肝試しに行ったら憧れの先輩と以下略④異変はその日の夜から始まった。
まず、ベッドに入り眠ろうとすると、どこからか声が聞こえてくるようになった。耳鳴りが人の声のように聞こえるのかもしれないと、一応それらしい理由を考えてはみたのだが、やはりどうにも人の話し声でしかない。確かに複数の人間が会話をしているようなのに、何を言っているのかは不思議なことに全く聞き取れない。声に耐えきれなくなり目を開けると、とたんに音が止むものだから質が悪い。静かになったので再び目を閉じると、途端におしゃべりは再開される。俺は修学旅行の夜の見回りの教師か。おかげでその日からだんだんと目の下に居座る隈が濃くなっていった。
続いて、家の中がだいぶ賑やかになった。朝日が昇りきった部屋から大学へ向かい、日が落ちた時間に部屋に帰ると不思議とすでに電気がついている。誰が電気代を負担するんだ。そして、1人暮らしの1Kの室内でナニかが浴室への扉を開けたり、トイレの扉を開けるのである。開けたなら閉めろ。3歳の阿凌でもきちんと閉めるぞ、賢い良い子なんだ。一晩で何度も扉を開けられるものだから、何度も部屋の中を移動することになり帰宅しても落ち着かない日が続くことになった。
肝試しの日から4日程経ったころ、大学から帰宅したところでちょっと……と話しかけてきた隣人からこんなことを言われた。
「江君が外出している時間帯のことなんだけど、その……江君の部屋の方から、カリカリっていう音が最近聞こえるんだよね。……まるで、爪で壁をひっかいているような、音なんだけどさ……」
隣人は在宅ワークをする社会人なのだが、江晩吟が外出する音を確かに聞いた後に無人のはずのその室内から聞こえるものだから、もしや空き巣か質の悪いストーカーが入り込んでいるのではないかと心配して、声を掛けてくれたのだという。
この隣人からの純粋な心配にあふれた眼差しは、この数日間自らに付き纏う怪現象に睡眠時間と自宅での安寧を邪魔され、ささくれ立っていた江晩吟の心に砂漠のオアシスの泉のようにじんわりと染み渡った。その場で泣き出さなかった自分を誰か褒めてくれ。会うたびに挨拶を欠かさずにいてよかった。情けは人の為ならずって本当だな……と現実逃避をしていたのだが、今からそのナニモノかが留守番をしているという部屋に入らなくてはならない、その事実に別の意味でも泣きそうになった江晚吟であった。
隣人から外出時の留守番役の存在を聞かされてから3日目、つまりは肝試しそのものの夜から一週間がたったころには、江晩吟の麗しい顔面は地獄の鬼もかくやというぐらいには荒み切っていた。
寝不足のため目の下には墨のように濃い隈ができ、慢性的な頭痛のせいで眉間には張家界の大峡谷のように起伏にとんだ皺が刻まれている。体が不調を訴えるのに比例して、食事も満足に取れなくなったためもとよりほっそりとしたその面はさらに肉が削げ落ちてしまい、落ち窪んだ眼窩と痩けた頬が痛々しい。しかし、その特徴的な鋭い切れ長の杏仁形の瞳は決して意志の強さを失ってはおらず、自らをこんな目に合わしめた怪異への怒りで地獄の釜の湯のようにぐつぐつと煮えたぎっているようにも見える……まさしく修羅か鬼のような顔で大学構内を歩く江晚吟に近づく命知らずな者はおらず、まるでエジプトを脱出するモーゼの行った奇跡の如く、自然と人が避けていく様子は圧巻であったと後にそこらへんのモブは語る。
続く