例えば、番から始まる恋があったとして まずった。バッグの中を漁りながら、あたしは大いに焦っていた。
その日はバンドの練習日だったが、ヒートと被ってしまった。予定日よりも随分早く来たヒートにただでさえ動揺していたのに、そんな日に限って薬を家に置いてきてしまったらしい。パニックになりながらバッグをひっくり返して中身をぶちまける。薬のケースが見当たらない。身体も吐く息もみんな熱い。思考が茹る。
「……美咲ちゃん?」
控え室のドアをノックする音がして、次いで控えめにドアが開けられる音がした。心配の色を含んだ花音さんの声。きっとなかなか練習に来ないあたしを心配して来たんだ。
床に蹲ったままの姿勢から動けないあたしに駆け寄って、背中に手が添えられる。
「……っ、」
たったそれだけの刺激ですら、今のあたしにはしんどくて。
「大丈夫、美咲ちゃん!? ヒート、だよね」
今の真っ赤になっているであろう顔を見られたくなくて、ちらりと横目で花音さんを見る。あたしに添えている方と反対の手は鼻を覆うように添えられている。
ベータの筈の花音さんにまで分かってしまうほど、フェロモンが漏れてしまっているのか。
「……ぁ、くすり、なくて、」
「そうだったんだね……。黒服の人たちにお願いしよう! 私呼んでくるよ!」
あたしがオメガなのを知ってるのは、ミッシェルの件同様花音さんと黒服の人だけだ。
こころはアルファ。あたしがオメガであることは知らないけれど、彼女に被害が出る恐れがある今、黒服の人ならきっと手を貸してくれる筈だ。
少し思案した後、頷いた。出来るだけ一人でなんとかしたかったけど、もう人の手を借りるしかない。
花音さんが立ち上がり、踵を返して……足を止めたのが、視界の端に映る。
「……薫さん? どうしたの……?」
花音さんの戸惑う声が聞こえて、バッと顔を上げる。
開けっ放しだった控え室の入り口に、薫さんが立っていた。その後ろにはこころとはぐみもいる。二人ともぽかんとした表情で此方を見ているだけだったが、薫さんの様子がおかしい。
顔を赤く上気させて、目は潤んで虚ろで、息は上がっている。
———まるで、今のあたしみたいに。
そうだ、薫さんも、“アルファ”だ。
「!! こころちゃんはぐみちゃん、薫さんを押さえてッッ!!」
悲鳴に近い花音さんの声が聞こえた時には、既にあたしの視界はぐるんと反転していた。天井が見えて、照明の光を遮るように薫さんの顔が視界いっぱいに広がる。
「ぁ……?」
薫さんに押し倒されたと気付いた時には、もう完全に上に乗られていて、身動きが取れなくて。
「ぁ、ゃ、かおるさ、」
もがく手首を掴まれる。指が首筋をなぞって、それだけで背筋がぞくぞくして、思考が蕩けて、触られたところが熱くて仕方ない。
「美咲」
湿った声で名前を呼ばれる。見上げた薫さんの顔がいつもと違ってて。怖くて。
「……ッ! や、だッッ!!」
気が付けば、吐き出した拒絶の言葉と同時に思い切り薫さんを突き飛ばしていた。
尻餅をついた薫さんが、あたしを見据える。熱の篭った視線は、今まで見たことなかったもの。それが今あたしに向けられていることに、耐えられなくて。
「あ、美咲ちゃん!」
怖い。あたしがオメガってだけで、薫さんがあんな風に豹変してしまうなんて。そんなの見たくなかった。そんなの知りたくなかった。
突き飛ばした瞬間の薫さんのショックを受けたような顔。目を伏せるこころの顔。驚いたようなはぐみの顔。心配の眼差しを向けてくる花音さんの顔。どれも、あたしが向けて欲しくなかったものだ。
フラフラと立ち上がって、未だ入り口に立っていたこころとはぐみを押し退けて控え室を飛び出す。薬を飲んでないのに、早くこの場から逃げ出したいその一心で。
あたしがオメガなせいで。あたしのせいで、ハロハピが崩れていく。拗れていく。
駆け込んだ先のトイレで、個室のドアに手を掛ける前に限界が来て崩れ落ちる。息が苦しい。目頭が熱くなる。
「……あたしなんて、居ないほうがよかった……ッ、」
オメガなんて欲しくなかった。オメガなんて持って生まれたくなかった。あたしは、
「———大丈夫ですか?」
声が聞こえて顔を上げる。花女の制服を着ているけど、知らない人だ。
驚いたような顔をしている彼女を、ぼんやり見つめる。そりゃ、発情したオメガがトイレに居たらびっくりもするか。
彼女が此方に歩み寄って、顔を覗き込んでくる。嫌だ。見ないで。来ないで。
手が伸びて、頰に触れてくる。
「ひ、……!」
「助けてあげましょうか?」
指は頰からゆっくりと降りて、うなじへと。
逃げなきゃ。そう思うのに身体に力が入らない。
「美咲!」
笑う女子生徒の反対側から引っ張られて、抱き寄せられる。切羽詰まった薫さんの声がしたと同時に、うなじに鋭い痛み。
「ッ、あ……っ!?」
ぴり、とした刺激に身体がぶるりと震えて、あたしじゃないみたいな声が漏れる。うなじを噛まれたと気付いたと同時、女子生徒が逃げるように走り去っていく。
振り向かなくたって、誰が抱き締めているのか分かる。ただ、後ろから抱き締められている為、どんな表情をしているかは分からない。その身体にぐったりと体重を預けるあたしには、もう振り向く気力すらも無かった。
「かおる、さん……?」
「すまない美咲、咄嗟に、ああしなければならないと思って、でも私は、とんでもないことを……!」
抱き締める腕の力が強くなる。どうやら危なかったあたしを見て、助けようとしてくれたらしい。
「……あたしのこと、嫌いになってないの……?」
薫さんのことを拒絶したのに。オメガのこと黙ってたのに。
それなのにどうして、あたしを助けてくれるのだろう。
「嫌いになる訳、ないじゃないか」
薫さんの指が、優しくうなじを撫でる。さっきの女子生徒にやられた時は不快感が強かったのに、今はそれが心地良い。
不意打ちとは言えうなじを噛まれて番になってしまったからなのか、身体の熱は次第に落ち着いていた。
「私がアルファだからとか、美咲がオメガだからとか、そんなことは大した問題じゃなくて……。ただ、美咲のことが好きなんだ」
こんなことをした後では説得力がないかもしれないけど。
そう言ってあたしの肩口に顔を埋める薫さんの声は震えている。
「順番が逆かもしれないけど。美咲のことが好きなんだ。……私の、私だけの恋人に、番になってくれないか」
もうヒートは収まったのに、薫さんの声を聞いて体温を感じていると、胸がドキドキする。
「……薫さん、顔上げて。そっち、向いていい?」
恐る恐る顔を上げた薫さんの頰に手を添えたのなら、返事の言葉の代わりに唇を塞いだ。あたしらしくない行動は、きっとまだヒートの熱が残っているせい。