【曦澄】『苦くてろくなものじゃなかったけれど』なあ、これ。吸ってみないか。
悪友が耳打ちする。手元に示されたものは三本の煙草。もちろん校則違反だし、なんなら法律違反でもあった。
「どこから持ってきたんだ、こんなもの」
「まあまあ、いいだろ、どこだって。大丈夫、普通の煙草だからさ」
「何を根拠にそう言えるんだ、お前……」
胡乱げな顔をする江澄に構わず、魏無羨はにやっと笑うばかりだった。
「いいじゃん、細かいことはさ。それより、なあ、興味ないか? 試しに一本だけ吸ってみようぜ」
「臭いついちゃわない? 教室に戻った時にバレるかも」
懐桑の言葉に、それも大丈夫と、ガムを出してきた。そういうところばかり、抜け目がない。
昼休み、屋上の給水塔の裏でこそこそと集まって何をしているのか。煙草だなんて、見つかったら怒られるに決まっている。
幸い屋上には自分たち以外の姿はなかったが、臭いは残るし、吸い殻はどうするのか。ガムで隠しきれるものだろうか。
渋面のままの江澄に、だが、細かいやつだな、大丈夫だってと魏無羨は取り合おうとしなかった。
「一本だけだぜ? どうとでもなるって。なんだよ、江澄。お前、興味ないの?」
「いや……」
興味がないと言えば嘘になる。酒と同じだ。未成年には禁止と言われると、かえって逆に興味をそそられる。そういうものだろう。
ただ、学校で隠れて喫煙をするとなると躊躇われた。見つかったら後が面倒くさい。
だが、どうしても後先のことを考えてしまう江澄とは異なり、魏無羨は面白そうとなったら一直線だ。どうとでもなる。その精神で突き進んでしまう。そして、大抵のやらかしの尻拭いは江澄がする羽目になるので、たまったものではなかった。
これまでの経験上、どうしても躊躇してしまうのだが、魏無羨は焦れったくなったのだろう。ほら! と煙草を一本、江澄の手に押し付けてきた。
「嫌そうな顔をしたって無駄だぜ? お前、やめろとは言うけどさ、嫌だ、要らないってさっきから一度も言わないもんな? 本当は興味あるんだろ?」
「……このやろう!」
「ははっ、俺の勝ちだな! 大丈夫だって、一本くらい。誰かが来る前にささっと吸っちゃおうぜ」
ほら、懐桑も。そういって押し付けられた煙草に、懐桑も仕方ないなあと苦笑した。
「まあね、私もどんな味なのか、興味あるしね。うん」
「そうこなくちゃ! 火もあるぜ」
差し出されたライターを受け取り、火をつけようとして。江澄は首を傾げた。
「どうやってつけるんだ? これ」
つけた火に煙草の先を炙っても先端が少し赤くなるだけで、うまくいかない。
「確か、吸いながらつけるんじゃなかった?」
懐桑が煙草を口に加えながら説明してくれる。なるほど、そういうものか。
味を知らないのに、火のつけ方は知っているってどういうことだ。本当に初めて吸うのか? そう思ったが、ほら、テレビとかで見るじゃないと言われてしまえばそれまでだ。
そうして、三人で煙草に火をつけ、煙を吸い込んだのだが。
「……っ!」
「っ、げっほ! なんだこれ! まっずい!」
「まずい! ていうか、気持ち悪い~」
三者三様に舌に残る苦味と煙に咳き込み、目に涙を浮かべて苦しそうに噎せた。
「だめだ、吸えたもんじゃない」
江澄はあっさりと煙草を床に押し付け、火を消した。
とてもじゃないがこれ以上は吸う気になれない。とにかく不味かった。
こんなに不味いと先に教えてくれていれば吸わなかったのに。なぜこれを美味そうに吸う大人がいるのだろう。江澄には不思議でならなかった。
懐桑も同じだったのか、すぐに火を消し、ティッシュに包んでごみ袋に放り込んでいる。魏無羨はまだ未練があるのか、不味そうに顔を顰めながらも、どうにかして吸えるようにならないかと睨んでいた。
「もうやめろよ、往生際が悪いな」
「だっておかしいだろ。これを美味そうに吸ってるやつがいるんだぜ? 美味く吸うコツみたいなのがあるんじゃないか?」
「知るかよ。とにかくもうやめて、さっさと片付けろ。誰かに見つかったらどうする」
「そうだよ。もうやめたまえ」
「え?!」
三人はぎょっとして辺りを見回した。だが、人影は見当たらない。
「あ、上……」
懐桑の声に江澄と魏無羨もバッと上を向く。そこには温和な笑みを浮かべた上級生がいた。この校内で一番有名な上級生、生徒会長だ。
「曦臣義兄上……そんなところにいたの」
いつの間に。ぼやく懐桑に、君たちが来る少し前からだねと生徒会長、藍曦臣はにこりと笑んだ。トッと軽やかな音を立てて、給水塔横、屋上までの階段の屋根の上から一息に降りてくる。
「天気が良かったから人目につかないところで日向ぼっこをしていたんだ。そうしたら声がするのでね」
しばらく黙って様子を見ていたんだけど。まさか隠れて喫煙とはね。困ったように笑う藍曦臣に、三人はきまり悪げに視線を逸らした。
どうしよう、よりにもよって生徒会長に見つかるとは。きっとそのまま先生に伝わってしまうだろう。親にも連絡がいってしまうかもしれない。ああ、だからやっぱりやめておけばよかったのだ。
後悔してももう遅い。なぜいつも同じことを繰り返すのかと江澄が忌々しげに唇を噛んだ時だった。
「君たち、反省してもう二度としないと約束してくれるなら、このことは黙っておくよ?」
「え?」
「先生に言わないの?」
「言ってほしいかい?」
とんでもない! と懐桑が首を横に振る。大哥にバレたら怒られる! と青い顔をした懐桑は、お願い、二度と吸わないから黙っててくださいと藍曦臣を拝んだ。必死か。
「わかった。その言葉、信じよう。二度目はないよ」
「うん、もちろん。だってとても不味かったもの。頼まれたってもう吸わないよ」
「ふふ。それはよかった。君たちは?」
藍曦臣が江澄たちのほうを向く。俺ももう吸いませんと江澄は項垂れた。
「もう吸わないです。すみませんでした」
「俺もです」
藍曦臣は、もう二度と吸わないと口を揃えた彼らに満足そうに頷くと、じゃあ約束だからねと言い残して、屋上から出て行ってしまった。
「なあ、本当に黙っててくれると思うか?」
藍曦臣の姿が見えなくなった頃、魏無羨がぼそりと呟いた。
「言わないだろ、あの人は」
「なんでそんなこと言い切れるんだよ。優等生の生徒会長だぞ。先生のウケだっていいし」
「江兄の言う通りだよ、魏兄。曦臣義兄上は嘘をつかないもの。約束は守ってくれるよ」
私たちがもう二度と隠れて煙草なんて吸わなければね。
自分たちが約束を守る限り、彼も約束を守ってくれる。懐桑の言葉にようやく納得したのか、魏無羨は、ならいいけどとぼやきながら吸い殻を片付け始めた。念のため噛んでおこうとガムを口の中に放り込む。
「ああでも、見つかったのが曦臣義兄上で良かったよ。先生だったらやばかった」
「そうだな」
「ああ、もう屋上で吸うのは止める」
「そうじゃないだろ!」
「わかったよ、学校では吸わないって」
「だから! 喫煙をやめろって言ってるんだ!」
だが、あれから。
懲りてなかった魏無羨が美味く吸う方法があるのではないかと諦めきれず、何度か隠れて吸ってしまい、とうとう風紀委員の御用となった。
巻き込まれずに済んでよかったと思いつつ、せっかく藍曦臣が見逃してくれたのに、厚意を無下にしやがってと苛立ちつつ。江澄としては呆れのため息をつくしかない。
「彼も困ったものだね」
「すみません……」
苦笑する藍曦臣に申し訳無さが募る。いくら悪友とは言え、止められなかった己の無力さが気まずかった。
「君のせいじゃないよ」
「先生には言ったんですか?」
「いや? 私はまだ言っていないよ。でも、忘機は真面目だからね。私のように見逃す気はなかったんだろうね」
風紀委員に見つかってしまえば、そのまま先生に報告されてしまう。魏無羨の自業自得としか言いようなかった。
「好奇心の塊なんだね、彼は」
「あいつは痛い目を見るまで懲りないんです。すみません」
「あんなに不味い不味いって騒いでいたのにねえ」
思い出したのか、くすくすと笑う藍曦臣に、江澄はきまり悪げに視線を向けた。
「そんなこと、覚えてるんですか?」
「覚えているとも。三人して涙目になっていただろう? 不味い、気持ち悪いって苦しそうにしていたからね。ああ、これは十分懲りたなって思ったんだ。こんなに苦しい思いをしたなら、わざわざ罰を与えなくても、君たちはもう隠れて喫煙なんてしないだろうって思ったんだけど」
でも、彼は違ったんだね。苦笑する藍曦臣に、すみませんと再び江澄は頭を下げた。
「君が謝ることないのに」
「でも、俺はあいつの友人だし、もっとちゃんと止めるべきでした。なのに、あなたの厚意を無下にしてしまって」
「残念ではあるけれどね。でも、君と懐桑はあれから吸ってないんだろう?」
「はい。あれっきりです。もう懲りました。あなたの言う通り、本当に不味くて。二度と吸いたいとは思わなかったです。あいつも、ずっと不味い不味いって言ってたんですけど、なんとかして美味く吸える方法を見つけてやるって意地になってて」
「なるほど、研究熱心だったか」
美味しそうに吸っている人を見てしまったせいなのかな。いっそ笑いだしてしまった藍曦臣に、いたたまれないと江澄が身じろぎする。
「まあ、そう固くならなくても。先生からお叱りは受けるだろうけれど、理由が理由だからあまり重い処分はされないかもしれない」
「だと良いんですけど……」
ふうとため息をつく江澄に、君は真面目だねと藍曦臣は微笑んだ。
「真面目で素直だ。だから生徒会に勧誘したんだけどね」
「そうなんですか?」
「うん。真面目で、自分が悪いことをしたらすぐに改められる子だ。義理堅さもある。いい子だなあと思ったんだ。きっと君は生徒会に向いていると思ってね」
「そ、うでしょうか……」
急に褒められて、江澄はあたふたと俯いた。こんなてらいのないまっすぐな言葉を言われたのは初めてで、顔が赤くなってしまう。熱くなった頬をごまかすように、江澄は何度か咳払いして口元を拭った。
「あの日、屋上に行ってよかったよ」
「え?」
「君たちの初めての喫煙を見つけたのが私で良かった」
「そうでしょうか……」
「そうとも。だって、それが縁で私は君と知り合えたし、生徒会に勧誘もできたんだから」
あれから。校内で姿を見かけるたび会釈を返す江澄の目は、いつだって雄弁に語りかけていた。
約束は守っています。あれからもう煙草は吸っていません。
そう口には出さずとも眼差しで報告されているようで。その素直さと律儀さが微笑ましかった。義理堅くて、真面目で。とても良い子だと思ったのだ。だから声をかけた。一緒に生徒会をやらないかと。
江澄は、初めは驚き、どうして自分なんかがと狼狽えていたが、やがて熱意に絆されたのか、藍曦臣の誘いに応じ、今は書記として頑張ってくれている。見込んだ通りだ。
「うん。だから、今となってはあの出会いに感謝しているよ」
「俺はもうちょっとマシな出会い方をしたかったです……」
「まあまあ」
そう悪い方向ばかりに考えなくても、結果が良ければいいじゃないか。宥めるように藍曦臣は江澄の頬を撫でた。