていた。
握りつぶせば、簡単につぶれてしまう。
隻眼の宇髄がカナヲから視線を彷徨わせる。数秒あって、宇髄は観念するように息を吐いた。実際、観念していた。
「わーったよ」
子供のようなしぐさをして、宇髄は懐からちいさな箱を取り出す。成人男性・宇髄の掌にあれば、それは煙草であるとすぐに理解した。
【20歳未満の者の喫煙は、法律で禁じられています。喫煙は、様々な疾病になる危険性を高め、あなたの健康寿命を短くするおそれがあります。ニコチンには依存性があります。】
パッケージの50%を占領し、よく読める表記の注意書き。未成年の喫煙は禁じられていることが、当たり前に書かれている。
「コレをくれてやったんだ。アイツ、もうすぐ死ぬだろ。それまでに現世の楽しい事、全部やってきゃいいなと思ってな」
「しぬ」
「知らねェのか。『胡蝶しのぶは18で死ぬ』ってなァ、俺が輝利哉様から聞いた【決まり】だ」
「そんな、そんなことはない。兄さんは、しのぶ兄さんは」
「死ぬんだ。[[rb:十八で > ・・・」
ぱちり。現実が突きつけられる。しのぶ兄さんが、十八で死ぬ。あと何年だ。今、僕が14だから、兄さんは
17歳。
あと二年で、胡蝶しのぶは死ぬ。
カナヲは、現実を直視できずにいる。
「餞だ。俺なりのな」
宇髄はそう言って、取り出したタバコのパッケージを開いた。派手でチャラい原色だらけのパッケージをあけて、細い、茶色の紙で作られた一本を取り出す。
しゅ。
マッチを擦って、火をともす。
先端にちいさな緋色が灯った。
宇髄が呼吸をすれば、あえかな煙が宙を漂った。がっしりとした体躯の宇髄、その唇から、紫立ちたる煙の細くたなびきたる様は、煙の細さをよけい際立たせた。
傍にあった火消し壺を手繰り寄せ、宇髄はそのなかにマッチの滓を入れた。
じりじり。灰が長く、身が短くなっている。
カナヲは苛立ちを隠せぬまま、宇髄に詰め寄った。
「どうして、あのとき」「……其処に居たか、って顔してんなア」
お見通しなんだよ、と言って笑った隻眼が、すこし歪んだ。茶室にあって、だれも使わないであろう灰皿。誰が使っているのか不明であったそれを、宇髄が手繰り寄せる。
とん。
音もなく灰が散る。皿にグレーの滓が散る。
「輝利哉様に言われたんだよ。栗花落を見てこい、ってな」
はふ。呼吸が浅くなっていく。なんだ。つまり、どういうことだ。輝利哉様は何を知っていて、僕に何をさせたかったんだ。
「あーもう、説明してやるよ」
細い煙草を(どうやら本当は葉巻らしい)一本つぶして、次の煙草に火をつける。派手な黄色の、音符が入り乱れるパッケージをぼんやりと見て、兄さんに渡したものとは違うのだな、と思った。
そして、宇髄は。静かに秘密を語り出した。
■■■
産屋敷には、秘密がある。平安から存在していた公家の末裔、それが産屋敷であった。
一族は、あるとき血筋に怪物を出した。
怪物は、人を食らった。
人を食らうそのものを、鬼と呼んだ。
それから約一千年。産屋敷は鬼を殺すために一族を回した。鬼は増えた。人を食って増えた。
鬼に殺された人たちの遺族は、自ら志願して鬼を狩るようになった。
あるとき、呼吸が生まれた。陽光で消える鬼を殺すために、陽光を模した剣術が生まれた。
これを、始まりの呼吸・日の呼吸と呼んだ。
日の呼吸を編み出した剣士は、当時の剣士たちが使っていた剣術の型とあわせて、炎・水・風・岩・雷を産み出した。
それから五百年。産屋敷の一族が組織した【鬼殺隊】は、大正の世に鬼を滅することに成功する。
鬼殺隊のなかでも選りすぐりの猛者たちは「柱」と呼ばれた。その柱が九柱揃い、日の呼吸が復活したとき。
平安の怪物を、彼らは滅した。
産屋敷には、秘密がある。
鬼を産み出した代償がある。
――短命。それに伴う、先見の明。
鬼を殺して、輝利哉とその妹たちは長寿を得た。
鬼を殺したが、先見の明は残った。
――そして、あと二つ。
■■■
「呼吸を使って果敢に戦った隊士が居てなァ、そいつらには痣が出たんだ」
「あざ?」
ん。宇髄は数度、灰を落とした。また、たおやかな紫煙がくすぶっている。
「呼吸法ってのはな、言っちまえば肺に負担をかけるブーストだ。それを四六時中やって、さらにその上段階。血管や筋肉を収縮させたり、心臓を一時的に止めたり、って芸当が当たり前になってくる。ンで、体温が上がる」
たいおんが、あがる。
カナヲは宇髄の話を茫然と聞いていた。血管や心臓の操作。そのようなものが可能なのだろうか。いや。
不可能ではないのだろう。
実際、そういった事例があると次兄が言っていた。次兄・胡蝶しのぶが。
「体温を呼吸で上げると、痣が出るらしい」
とんとん。宇髄が自身の頬を示す。どうやら、痣は頬に出るらしい。あざ、アザ。
「まあ、言っちまえば寿命の前借だ。生物にとって、酸素はガソリンであり毒だ。どんな生き物も、心臓が大体20億回打つと止まる……なんて話もあるがな」
はふ。何度目だろうか。宇髄は喋りながら煙を吐いた。煙がカナヲにまとわりついて、思わず噎せた。
「悪ィ、んで……ああ。痣の話か。最終決戦で痣を出した柱が居んだよ。んで、二人生き残った」
宇髄が煙草を咥えたまま、指を二本立てる。右手でひとつ、左手で一つ。
「一人は、水柱の冨岡義勇。もう一人が、風柱の不死川実弥」
片方づつ、指をわきわきとさせながら宇髄は語る。トミオカ、シナズガワ……不死川?
「……気づいたみてえだな。シナズガワ・サネミ。玄弥の兄ちゃんだ」
やはり。不死川という名字は珍しい。一緒にかき氷を食べた玄弥の顔が浮かぶ。彼も関係者だったのか。でも、兄がいると言っていた。兄? 兄は大正時代の人間では? 痣、痣の人間がどうなるのか。
「痣を出した人間は、二十五で死ぬ。当時……大正のはじめか。冨岡も不死川も、二十一だった」
「にじゅう、いち……よねんで、しぬ」
「そーだ。だが」
大池が漣をたてる。ざわざわ、ざわざわ。
「生きてるんだよ」
「冨岡も、不死川も」
ひゅう。風か呼吸かわからない。ただ、空が動いている。湿った空気をカナヲは吸い込み、吐き出した。
「いきて、いる」
「ああ。そうだ。生きている。二人とも……異形に成ってな」
「イギョウ、」
「冨岡は人魚、不死川は鶴天狗に成ってなア……確か、そろそろ百と二十五歳くらいになんじゃねえかな」
カナヲは気が遠くなった。ひゃくねん。百年。四季を百回積み重ねる重みと、人ならざる者になってしまった重圧。それを一瞬で思考して、百年という時の重さに眩暈がした。
くらり。
呼吸を一つして、落ち着く。
「で、その二人は」
「ここのカミサマだ」
「は」
「カミサマだよ。輝利哉様から聞いてンだろ。大池と森は神社だ、って」
神社、ジンジャ。そうだ。輝利哉さまがおっしゃっていた。確か相続税対策のために
『そう、私が提案した神社の一部だよ』
提案、した、ジンジャ……? 神社は神を祀っている。ならば、この神社の神は、氏神さまではなく、生きた異形だというのか。
「あり、えない」
「ありえんだよ。人魚のミイラとか、鬼の手とかを祀ってる神社があるだろ。それと同じだ」
はふ。今度は雑に息を吐いて、宇髄は煙草を消した。
「冨岡ァ」
大池に向かって、声を放つ。とみおか、トミオカ。水柱で人魚になった、ここのカミサマ。
ややあって、水面が波立つ。ちゃぷり。女の頭が、水面に出ている。枯れ枝のような、きちりとした指先が、濡れ縁を掴む。
ざあ。
びしゃ
べしょ
這い上がってくる。
魚が、這い上がってくる。
うす暗い月夜の中で、星海のようなきらめきを湛える大池から、人魚が、揚がってくる。
ウロコまみれの手、水かきのある指間、わきばらには蠢くエラ。その一つ一つがじっくりと動きながら、木製の縁に上がってくる。
「う、ずい。か」
「栗花落が怯えてんだろ。考えろ」
水をたっぷりと含んだ毛。顔がゆっくりをうごいて、その目がカナヲを捉えた。
「ツ ユ リ、」
人魚の唇が動く。僕の名を呼ぶ。
「ツ・ユ・リ・カ・ナ・ヲ」
「は、ッ」
僕は、思わず返事をした。
人魚の指が、僕の額に触れる。
かり。
右手の爪の先が、額のまんなかを、かり、とひっかいて。
そのまま 沈 み 込 ん で い る 。
あ。
あああ。
ああ
身体が動かない。水の中にいる。沈む。沈んでいる。呼吸ができない。何をすればいい。
脳が、弄られている。
僕の視界には、人魚の手が見える。ヒトのものではない、異形の手。どこかできいた。水柱は右腕を失ったと。
翌日。僕は布団の上で目が覚めた。今日は、八月の十三日。盆の入りだ。夕方には迎え盆に行き、森の墓地で火をともして、消さないように帰ってくる。そうして、母屋の仏壇のロウソクへ灯を移す。
そこから四日間。屋敷の先祖が、皆、帰ってくる。
「カナヲ、ご飯は」「しのぶ兄さん。今行きます」
僕は布団から跳ね起きて、ぱたぱたと階段を降りた。
■■■
――盆が始まる。どこかで、誰かが喋っている。
「冨岡さん、カナヲに何をしたんですか」
盆の最終日。胡蝶しのぶはいつもの大池に居た。あれから、カナヲはすべてを忘れていた。
屋敷のことを疑問にも思わず、異形の人魚と出会ったことも、おはぎを届けたことも、何もかもを忘れているらしい。
「本当に、きれいさっぱり忘れていますよ。ここ数日のこと。宇髄さんのタバコだけだったら、ああはなりません」
とんとん、と。胡蝶は宇髄の吸っていた葉巻を取り出した。派手でチャラいパッケージの中身は、特殊な薬草である。それを燻した煙を吸うと、記憶が混濁する。
それを仕掛けたのは胡蝶である。いうなれば、胡蝶しのぶも、宇髄天元も、グルであった。
「宇髄さんがうまく吸ったのでしょうか。それとも……冨岡さん。あなた何かしましたね?」
幾分か強い口調で、胡蝶が言った。冨岡は、視線を宙に漂わせ、それから。化物がそうするように、首をぐるりとめぐらせて、胡蝶の顔を見た。
表情は穏やかである。生命の紡がれた皮膚。冨岡とは比べるべもなく、生きた人間の証。煙草を吸う指先には、青白い血管が透けている。
「何もしていない。ただ」
とん。宇髄の使っていた灰皿を、今度は胡蝶が使っている。
「ただ?」
「『脅かして』やっただけだ」
ぎょろり。怪異の目玉がぐるりと動く。眼球結膜が、夜の色をしていた。水の張った結膜が、きらきらと輝いている。夜の色だ。あしさきを水につけたまま、人魚は数度まばたきをした。
ぱちり、ぱちり。不要になったはずのまつ毛は、いまだにふさふさと生えている。
首から下の体毛は消えたというのに、どうしてここだけ。
ぬめぬめとした体液のあふれるウロコのはざまを爪でなでる。はがれそうなウロコが一枚あった。
くい、と。
細長い爪先で一枚を引く。
ずぷり。簡単に抜けたその下から、新しい一枚が育ってきた。
「冨岡さん。聞いてますか?」
「聞いている。言っただろう。脅かしただけだ、と」
はふ。胡蝶の口から煙が漏れる。それはたおやかな紫で、朝焼けを連想させた。
「脅かしただけで、ああなるんですか」
「ならないな」
「なら、どうして」
「本人が忘れたかったのだろう」
ふわり。胡蝶が思考を巡らせる。確かに、実兄が怪異と交わり、全てをはぐらかされ、頼りになると思っている宇髄も怪異とグルで、しかも、親友の不死川までこちら側だったのだ。
確かに、嫌だろうな。
胡蝶はぼんやりとそう思って、主流煙を深く吸い込んだ。
「ねえ冨岡さん」「何だ」
とん、とん。今では古くなった煙草の灰を落とす。既に廃盤となり、どこにも売らなくなったふるい、旧い煙草は、ようやく押し付けられた量の半分が消えた。
法令順守の欠片もないな、と思いながら、それに染まっている自分はあまり嫌いではない。
ぴちり。人魚の耳・ヒレが動いた。ぽたりと垂れた水滴は、淡く清い水である。
「嫌ですよね。自分が世界から置いてかれるのって」
独り言のような、そうでないような。よくわからない一言に、冨岡は何の反応もしなかった。ただ、静かにまぶたを伏せた。
くりぬかれた世界で、僕は生きている。あれはいつだ。ここで溺れたあとだから、五歳のころ。ようやく言葉が理解できるようになって、輝利哉様とお話をして。君は十八まで持たないかもしれない。と。そういわれた。
当時の僕は何も理解できない子供だったが、その意味は理解ができた。
「胡蝶しのぶは十八で死ぬ、か」
とん、と灰を落とす。偶然か、愛飲している煙草も、アルファベットの十八番目【Regular】のRが大きくデザインされている。
十八、じゅうはち。色々と調べてはみたが、どうして十八なのか、いまだ答えにたどり着けずにいる。いずれ、解るのだろう。はふ。煙を吐けば、隣の人魚が水に戻った。
「どうしました、冨岡さん」
人魚に声をかける。彼女は水膜を得るように、こぽりとひと潜りして、再び顔を出した。
「来る」「何がです?」
「何か、持っている。果物だ」
はて。何が来るのか、胡蝶には見当もつかなかった。だが、冨岡が来るというのなら、きっと何かが来るのだろう。夜闇を見つめた人魚は、星空を切り取ったような大池のまんなかで、天空に輝く月を見つめている。