2025-04-25
よせばいいのに土塊を触った。ついさっきまでは失われた人の形をしてたはずなのに、化け物に踏まれて、もう散々。胸の悪くなるような腐った土のにおいと、崩れてなお残る見開いた眼を閉じてやりたかった。
あの時も、助けを請われた。ディジーはまだ生きていて、ビクトールの名前を呼んだ。もう声もあんまり覚えていない。だけれど、大きな青い目が恐怖にゆがんでいたのは脳裏に焼きついている。さっきも同じ目をしていた。その目のまま、土塊はただぐずりと溶けていた。
土とも人の肉ともつかない塊が指に絡みついたのか、それとも沈み込んだのか。手袋越しでさえ異様な感触だった。冷たく、湿り気を帯び、錯覚のように熱がある。人間のものではない。断じて、あれは人間ではなかった。
少し視線をやれば、この頭が乗っていた体が横たわっている頭よりもぐちゃぐちゃに踏みつぶされてもう原型をとどめていない。ただの土塊だ。あれだけ踏みつぶされて、血の流れない人間があるものか。人間ではない。こんな冷たい人間はいない。
触れることが恐ろしかった。切り飛ばしたから触れられるのだ。もし、触れて、人間のように温かだったら自分は何を斬ったことになるのか、自覚するのが恐ろしかった。
首を切り飛ばした感触を覚えている。最初も、二度目も。土塊から指を引く。ひどい匂いだ。
タイラギたちが呼んでいる。立ち上がった自分の足が、震えている事に気づいた。
行かねばならない。
「……ダメに決まってるだろう」
わざわざ口に出して、声にして、耳に響かせなければ勝手に歩いていきそうだ。どこへ向かうべきかも分からぬ旅の辛さは骨身にしみているというのに。
サウスウィンドウが落ちて、また宙ぶらりんだ。市長を失ったサウスウィンドウ市が自分たちを受け入れてくれるとも思えない。負けっぱなしは癪に障るけれど、だが何を足場に立てばいいのかも、怪しくなってきていた。
ここらが潮時かもしれない。なんだかんだと着いてきた傭兵連中も、今ならいくらでも逃がせるだろう。ハイランドに着くならつくで、抵抗するなら抵抗するで好きにしたらいいとは思うが、それを口に出すには皆が疲れすぎていた。
起こした火で夕食を作り、腹に収めたあとは皆みななんとなく押し黙って夜をやり過ごしている。ビクトールも同じだ。
皆から離れた、火の明かりがギリギリ届く場所に一人で座り込んでいた。合わせたてのひらがまだ震えている。誰にも分からずとも、自分には分かった。それが、怯えであり衝動である事も分かっている。
ネクロードが生きていた。ならばやることは一つだ。10年間、抱え続けて来た怒りがいう。何を迷う事がある。そばにあった絶望がいう。ディジーの苦しみを見ただろう。憎しみが口を開く。あの吸血鬼を殺さねばならない。
掌に感触がある。冷たく、しけって、ぬめった、腐った肉の感触。かつて生きているディジーに触れた時には温かで柔らかだったはずなのに、それはとっくのとうに忘れてしまった。
それが悲しい。手を、握りしめた。
「お前の分だぞ」
顔を上げるよりも先に、広げた毛布が頭からかぶせられた。突然の真っ暗闇から何とか頭を出すのと、フリックが隣に座り込むのはほとんど同時。どこかへ行けという隙さえなかった。
抱えていたからか体温が移ってほんのりと暖かい毛布と、毛布越しに肩が触れ合う距離にこの男がいるという安心感。安心感を覚えるという事実。
スキットルを一口だけ煽ったフリックは、ビクトールのほうを見もせずに言った。
「今回は行かせねえからな」
「今回は」
「セキアの時とは違うだろう」
ネクロードを倒したと思ったあの時だ。全部終わったと思って、ただ家路を急ぎたかった。結局帰れはしなかったが、もし一人でこの荒廃した故郷を見ていたらどうなっていただろう。
本当の意味で、ここにはいなかったかもしれない。
「でもよ」
だが行かねばならない気がする。皆が行けと言っている。一人で生き残ったくせに。自分ばかりが腐った肉にならずに、のうのうと生きているつもりか。
誰が言っているのでもない。自分が言っているのだ。手が冷たい。土塊に熱を全部奪われたみたいだ。
「セキアん時は祝福も出来た。だが今は違う。違うって、分かってるんだろう」
見渡せば、子供たちが小さく縮こまって眠っているし、傭兵連中はこそこそとこちらを伺っている。たった一人で墓を作っていたあの時とは違って、隣が暖かくもある。
違う、と言えばまったく違う。10年以上たったのだ。
「でも」
多分これは甘えであると分かっていてビクトールは言い募る。手袋を外した手は剣を握って固くなり、節くれだってお世辞にも形がいいとは言い難い。それがしんと冷えている。自分の頬に触れさせれば、まるで死体のようだ。
でも、と重ねるのは許されたいからだ。行かねばならない。ネクロードを殺すのは、ここで死んだ皆のためだ。自分はそのために生き残った。それ以外に生きる意味などない。そう思って生きる辛さをビクトールは知っている。
もう良いだろう、と言ってほしい。選びたいほうは決まっているのに、選べぬ意気地のなさをフリックは笑おうともしなかった。
ビクトールのものよりも薄い掌が、ビクトールの掌ごと顔をつかんでくる。爪は立てずとも、指先の力は白くなる程に強い。
そのまま引き寄せられた。行くな。お前にここにいてほしい。もう大丈夫。
言ってほしい全てをこめた声音で、ただ、名前を、呼ばれた。