2025-05-16
風呂から帰ってきたビクトールがそのまま戸棚に直行して中をかき回している。何をしているのか、と明かりをもって近寄れば、ちょうど爪の手入れ用具が入ったおばこを取り出すところだった。
ビクトールは今日の午後まで数日かけての野戦訓練に出かけていた。風呂に入って全身綺麗にしたとはいえ、流石に爪の先までは完璧に泥を落とすとまでは行かなかったようだ。
「おつかれ」
「つかれたぜ。ギルバートのやつと賭けをしたんだけどよ」
卓の上に戻した明かりのそばに肘をつき、ビクトールはしゃべりながら小箱から取り出した小刀を爪に当てた。安定しない卓を動かさないよう、俺ももう一つの椅子に座りなおし促すように一つ頷く。
「こないだ手に入った酒がなんかあいつのカミさんが好きな酒らしくてよ。是が非でも、みたいな顔しててな」
あまり表情の動かない壮年の傭兵がそんなことになるのか。なら素直に渡してしまえばいいものを、とも思うが、そう言うものでもないんだろう。勝ち取ることが大切だ、と部下たちが囃し立て、引っ込みがつかなくて笑うビクトールとむっつりと唇を引き結ぶギルバートの姿なんて、容易に想像がついた。
爪を削る小さな音がする。外は今日は静かだ。時折歩哨が下から照らすライトが見えるぐらい。
グラスを唇にあてたまま、数日ぶりのビクトールをぼんやりと眺めた。ランプの明かりに目を細め、背中を丸めて小さなナイフで自分の爪を削っている。細かい作業だから他の事にはあんまり気を向けていない殆ど無表情な顔は、いまはちょっと珍しい。
昔はこんな顔を良くしていた。誰も隣に座っていない酒場で、夜更けのベッドの上で。一人で酒を傾けるこいつはどうにも近寄りがたかった。一言声をかければ、いつもの軽薄な顔な顔をすると知ってはいたが、どう考えてもどう見ても、どこを見るとも知れない目をした方が本当なのだとしか思えなかった。
「どっちが勝ったんだ」
「ギルバートだよ。結構高かったんだがなあ」
口先ではそう言っても、少し顔を上げてへらりと笑ったビクトールが後悔しているようには思えない。
小刀で荒く削り取った爪を今度はやすりで整える。下を向いた頬に伸ばしっぱなしの髪がかかって陰になるのを指先がすくって耳にかけた。
「髪も伸びたなお前」
「もうちょっと伸びてくれると結べて楽なんだよ」
「明日あたり切ってやる」
「お、優しい」
どうせ隣にいるなら、想像の中でも笑っている方が良い。ギルバートと賭けをして酒を取られて情けなく笑う。そっちのほうがよほど良い。
手を伸ばして髪を撫でた。固くてごわごわで、触り心地がいいとはお世辞にも言えない黒い髪をすくように撫でれば、ビクトールが手を止めてこちらを見る。薄い困惑を浮かべた目がゆっくりと細くなって嬉しそうに唇が上がった。
「今度また手に入ったら一緒に飲もうな」
「ワインは嫌いだ」
「そう言わずによぉ」
動物みたいに懐いてくるビクトールを受け止めた自分の顔も緩み切っているなんて言われなくても分かっている。