2025-06-22
根城にしている宿に併設された酒場のドアを開けた。店主も慣れたもので、特に確認もされずに奥まったいつもの席に案内された。夜も遅いから、誰もいないんじゃないかと思ったが一人だけが座っている。
よそで食おうかな、と踵を返しかけ、あからさまな拒絶をするのも良くはないな、と逡巡したのがまずかった。顔を上げたビクトールが、酔いもない目で俺を見てへらりと笑った。
「俺が出迎えで悪いな」
「……そんなこと言ってない」
「顔に書いてある。まあ、たまには良いだろ」
オデッサは何もなければ早くに寝てしまうし、ハンフリーは明日早くて、サンチェスは纏めたい書類があるらしい。他の数人も、さっきまで待っていてくれたそうだが、日付が変わるような時間だ。寝床へ帰っていてくれて逆にありがたいまであった。
ため息を一つつき、向かいの席に座る。差し出されたメニュー表は酒とつまみだけだ。ビクトール側には半分ぐらい減ったワインの瓶が置かれている。赤月帝国でも指折りのワイナリーが出している、庶民にも手が届きやすい安くてうまいと評判の酒だ。
俺がそれを見ているのに気づいたビクトールが、人懐っこい笑みを浮かべて瓶の首をつかんでみせる。
「お前も飲むか?」
「蟒蛇のお前が人に酒を恵もうなんて、明日は雨だな」
楽し気に飲んで、楽し気に酔っている姿なんていくらでも見ている。気が向けば解放軍に顔を出し、区切りがついたらふらふらと他所へ流れていく。もう帰ってこないのかと最初の頃こそ思ったが、いつの間にやら帰ってくることが普通になってしまった男。野良猫かなにかと同じだ。
野生の獣が食い物を分け与えるのは、群れの仲間に対してだけだ。こいつは俺たちを群れだと認識していると思うとすこしおかしい。何にもしゃべらないくせにな。全部自分の中で完結してやがる。
ビクトールは注文を取りに来た店主に俺の分のグラスと少しばかりのつまみを頼むと、なんだかやけにかすれた笑みを浮かべた。
「なんだよ」
「嫌がられるかと思ってたんで」
何をだ。お前と二人きりで卓を囲むことか、それとも同じ瓶のワインを飲み交わすことか。
不景気な顔を見ながら酒を飲むこと、そのものか。
「別に、酒に罪はないし」
戻ってきた店主がグラスを差し出し、乾きものを並べる。ついでにもう明かりを落とすので、適当にカギを閉めておいてくれと言ってきた。それもいつもの事で、カギを俺に手渡した店主がカウンターの中の明かりをけして、俺たちがいる場所の明かりだけをつけたまま店の奥へ引っ込んだ。外からも殆ど音がしない。夜だ。
ワインを注いだグラスを俺の前に置いたビクトールは、少しだけ迷って結局自分のグラスも満たしてステムをつまんだ。差し出されたそれに、なんとなくグラスを合わせてやれば随分と嬉し気に笑う。
なんだこいつ。
「なんだこいつ」
「全部声に出てるぜ。ご挨拶だな人の酒飲んどいて」
「お前が飲んでいいって言ったんだろ」
一緒に飲んでくれ、ってことだろそれは。
陽気な酒を飲むやつだってことは分かっている。でも、あんまり良い酒のみじゃない。一人でも飲むし、一人で飲むときは笑いもしない。楽し気でも何でもない。ただ酔うために飲む。一人で深く考え込んで、なにか今ではないものを見ている。
そういう酒は良くない。オデッサもそういう感じで飲むから、正直やめてほしい。体に悪い。
口に含んだワインは飲みやすくて、値段からすると驚くほど華やかな香りがする。一人でがばかば酔うために作られた酒じゃない。
「……お前の酒の飲み方、好きじゃない」
「逆に俺に好きな部分があんのか、って聞きたいぐらいだが」
そう言う話をしているんじゃないが、そもそもどうして俺がこいつの心配をしなきゃいけないんだ。皆の懐にするりと入り込む男の手口に、俺もまんまとはまっている。
頬杖をついたビクトールはなんだかゆったりと目を細めて俺を見た。
「心配してくれてるんなら、へへ、ちょっと悪くねえな」
ウソだ。細めた目がなんだか嬉しそうだとしても、こいつの心に真に響いて、飲み方を変えるつもりなんか一つもないことが分かる。
瓶を空けて、さっさと寝よう。カギをかけるのは俺だから、今日のこいつの酒もこれで終わりだ。俺に出来るのはそれが精一杯。