【warm me up.】 ドアベルの軽快な音が響く。それとは裏腹なじっとりと重たい靴音も。日が沈む頃にひっそりと開く喫茶店、コーヒートーク。一人の吸血鬼がそのドアを開く。先客はおらず、店内には店の主であるバリスタの姿だけがあった。
「いらっしゃい、ハイドさん」
店に足を踏み入れるなり、ハイドはカウンターの向こう側、カップやソーサー、シュガーポットの並ぶ棚から何かを探すように視線を泳がせた。
「バリスタ、この店にアルコールは……」
「すまない、置いていなくてね。そのご様子だと飲みたい気分ということかな?」
「まあ、そんなところだ。だが、今からバーに行く気にもなれない。何故なら……」
「何故なら?」
「この雨だ」
カウンターチェアに腰掛けるとうんざりとした顔で窓の外を指さすハイド。雨の街シアトル。この街にとって雨はあまりにも身近なものだ。しかし今この瞬間の雨風はとかく乱暴で、見ればハイドの脱いだコートには大粒の滴が光っていた。
「気が付かなかったな、いつの間に……」
「しばらくはここで過ごす他ないだろうさ。それに存外、私はこの場所を気に入っている。酔っ払いに絡まれる心配がないからな」
この店の常連客の狼男ならきっとこう通訳しただろう。「今のはハイド流に褒めている」と。店の奥から新品のタオルを引っ張り出しながら、バリスタはひとり顔を綻ばせる。
忙しない日常。多すぎる情報量。この現代社会でほっと息をつく時、人は癒しを求め何処へ辿り着くだろうか。コーヒートークという場所は、シアトルに生きる者にとってひとつの止まり木であった。少なくともこの吸血鬼にとってはそうたり得た。
「そんな風に言っていただけるお得意様にひとつ、秘密のご提案を」
タオルを手渡すと声をひそめ、にやりと悪い顔をつくったバリスタ。秘密、という言葉にハイドは分かり易く身を乗り出した。
「おい、そいつは大っぴらに出来るような話か?」
「しっ、誰かに聞かれるとまずい」
バリスタは二人だけの店内を大仰に見渡し、やはりそこに自身とハイドしかいないことを確認すると店の外、ドアプレートをひっくり返しコーヒートークを【CLOSED】にしてしまった。
素知らぬ顔で店内へと戻ってきたバリスタはとある戸棚を静かに開く。取り出されたのは一本のウイスキーボトル。そのままカウンターに置かれた瓶は照明を反射して怪しく光った。ハイドがほう、と楽しそうに口角を上げる。
「うちはアルコールは提供していない。だが、コーヒーに関してのあらゆるリクエストには応えて然るべきだ……」
未開封のアイリッシュウイスキーの瓶。その蓋がバリスタの手によって躊躇いなく開かれると、間も無く芳醇なアルコールの香りが二人の鼻腔をついた。
「つまり、コーヒーという範疇でなら……ハイドさんのご所望のものを提供できるかもしれないというわけさ」
バリスタが視線を手元に落とす。ハイドはその手元を静かに見つめている。ひっそりと企みを実行に移していく二人はシアトルの一角、小さな喫茶店で共犯者になる。
コーヒーの一滴を抽出するマシンの音、真白なホイップを泡立てる音。この夜限り、特別な一杯のために様々な音が夜のしじまに響いていく。耐熱グラスにウイスキーが注がれる時には、そうだ、もっと入れてくれとそそのかす吸血鬼がいたが、善良なるバリスタが聞き入れることはなかった。
そして待ち望まれた一杯がカウンターへと提供される。
「お待ち遠さま。寒くて暗い夜とクリームの雨雲、アイリッシュコーヒーの出来上がりだ。こんなに冷える夜にお酒を口にしたくなるのは道理だろうね」
「……バリスタ」
ハイドは差し出されたカップにこわごわと触れる。そこにはただ、グラス越しに伝わるほの温かさだけがあった。アルコールを求めた理由についぞバリスタが触れることはなかったのだ。そのもどかしいほど優しい温度がハイドの心を充たしていく。甘くて苦い、秘密のレシピ。
「冷めないうちにどうぞ。あたたまりますよ」
促されるままグラスに口を付けた彼はその甘やかで柔らかな舌触りに心底驚く。ほっと体があたたまり、それは即ち救いとなった。
「こいつは笑えるぐらい甘いな、バリスタ!」
ハイドは口元にクリームの髭を作り、笑う。