君待ち/藍忘機「問う音に声は返らず君何処 時は黄昏色を失い」
優雅でありながら切実な響きをもった琴の音が谷にこだまする。「問霊」の琴の音が消えると、辺りはしんと静まり返った。藍忘機は座して答えの返ってくるのを黙って待っていたが、一向に返答の琴の音が鳴ることは無かった。
藍忘機が張り詰めていた息を吐くと、聞こえなくなっていた川の水の流れる音と、風が森を抜けてゆく音が耳に入ってくる。琴を仕舞い立ち上がった時にはいつしか辺りは茜色に染まり、太陽が西へと沈んでゆく時辰となっていた。今日もまた、日が暮れる。
彼の仕業らしいと噂を聞けば向かい、せめて誓った言葉を守り抜こうとしているうちに、「逢乱必出」と言われるようになったらしい。
西の空から登り始めた月は明るく、満月が近いようだった。薄くかかった雲の向こうで明るく輝く月にも琴の音が届くことがあったなら、彼は答えてくれるのだろうか。そんな、荒唐無稽なことすら考えてしまう。
強い西日に片手で庇をつくり急ぎ足で山の向こうへと消えてゆく太陽を見送りながら川辺に視線を落とすと、道端に燃えるように赤い色がまとまって咲いているのが目に入った。彼岸花の血のような赤が、茜色の西日に照らされて輝いて見える。いつまでも見ていたいと思う美しさに誘われるように、藍忘機は近付いた。花の近くにやってくるとしゃがみ、赤い花弁を包むように手を伸ばした。手折って持ち帰ってしまおうか。どうしようかと悩んでいるうちに、鮮やかな夕日の色は急激にくすみ、長く伸びた影すらも段々と見分けがつかなくなっていく。
不夜天で藍忘機が伸ばした手を離すことがなければ、今頃も彼はこの世にいたのだろうか。手を伸ばした時にはもう、遅すぎたのだろうか。崖下に消えて行く姿を夜の闇に飲み込まれてしまいそうな赤い花弁に重ね見てしまったせいだろうか、思わず力を入れてしまい茎が折れてしまった。反射的に手を離すと、彼岸花は折れたところから倒れ、赤い花は地に倒れた。折れてしまえばもう、元に戻ることはない。戻ることは無いとしても、彼を連れて帰って隠せてしまえていればと思わずにはいられない。
藍忘機は倒れてしまった彼岸花を軽く持ち上げ折れたところから切ると懐に仕舞った。彼岸花の赤を胸に差したまま、藍忘機は足早に川沿いの道を歩く。雲深不知処は夜間に出入りすることは禁じられている。滑り込むように雲深不知処の門を抜けて幾分も歩かないうちに、前方から兄の姿と、そしてもう一人小さな人影がやってきているのが見えた。
「忘機、おかえり」
出迎えた兄に、藍忘機は拱手で答えた。
「兄上、戻りました」
兄と言葉を交わすと、兄の後ろについて来ていた小さな藍家の子弟が顔を出した。
「含光君、おかえりなさいませ」
見ればその子弟は思追――藍愿だった。幼いながら藍家の子弟らしく礼節を弁えた礼で藍忘機を迎えた彼が顔を上げると、その額には藍家の直系の弟子の証である雲紋が刻まれた抹額が目に入る。少し見ない間にまた大きくなっただろうか。
それにしても、その様子を眺めている兄が何故か普段以上ににこやかな顔をしているのが気になった。
「何かあったのですか?」
藍忘機が問えば、兄は横の思追に視線を落とし、促すように彼の背中に手を置いた。
「思追、ほら」
兄が言うと、思追は決意を固めるようにコクリと頷いて藍忘機に向き直った。
「含光君、この思追に「問霊」の手ほどきをしていただきたく、お願いを申し上げにきました」
「「問霊」を?」
思わぬ申し出に、藍忘機は聞き返してしまった。思追の琴の腕は同じ年頃の子弟達の中ではなかなかのものだが、それでもまだこれから随分と修練を要する。
「はい」
「習得するにはかなり時間と労力を要するが」
「努力します!」
思追の真剣な申し出に、これはきっと首を縦に振るまで事あるごとに頼み込まれるものだろうと理解した。こんなところばかり、魏無羨に似ているような気がしてしまうのは勝手な感傷なのかもしれない。
顔を上げようとしない思追に近づき、肩に手を乗せた。
「教えるのは構わない」
「ありがとうございます!」
顔を上げた思追の顔は喜びに輝いていた。藍忘機の勝手な思いだったとしても、微かでも彼への思いを胸に刻ませてくれる思追には――せめてこの子には笑っていて欲しかった。
嬉しそうな思追に兄も満足そうな顔をしている理由が藍忘機にはよく分からなかったが、どうやら二人とも藍忘機の答えに満足しているらしい。
思追には明日から特別な修練の時間を取るようにすると伝え先に戻ってもらうと、既に雲深不知処の方々の建物には灯りが灯る時間となっていた。
雲深不知処の自室への道すがら、藍曦臣と並んで歩きながら藍忘機はまだ兄の態度の不可解さに理解が及ばなかった。
「兄上、どうして思追に「問霊」を学ばせようとするのですか」
「私は相談を受けただけで、彼が自分で言い出したことだ。お前が雲深不知処にいないことが多いから私に言ったのだろうが、彼には私よりも忘機が教える方が良いだろう?」
思追は藍忘機が探している相手のことを覚えていない。覚えていないなら、思い出さないままの方が良いこともあるだろう。ただ、このまま何も知らないままで良いのかと問われれば、答えに詰まる。己が正しいと思うことを為すことは難しくないが、これが正しい道なのかどうかを見極めることは難しい。
それにしても思追はどうしてそんなことを言い出したのか。何か、昔のことを思い出したのだろうか。
「兄上、思追は何故「問霊」を学ぶと言い出したのですか」
「それは自分で明日聞いてみると良い。ただ、もし「問霊」を習得できたら、含光君と一緒に夜狩に行けるのではないかと言っていた」
藍曦臣がゆっくりと足を止めると、つられるように藍忘機も足を止めた。
「忘機も彼なら一緒に連れていってくれるかな?」
少しばかり首を傾げて問う兄の姿に、藍忘機は目を瞬かせた。
今まで藍忘機が一人で遊歴していることを兄に咎められたことは無かった。けれど、どうやらそれは今まで口を出して来なかっただけということらしい。
「「問霊」ができずとも、力がつけば夜狩には自ずと行くことになります」
「それもそうだな」
兄が軽く微笑むと、藍忘機の胸元へと視線を向ける。
「先ほどから気になっていたのだが、その懐の花は彼岸花か?」
「はい」
懐から取りだした黄昏の時に赤く咲いていた赤い花は、夜の微かな灯りの下ではその鮮やかな赤い色は色褪せたように見える。川辺で美しく咲いていた花も、手折ってしまったからもう部屋に飾ることくらいしかできない。根から切り離された花は、どんな花であれ枯れてしまえばそれきりだ。
「兄上……私は連れ帰れば良かったのかどうか、今も分からないのです」
兄は何も答えなかった。答えられないという方が正確だったかもしれないが、藍忘機も答えが欲しい訳ではなかった。
藍忘機にとってあの時から世界はずっと黄昏の色をしている。夜が来てもう一度朝日が昇る時、赤い花が咲いていてくれるものなのか。
藍忘機は兄と別れ部屋に戻ると、彼岸花を水差しに挿した。その日は慈しむように花弁に触れてから眠りについた。
翌朝、藍忘機が目を覚ますと彼岸花の赤が目に入った。しかしその色からは黄昏色の光の中で見た鮮やかさは失われている。触れればすぐに崩れそうな、そんな危うさを覚えながらも触れたいと思わずにはいられない。そっと花弁に触れると、昨晩触れたしっかりとした思追の肩を思い出す。どう触れて良いのかも分からないまま抱き抱えた幼な子は、気が付けば今にも巣立ちそうなほどの少年へと成長していた。
思追へ「問霊」を指導するのなら、あの琴の譜があった方が良いだろうか。朝のうちに蔵書閣へ寄って行こう。そんなことを考えながら、久しぶりに雲深不知処での一日の始まりを迎えた藍忘機は、またすぐに夜狩りへと出るつもりではあった。
藍忘機が後ろ髪を引かれながらも部屋を出て扉を閉めると、彼岸花から一欠片、花弁がはらりと落ちていった。