その小指に誓え◇◆──────────
「オレと、お別れしてください」
消えいるような声で、しかし目線は真っ直ぐこちらを向けて、九門はそう告げた。莇は、縋ることも反論することもなく、「わかった」と返した。そのときに九門が浮かべた安堵の表情が、今でも忘れられない。
九門と莇が「友達」に戻ってから、もう少しで四年が過ぎようとしている。
◇
莇の高校卒業に伴ってルームシェアをすると言い出したとき、劇団の仲間はみな九門と莇の「仲良しコンビ」ならきっと上手くやっていけるだろう、くらいの反応しか示さず、さまざまな言い訳を考えていた二人は拍子抜けした。
念願の二人暮らしを始めるに際して、最初に話し合って、生活上の約束を決めていった。まず炊事、洗濯、掃除、その他諸々の家事は交代でこなすことにして、ホワイトボードを使って分担表を作った。それから互いの学校や稽古、アルバイトの予定などはスケジュールアプリを共有して把握できるようにした。
二人とも元から連絡はまめなほうであったことと、アナログとデジタルのあらゆるツールを使いこなしたおかげで、生活にあたって不都合が生じることはほとんどなく、困ったことがあればその都度話し合って解決することができた。
忙しい学生生活の合間を縫ってデートの日程を決めるときなどは毎回気分が高揚した。九門が不在のときにこっそり新しい服を買いに出かけ、デートの当日に着て見せて驚かせるのが、莇は好きだった。
外へ出かけない日も、二人で狭いキッチンに並んで作り置きのおかずを大量生産したり、家具を動かして大掃除したり、部屋を暗くして、手を繋いで映画を観たりした。九門と一緒なら、何をしていても、何もしなくても楽しかった。
二人暮らしを始めて一ヶ月、付き合ってからは実に三年目にして、二人はようやく初めてキスをした。それから莇は、少しずつ恋人同士の触れ合い方を覚えていった。抱き合ってお互いの背中を撫で合うと心地がよくて安心すること。手を繋ぐとき、指を一本一本交差させるとより深く、しっかりと繋げること。キスには種類があること。普段は隠れている場所を、本当に愛している相手になら見せても、触らせてもよいこと。そしてそれは、何も考えられなくなるくらい気持ちがよいこと。
どれもが莇にとっては初めてだったし、九門だって知識はあれど、だれかとここまで深く触れ合えるような関係になったことはない、と言っていた。自分にとって初めての恋人が九門で、九門にとっての初めての恋人が莇であることが奇跡のように感じられた。九門と二人だけで暮らせることが、とにかく毎日嬉しくて、幸せだった。
ただひとつ、莇には気がかりなことがあった。服を脱いでお互いの身体に触れ、高めあうことはあっても、九門はそれ以上を求めてこなかったのだ。
ことあるごとにキスをせがんでくる九門のことだから、きっとすぐに先へ進みたがるだろうと思って、莇はいつ求められてもいいようにひそかに知識を得ていた。しかし二人で暮らし始めて一年経っても、九門は「抱きたい」とも「抱いてほしい」とも言わなかった。
自分から誘うのは照れくさいし、もし断られたらと思うと言い出す気になれず、ほんの少しの引っかかりを抱えたまま、莇はひたすら九門が歩み寄ってくるのを待っていた。
九門が大学四年になり、卒業論文の準備に追われ始めた頃から、莇の中で違和感は少しずつ大きくなっていった。九門との関係が離れていくように感じられたのだ。
二人で出かける頻度は多忙になったことを差し引いてもそれほど減ってはいなかったが、九門は「デート」という言葉を使わなくなった。肩や背中に触れられることはあっても、外で手を繋ごうとしなくなった。部屋でキスをするとき、唇が触れ合うだけで終わるようになった。
莇がいつまでも照れるから九門が遠慮してしまったのではと懸念して、勇気を出して腕を掴んでみたり、自分から頬にキスしてみたり、莇なりに頑張ってはみたけれど、九門はその度に困ったような顔をするだけだった。
次第にキスをすることがなくなって、二人の関係はルームシェア中の友人同士とさほど変わりないくらいに浅くなっていった。それでも九門が莇に優しく、よく気遣いのできる男であることは変わらず、それが余計に莇を混乱させた。嫌われたわけではないだろうに、どうしてこうなってしまったのか、考えてもわからなかった。
九門は莇に直接の好意をあまり伝えなくなったくせに、時折莇をじっと見つめた。その表情は悲しげで、今にもその大きな丸い両目から涙がこぼれ落ちそうだった。
その年の十一月、九門は莇に別れを告げた。
九門は涙を拭きながら、決断の理由を語った。少し前から気持ちが離れていたのだ、と。九門の言葉が嘘を含んでいることに、莇はすぐに気づいた。九門は嘘をつくとき、服の裾を弄ぶ癖がある。そのときの九門が着ていた青色のスウェットは、裾が引っ張られて生地が伸びてしまいそうだった。
それでも莇は、九門の本心を追及することができなかった。
アパートの契約の区切りとなる三月までの数ヶ月、九門と莇は「友達」としての共同生活を続けた。元の関係に戻っただけで、何ら難しいことはない。けれど時折襲ってくる虚しさはどうにもならなかった。
ルームシェアを解消してから莇はMANKAI寮に戻り、九門は四月に入社した職場の近くで一人暮らしを始めた。莇だけが戻ってきたとき、カンパニーの団員たちは彼らが仲違いしてしまったのではないかと心配した。しかしたまに寮を訪れる九門が変わらず莇と親しげに接しているのを目にして、杞憂だったかと胸を撫で下ろすのだった。
揃って高校生だった頃から九門が大学を卒業するまでの間、二人が恋人であったことを、二人以外は誰も知らない。団員たちも、監督も、志太も、九門の両親も、莇の父親も、皆彼らは出会った頃からずっと仲の良い友達同士だと信じて疑わなかった。
本当は九門としばらく距離を置いて気持ちに整理をつけたいところだったが、自分たちの友人関係を信じてくれている皆に心配をかけるわけにはいかない。莇は極力以前と変わらずに九門に接するようにしたが、初めは顔を合わせるたびに胸がズキズキ痛んだ。
思い返せば、苦しかったのはまた戻れるのではないかとわずかながらに期待していたからかもしれない。まだ好きだ、と言ってしまおうか、と何度も考えたし、九門のほうから言ってくるのではないかと想像もした。しかし一年が過ぎ、二年が過ぎても、以前のように戻ることはなかった。
三年が過ぎた頃、莇はようやく九門と二人になることに苦痛を感じなくなった。期待を捨て、諦めたことで、友人同士で十分じゃないかと思えるようになったのだ。
九門は今年で二十六になった。とっくに女性のパートナーを見つけていて、じきに結婚してもおかしくない。九門が幸せならそれでいいと思えた。九門は恋人がいるそぶりなんて少しも見せなかったけれど。
莇が二十四歳になってまもなく、十一月のある日、九門は「うちに来ない?」と莇を誘った。
九門の新しい住まい──と言っても九門が暮らし始めてからはしばらく経っているが──に上がるのは初めてだった。それまでも何度か誘われたことはあったが、気持ちに整理を付けるのに長い時間がかかっていたせいで、その度に断っていた。
電車を乗り継いで、四十分ほどで九門の暮らすアパートに着いた。
「今、誰かいる?」
「へ?」
「あ、いやその、一緒に住んでる人とかいるなら、何か手土産とか持ってくればよかったなと思って。彼女とか」
「いないよ、そんな人」
九門は被せるように否定した。莇が驚いて肩を跳ねさせたのを見て、九門は慌てたように笑顔を浮かべた。
「たまに大学時代の友達が遊びには来るけど、ずっと一人暮らしだよ。この四年」
「…そーかよ」
九門の部屋はよく整頓されているおかげか、思ったよりも広く見えた。二人で暮らしていたときも、掃除や片付けに関しては九門のやり方に従うと効率が良くて綺麗になることを思い出した。
「綺麗な部屋だな」
「へへ、ありがと! 最近、稽古ないと掃除くらいしか楽しみがなくて」
「ふーん」
「あ、夜、何か作るな。簡単なものになるけど…青椒肉絲とかでいい? ご飯はレンチンのになっちゃうけど」
「悪いな、俺も何か手伝おうか」
「いや、大丈夫! 座ってて。テレビ、このリモコンでユーチューブ観られるから自由に使って」
莇は大きなクッションソファに腰掛けて、適当に動画を流しつつ、目線はキッチンで料理をする九門の後ろ姿を眺めた。かつて料理音痴だったのが嘘のように手際よく食材を刻んでいて、そんなところからも時の流れを実感した。
二人だけで並んで食事をするのは久しぶりだったけれど、気まずさはなく、和やかに時間が過ぎていった。料理はそれなりに美味しく、この数年間で九門が自炊のスキルを向上させていたことがわかった。
「ご馳走様、美味かった」
「ありがと。お皿片付けるね」
俺がやる、と言いそうになるのを堪え、礼を言って皿を手渡した。二人暮らししていた頃は基本的に食事は二人で作っていたし、どちらかが一人で作るときはもう一人が洗い物を担当する決まりだった。
「あのさ莇、ちょっと、話したいことがあって」
流水がシンクを叩く音に紛れることなく、はっきりと九門の言葉が聞こえた。
「…わかった」
莇は動画を止めた。
洗い物を終えた九門は、再び莇の隣に座った。深く呼吸をしてから、九門はゆっくりと話し出す。
「単刀直入に言うんだけど、オレやっぱり、莇のことが好き」
「……うん」
「別れたときさ、気持ちが離れたとか何とか、言ったでしょオレ。あれ、嘘だったんだ。そう言わないと、莇は別れてくれないと思ったから」
そんなの、とっくにバレている。
「本当は、なんで別れようと思ったんだよ」
「これからの莇の人生、オレが縛っちゃうことになるって考えたら、それは莇にとってよくないって思っちゃって……だからいつかは別れなくちゃって。だから少しずつ距離置いて」
「バカ」
「そうだね。オレ、バカだ。バカだしダメなやつだ。自分から別れたいって言ったのに、ずっと、ずっと莇のこと諦めらんなくて。莇に会うたびに好きって言いたいの我慢してた」
馬鹿野郎、ふざけるな。苦しかった時期を思い返して、莇は怒鳴りそうになった。しかし九門の声が震えているから、ぐっと堪えた。
「俺たちさ、何か困ったことがあったら、二人で話し合って解決してたじゃん。なんでそんな大事なこと、ちゃんと話し合おうとしなかった」
「ごめん……」
「謝ってほしいんじゃねぇんだけど」
「大学三年くらいのとき、実家に帰ったらさ、お付き合いしている人はいるのって、母ちゃんに聞かれたんだ。オレ、いるって言えなかった」
「それは仕方ねぇだろ。俺もお前も男だし、そりゃ男女の交際よりはハードル高いし」
「でも、いつかは言わなきゃいけなかった。オレ、莇のお父さんに、オレが息子さんと付き合っているから、お孫さんを授かることはできませんって、そんなこと言えないって思った」
とうとう九門は涙を流し始めた。そういえばあのときも、九門は泣きながら話していたっけ。莇は四年前の光景と重ねていた。
「ちゃんと莇と話そうとも思ったよ。莇はきっと、そんなことどうだっていいって、オレたちの気持ちが一番大事だって、そう言うだろ。それでオレは莇の優しさに甘えちゃう。いつかぶつかる壁がどんどん近づいてきてるのに、そこから目を逸らしちゃう…だから、言わなかった」
莇はコップに入った温かい緑茶を飲み干して、ふう、と息をついた。
「それなのに……あんなに莇にひどいこと言ったのに、オレやっぱり、莇じゃないとイヤだ。ごめん。今さら勝手なこと言ってるってわかってるんだけど……」
俯いていた九門が、莇の肩を掴み、ぐい、と向き合わせた。ごめん、と言う割に行動は強引だ。
「ごめん。オレはひどいやつだ。よくないことなのに、やっぱり莇の人生、オレに縛りつけたい。ずっと一緒にいたい……」
なんて奴。莇はもはや感心する域に到達していた。腕を伸ばして、九門の頬を伝う涙をティッシュペーパーで拭ってやった。
「言うの遅すぎんだよ」
「誘っても断られたから…」
「強引にでも言え、バカ。いつか壁が来るだ? んなの、来てから考えりゃいい。俺はそのくらいの覚悟、とっくにしてたっつの」
出会った頃から、莇は九門に振り回されっぱなしだ。憎らしいのにどうしようもなく愛しくて、こんなふうに愛をぶつけられたら、応えないわけにはいかなくなってしまう。せめて何か、一矢報いてやろうと思った。
「俺を抱こうとも、俺に抱かれようともしなかったのも、そんなことウジウジ考えてたからか」
「えっ」
九門は涙目のまま驚いた顔をした。表情だけでここまで感情がわかりやすい人間を、莇は他に知らない。
「で、何? また俺と付き合いてーってこと」
九門はぐしゃぐしゃの顔で、大きく頷いた。
「じゃあ、小指出せ」
「…え?」
「いいから出せ。次別れるとかほざいたら…」
「あ、ああ…指きりってこと…?」
戸惑いながら九門が差し出した小指に、莇はガブリと噛み付いた。
「ヒッ! 痛い痛い、痛い! 何⁉︎ やっぱり怒ってるの⁉︎」
満足するまで思いきり噛んでやって、ようやく解放すると、九門の小指には赤い歯型がついて、唾液で湿っていた。
「いいか、次別れるっつったら『ケジメ』つけさせるからな」
「は、はい……」
戸惑いが隠しきれない九門の両肩を今度は莇が掴んで、半開きのままの唇に自分のそれを押し付けた。
四年半ぶりのキスは、中華料理の味だった。
──────────◆◇ おわり