2025-07-13
タイラギが騎馬隊の執務室のドアをノックする。しばしののちに返事があって、従卒が中から出てきた。軍主と見慣れぬ少年、ビクトールの姿を目にして随分と驚いたようだった。わざわざは足を運ばない面子だ。
「フリックさんはいる?」
「いらっしゃいますけど……」
なんの躊躇いもなく入室しようとするタイラギを、従卒は押しとどめた。いくら軍主の連れとはいえ、正体も知れない人間を機密の詰まった部屋に入れるわけには行かない。規律正しいその様子に、セキアは気分を害した様子もない。ただ穏やかな、人好きのする笑みを浮かべているだけだ。先ほどまでビクトールに向けていた激情のあとなど、目元にかすかに残るだけだ。
「いいよタイラギ君」
「大丈夫ですよ」
「どうした? え」
従卒と押し問答でも始めそうなタイラギをセキアが押しとどめたその時、執務室の中からフリックが顔を出した。
ぱっとセキアが顔を上げる。その顔を認識したフリックはまるで怒られる子供のような顔をした。さっきのビクトールもきっと同じような顔をしていたに違いない。やるべき事をほったらかして他の事にかまけていた罰を、これから受けることになるのだと。
「フリックさん!」
「ちょ、ちょっと待て。すぐ戻るから」
タイラギの勇んだ声よりも先に、フリックは自分がすべき事を決めたようだった。急いで机に戻り、その途中で足をぶつけたらしくうめくのが聞こえた。
戸口からのぞけば、机の上に広げてあった資料をまとめて部下に手渡し、いくつか口頭での指示を出す。近寄ってきたカミューやマイクロトフの二人にもなにか話しているが、内容は聞き取れなかった。
ビクトールと同じように戸口からその様を見ていたセキアは困ったように髪をかき回しながらもどこか嬉しそうに見える。ビクトールへの態度とは随分と違う。
「あいつには怒らねえんだな」
「いや怒ってるけどさ」
セキアを庇って怪我をして、そのまま城に残った。帰るつもりだったと彼は言ったが、逆にその方が罪深い。
明確な約束やぶりだ。
セキアは黙ってフリックを眺めている。怒っていると口では言うが、その顔に浮かんでいるのはビクトールに向けていたような明らかな怒りよりも安堵の色が濃い。
自分が怒られたからと言うわけでも無いが、その差は明らかで何やら気に入らない気分だ。
ばたばた今日の分の仕事をなんとか手じまい出来たらしいフリックが、またばたばたと常ではありえない騒々しい動きで戻ってくる。騎馬隊の連中も、なにが始まったのやらと興味津々でこちらを見ていた。
「セキア!」
「うん、久しぶり」
「久しぶり。いや、本当に」
フリックは声を詰まらせ、一瞬だけビクトールを見やって、頭を振った。ビクトールがここまで連れてきたのは確かだが、それでもフリックの了承がなければ全ては始まらなかった。
戻ってくるという約束を違えたのは、フリック自身だ。少なくとも、彼自身はそう思っているとビクトールは知っている。
セキアは黙ってフリックを見つめていた。縋るようだなと思い、それもやっぱり気に入らない。もうセキアは軍主でも何でもないと言うのに。
「セキア……本当にすまないと思っている」
少年は右手を伸ばしてフリックの頬に触れた。困惑の表情を浮かべるフリックをそのままに頬を撫で、首筋にふれて胸のあたりで拳を作る。
そうして、ぐと一つ強く突いた。
「……まあ生きてることは知ってたけど」
ビクトールは目を瞬かせたが、フリックは口を引き結んでセキアを見つめるばかり。
セキアはただゆるりと目を細めた。
「目の前にすると安心するね。良く生きててくれた」
そのまま少年はフリックの手を引いた。仕事をわざわざ空けた以上、少なくとも今日のこれからはセキアのために時間を使うとフリックは即座に決めた事になる。
「ご飯でも食べようか。積もる話もあるからね」
タイラギが困ったようにビクトールを見上げてくるから、背中を軽く押した。二人がセキアの古い友人だとは知っていても、それ以上の事をタイラギは知らず、知っていいものかすら判断がつかないのは当然だ。
別に隠し立てをすることでもない。それに、セキアとフリックを二人きりにするのはどうにもこうにも許しがたい。そう、許しがたいとビクトールは思っている。
「セキアさんは何が好きです?」
「シチューかなあ」
セキアはフリックの手を引いて歩き出す。タイラギはそれについていき、何も言われないのを良いことにビクトールもご相伴に預かる事にした。セキアはちらりとこちらを見て、ただ口元だけで微笑んだ。