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    fujimura_k

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    現パロ月鯉 珈琲専門店・店主・月島×画家・鯉登
    脱サラしてひとりで珈琲専門店を営んでいた月島が、画家である鯉登と出逢ってひかれあっていく話。
    作中に軽度の門キラ、いごかえ、菊杉(未満)、杉→鯉な描写が御座います。ご注意ください。

    #月鯉
    Tsukishima/Koito
    #やぶこい

    珈琲 月#1 『珈琲 月』


     そのちいさな店は、海の見える静かな街の寂れた商店街の外れに在る。
     商店街は駅を中心に東西に延びており、駅のロータリーから続く入り口付近には古めかしいアーケードが施さていた。年季のいったアーケードは所々綻びて、修繕もされないまま商店街の途中で途切れているものだから一際寂れた雰囲気を醸している。
     丁度、アーケードの途切れた先には海へと続く緩やかな坂があり、下って行くと海沿いの幹線道路へと繋がっている。坂の途中からは防波堤の向うに穏やかな海が見え、風が吹くと潮の香りが街まで届いた。
     海から運ばれた潮の香りは微かに街に漂い、やがて或る一点で別の香りにかき消される。
     潮の香りの途切れる場所で足を止めると、商店街の端にある『カドクラ額縁画材店』の看板が目に入るが、漂って来るのは油絵の具の匂いではない。潮の香にとって代わる香ばしく甘い香りは、その店の二階から漂って来るモノだ。
     画材店の脇から続く細い階段を上がれば、飾り気のない、小さな看板が目に入る。
     『珈琲 月』それが、店の名だ。
     甘く香ばしい香りに誘われ、木製の扉をゆっくりと開くと、銅の鈴がカラリと乾いた音をさせてカウンターの奥に立つ店主に来客を報せた。
     ドアを開いた先には、カウンターと、窓際に二人掛けの席が二席あるきりで、装飾品は殆どなく、店の奥には申し訳程度に観葉植物の鉢が据えられていた。
     「豆を買いに来た。」
     BGMもない、静かな店内に声を響かせたのは、この店の常連である鯉登音之進だった。カウンターの内側に立っていたこの店の店主・月島基は、今気づいたように顔を上げ「いらっしゃいませ。」と静かに告げる。
     「今日は、コロンビアとグアテマラが入っていますよ。」
     四席あるカウンターの一席に音之進が腰を下ろすと、月島はそう言ってメニューを寄越した。
     カウンターに置かれたメニューは片手に収まるボードに挟まれた藁半紙に万年筆で書かれただけのもので、仕入れ状況によって月島が日々書き換えている。
     今日のメニュー表には、今ほど月島が告げた「コロンビア」の他「キリマンジャロ」「ブラジル」「グアテマラ」「ペルー」の表記があり、ペーパードリップ、ネルドリップ、サイフォンの何れかの淹れ方を選べるようになっている。
     音之進はチラとメニューに目を通し「じゃぁ、コロンビアをネルドリップで。」と告げると、それから、と言葉を繋いで「持ち帰り用に、グアテマラを。」と言葉を足した。
     「豆は挽かずに、200グラムでいいですか?」
     月島が問うのは持ち帰り用の豆の事だ。
     音之進が「あぁ」と短く答えると「承知しました。」と同じく短い返事が返り、後には湯の沸く音と、珈琲豆の挽かれる音が静かに聞こえるばかりになった。

     鯉登音之進がこの店『珈琲 月』に通い始めて、そろそろ半年になる。
    「海の見える街に移り住みたい」と我儘を言った音之進に、何を言うでも無く「解った。」とだけ答えた兄・平之丞が、方々を訪ね歩いて漸く行き着いた先がこの街だった。
    平之丞の話では、以前から付き合いのあった『珈琲 月』の階下にある『カドクラ額縁画材店』の店主・門倉の勧めだったという。
    音之進の使いで画材を求めに来た平之丞は、世間話のついでに転居先を探しているという話をした。その話を拾ったのが門倉だった。丁度その頃、この街の高台に売りに出されたばかりの物件があり、それを勧められたのだ。今、音之進が住んでいるのはその家だ。
    街の外れの高台にある一軒家は、この店から徒歩十分程の所にある。辺りに遮る物は無く、家の前から眼下に拡がる街とその向こうには海が見えた。微かに波の音さえ聞こえそうな静けさと、そこだけ世界から切り離されたような寂しさのある家だった。それを気に入り、アトリエ用に改装して、この街に住まいを移したのが凡そ一年前になる。
    暫くは新しいアトリエに籠ってばかりいた音之進が、兄の勧めでこの店を訪ねたのが半年前だった。
     切欠は兄・平之丞の誘いである。
    兄が画材を買いに来ていただけの頃は空き家だったという画材店の2階にこの店が出来たのは、音之進がこの街に越してくるひと月ほど前だった。
    珈琲好きで、予てより喫茶店の入居を熱望していた画材屋の店主・門倉は甚くこの店を気に入っていて「ここより美味い珈琲なんて早々ない」と豪語して平之丞に店を勧めた。平之丞は半ば門倉に押し切られる形で店を訪ねたのだが、直ぐに勧めてくれた門倉に感謝したという。門倉の言う通り、珈琲の味は確かだった。加えて、落ち着いた店のその雰囲気を何より気に入り、画材屋を訪ねる度に店に立ち寄るようになると、自宅用にと豆を買って帰って来るようになった。
     平之丞は初めて豆を買って帰って以来、毎回、新しい種類の豆を買って帰っては、店を訪ねてみないかと音之進に声を掛けるようになった。
    だが、音之進は長らくその誘いに乗ることはなかった。元々ストレートの珈琲はあまり好まず、カフェオレばかりを飲んでいたし、何より、外に出て人と接することをあまり好まないものだから、兄から誘われる度に「考えておく」と答え続けていた。
     当時、音之進には店を訪ねる気など無かったのだ。兄の用意してくれるカフェオレは確かに美味しくなったが、店を訪ねてみたいとまでは思っていなかった。だが、ある時、所要で兄と一緒に街に出掛けて、ふと立ち寄った喫茶店でカフェオレを飲んで、音之進は愕然としたのだ。普段、兄に供されているモノとの味の違いに。自宅で飲んでいるモノの方が余程美味しいと感じられた。其れまで、何処に行っても然程の違いなど感じた覚えは無かったのだが、違いは明らかだった。
     そうなると、自然と店そのものと、それ程美味い珈琲を作っている店主に興味を持つようになった。
     画材店に出掛けるという平之丞に、珈琲屋に寄るなら一緒に行きたい。と音之進が初めて告げたその日、平之丞は満面の笑みで音之進を連れて店を訪ねた。
     訪ねてみれば、音之進には平之丞が自分を此処に連れて来たがる理由が何となくわかったという。
     この店は、『珈琲 月』は静かなのだ。
     店主も、店そのものも、店を訪れる客も、皆静かだ。
     店内に余計な装飾も無く、耳につくBGMもない。ただ一時、静かに珈琲を飲んで過ごすことが出来る。その空間は、とても居心地の良いモノだった。
    口数の少ない店主・月島は余計な話をすることはない。何の詮索をされることも無く、ただ静かに時間を過ごせるこの店を気に入り、初めて店を訪れて以来、音之進は店に通うようになった。
    画材を買いに行くという度に、音之進がついて行くようになると平之丞は何処かホッとしたように笑って「きっと気に入ると思っていたんだ」とそう言った。
    画材屋でその話になると、店主の門倉は自慢げに「俺が勧めた店なんだから間違いはねぇんだよ」と笑ったが、直後に店員のキラウシに「あんたの手柄じゃないだろ」と窘められていた。
    「門倉の言う事なんか気にせず、気に入ったなら通えばいい。俺もあの店は気に入ってる。」
    キラウシの言葉に従うわけでは無いが、ほんの少し気が楽になったような気がして、音之進は独りで店を訪ねてみようという気になれた。
    確かに、兄の見立て通り、音之進はこの店を気に入っていたのだ。
    元々は飲めなかった珈琲も、この店のものであれば、月島の淹れたものであれば、飲めるようになった。
    ひとりで出掛ける事など滅多になかったが、月島の珈琲を飲みたいが為に定期的に店に通うようになり、得意では無かった珈琲を飲み、豆を買い求めるようになった。
    音之進が珈琲を飲むのは、この店でだけだ。
    自宅では、同じ豆で同じように珈琲を淹れても思うような味にはならず、ストレートで飲もうとは思えなかった。カフェオレであればミルクが混ざる所為か自身や平之丞が淹れたモノも美味しいと感じられるから、自宅では専ら、カフェオレばかりを飲んでいる。故に、持ち帰り用の豆はカフェオレ向きのモノばかりになる。
    尤も、元々珈琲を飲まなかったのだから銘柄など解る筈も無く、コレとは決めておらず、その時々で月島が勧めるものや、以前気に入ったものを選んだ。
     グアテマラは後者だ。ストレートであれば果物のような酸味と甘く華やかな香りを楽しめる。深煎りをカフェオレに用いれば豊かなコクを存分に味わえる。自宅ではペーパードリップかハンドプレスを使うのだからそれ用に豆を挽いて貰えば良いのだが、音之進は決まって豆のまま持ち帰り、一杯ずつ豆を挽いている。
    少しでもこの店の味に近づけたいと思っての事だが、平之丞にしても、自身にしても、凡そ店の味には及ばぬものばかりが出来ているのが現状だ。
     店に来るたびに、月島が珈琲を用意するその手付きや仕草を観察し、真似てみようとするのだが、形ばかりになっているのだろう。
     月島が珈琲を淹れるその仕草は、美しいのだ。
    一切の無駄なく、一杯の珈琲と真剣に向き合う月島の横顔に、その指先に見惚れそうになる。
     その姿を、絵に描き留めてみたい。
     珈琲の淹れ方を覚える為に見ていた筈だのに、いつの間にか、そう思うようになっていた。思うばかりで、描かせてほしい。とは、未だ言えないままだ。
     「お待たせしました。コロンビアです。」
     音之進が見惚れる間に出来あがった珈琲は青磁のシンプルなカップに注がれてその言葉と共に差出された。カップから立ち上る湯気の向うで、月島はカウンターの様子を気にするでもなく、淡々と持ち帰り用の豆のパッキングを始めた。
    焙煎した豆に欠けがないか、慎重に豆の状態を確認しながら秤に少量ずつ豆を移している後姿を見ながら、音之進はゆっくりとカップを傾けた。
     コロンビアは自然な甘さと重量感のある、バランスの良い味だ。ネルドリップは作り手の技量で味に大きく差が出るが、月島の手で丁寧に淹れられた一杯は舌触りも一層滑らかで、珈琲の味と香りを存分に楽しませる仕上がりになっている。
     カップが空になる頃にはきっちりと袋詰めされた豆に月島の手書きで「グアテマラ・深煎り」と記されたシールが貼られてカウンターに用意された。
     袋詰めされた珈琲豆を受取れば、代金を支払い、それじゃぁ…と店を出るのが常だ。
     何を訊ねることも、訊ねられることも無い。音之進はそう思っていた。けれどもその日は少し違っていた。
     「絵を、描かれるんですか?」
     月島がポツリと漏らしたその一言に、音之進は一瞬戸惑い、それから瞬きを一つして「あぁ、そうだ」と静かに答えた。
     「…門倉さん…下の、画材屋で話を聞いたんです。貴方が、絵画教室をしていると…」
     月島の言う絵画教室というのは、音之進がこの街に移り住んでから始めたモノだ。此方に移る前には、ひとりきりで絵を描いていたが、穏やかな街の雰囲気にふと思いついて教室を開いた。
     教室と言っても、美大受験を目指すようなものではなく、地域の子供や高齢者向けのものだ。お遊びと言えばそれまでだが、音之進にも、この街にも、その方が合っているようだった。
     「絵に、興味が?」
     音之進がそう問い返すと、月島は少し考える仕草をして「そうですね」と小さく零した。
     「描いたことは、ありませんが…」
     視線を落とし、そう漏らす月島に、鯉登は瞬きをふたつ繰り返して「そうか」と呟いた。
     「描きたいと思うなら、描いてみればいい。興味があるなら、いつでも訪ねてくれ。」
     音之進がそう告げると、月島はふと視線を上げ、ほんの少し笑ったようだった。










    #2 来し方 ・ 月島
      

    月島基がこの街に移り住んだのは、鯉登音之進が同じこの街に移り住むふた月前のことだった。尤も、月島が音之進を知るのはそれから半年以上先の話になる。
    月島がこの街に移り住むのに特段の理由というものは無かった。何かの縁があって移り住んだわけでは無いのだ。敢えて言うならば、何の縁も所縁も無い街だからこそ、月島はこの街を選んだ。
    一人になりたかったのだ。
    誰も己を知らぬ街で、独りきりになりたかった。
    高校を卒業すると同時に田舎を出て、勤めた会社は輸入品の卸売を生業にしていた。月島が担当していたのは食品の部門で、殊更珈琲を専門にしていた。なりたくてなったのではなく、そう割り振られたから、求められた職責を懸命に果たしたに過ぎない。
    趣味も持たず、がむしゃらに働いて、周囲の評価も其れなりには得ていた。期待もされていたが、出世など興味はなかった。ただ、一人前に稼げる男になりたいと思っていた。
    早く一人前になって、田舎に置いてきた幼馴染を迎えに行くのだと。そう思っていた。
    けれども、その幼馴染は、月島が知らぬ間に佐渡の田舎に遊びに来た何処かの名家の跡取りと恋仲になり、見る間に嫁いでいってしまった。
    結婚式の招待状は届いていたが、出張続きで留守をしている間に届いたらしいその招待状に月島が気付いたのは、式も目前に迫ったその日になってからだった。
    返事も出せぬまま迎えた幼馴染の式のその日、月島は祝いの花を贈った。自身は相変わらず仕事に明け暮れ、余計な事は考えないように努めていた。
    激務ではあるが、仕事に不満は無い。周囲も自分の仕事を認めてくれているのだから、このままでいい。
    そう思い続けていたのだが、年明けに、幼馴染から届いた年賀状を見た途端、何かがふつりと切れたような感覚に襲われた。
    新婚らしく、結婚式の写真を使った年賀状には、月島が見たことも無いほど美しく、幸せそうな幼馴染の姿があった。
    脱力感、虚無感、というのだろうか。
    急に、全てが馬鹿らしくなった。
    月島は、同僚や上司の引留めも断り、年明け早々に辞表を出して長年勤めた会社を辞めた。
    「戻ってくる気になったら、いつでも連絡してくれ。」
    事情を唯一知っている同僚の菊田は最後までそう言って月島を引留めたが、戻る気は少しも無かった。
    暫く遊んで暮らそうかとも思ったが、仕事ばかりしていた男に、そんな暮らしが長く出来る筈も無く、この先どう生きるかとぼんやり考えるうちに、退職金と貯めた金で店を始めようと思いついた。
    珈琲の知識なら、それなりの自信を持っていた。仕入れ先にも宛はある。味は確かなモノを提供できるだろう。儲けずとも、食べて行ければそれで充分だ。
    そう思い至ると、月島は店を出す場所を探し始めた。
    そうして行き着いたのがこの街だった。
    何処だかに出掛けた帰り、ふと思い立って、この街で電車を降りた。車窓を流れる海に惹かれたのかも知れない。閑散とした駅を出てみれば寂れた街の雰囲気と、微かな潮の香りを心地よく感じた。
    ふらふらと商店街を歩くうちに『カドクラ額縁画材店』の前までたどり着くと、丁度、店の二階に『テナント募集』の札を提げようとしている男と眼が合った。
    「…珈琲屋でも、大丈夫ですか?」
    考えるより先に言葉が口をついていた。
    テナント募集の札を持っていた男…門倉は、その声に喜んで勿論だとすぐさま月島を二階に案内した。
    何も無いがらんどうの空間だったが、カウンターとボックス席を幾つかは置けそうだ。店の奥からは上階へ続く階段が伸びており、三階は倉庫にも居住スペースにも出来るようになっていた。
    ひとりで切り盛りするには充分な物件だった。
    此処に店を出そう。
    月島は、何故だかその時、直ぐにそう思えた。
    その場で、賃貸の契約をしたいというと、門倉は「え」と驚いて硬直した後、破顔して喜んだ。
    それから、店を開くまではあっと言う間だった。
    店の開店準備は、同僚であった菊田がよく手伝ってくれた。店の漆器や、雑品、豆の仕入れルートを確保してくれたのは全て菊田だ。
    役所周りの手続きも、菊田の知り合いを紹介された。
    「お前には随分世話になったからな」とは菊田の弁である。月島は世話などした覚えは無かったが、元同僚の好意は甘んじて受け容れた。
    菊田は、こんな寂れた街で食っていけるようになるのかと随分気を揉んでくれたが、店を開いてみれば、其れまで街にそうした店が無かったせいか、思いの外、商売は成り立った。
    それでも元同僚のよしみか、菊田は今でも時折店に顔を出し、僅かの世間話をして帰って行く。
    独りきりになりたかったというのに、柵というものは中々断ち切れぬものだと思う内に、店には馴染みの客もひとり、ふたりと増えていった。
    繁盛、とは言えないかもしれないが、独りで食べて行くには充分だった。
    早朝に仕入れた豆を焙煎し、街が動き出す時間に店を開ける。階下の門倉は毎朝大抵一番に店に来て珈琲を飲み、キラウシが迎えに来るまで窓際の席でうとうととし続けている。キラウシが来て、門倉と一緒に珈琲をテイクアウトしていく頃には、入れ替わり、立ち代り、常連と呼べるようになった客たちが珈琲を飲むか、或は、珈琲豆を求めに店にやって来る。
    大きな起伏も無い、穏やかな暮らしだった。
    静かな街で、淡々と、好きな珈琲を淹れてゆっくりと過ごせばいい。そんな風に思っていた。
    月島の生活に、小さな漣が起ったのは、半年前だ。
    或る程度の客がついて、生活が落ち着き始めた頃、鯉登音之進が店に顔を出すようになった。
    音之進の兄、平之丞は以前から店を気に入ってよく顔を出していたが、弟の話は聞くばかりで姿を見たことは無かった。
    珈琲があまり得意では無く、カフェオレを好み、外にも出たがらず、家に籠ってばかりで平之丞を困らせているらしい弟。当初のイメージはそんなモノだった。
    一体どんな子供かと思っていたが、店に現れたのは平之丞によく似た、けれども、全く違う性質のその人だった。
    子供などではなく、立派な美しい青年だった。
    褐色の肌をして、体躯は兄にも劣らぬというのに、音之進は兄に隠れるようにしてひっそりと佇んでいた。
    初めて店を訪ねたその日は、一言も口をきいた覚えがない。極度の人見知りなのか、注文もメニューを指さして示し、ただ黙って、平之丞の隣で珈琲を飲んでいた。
    帰り際、ちらと月島を見遣った音之進は小さく頭を下げて店を出た。

    声を聞いたのは、何度目の来店時だったか。
    「今度、ひとりで、きてもいいか?」
    音之進は不意にそんな事を聞いてきた。
    「勿論。お待ちしておりますよ。」
    月島がそう答えると、音之進はホッとしたように笑って「そうか。」と零し「また来る。」と言って店を出た。一緒に来ていた平之丞も其れには驚いたようで、音之進以上の安堵をその顔に滲ませ、弟の後を急いで追い掛けていた。
    以来、音之進は時折店に一人で来るようになった。
    平日の昼間に、前触れもなくふらりと店を訪ねて来る音之進は、決まって珈琲を一杯飲んで、豆を200グラム買って帰る。
    小さな店だから、客が居合わせることもあったが、二人きりになることが大半だった。
    だからといって、互いに何を話すわけでも無い。
    何を話すこともせず、ただ珈琲を飲み、暫し、時間を共にする。それだけだ。だが、それだけの時間が、月島には何とも心地よかった。
    何が他の客と違うのかなど解らない。
    けれども、音之進がカウンターの隅に居る。ただ、それだけで、不思議と気持ちが落ち着くのだ。
    ずっと昔から知っている誰かと一緒に居るような、肌に馴染む安心感がある。
    つい半年前に知り合ったばかりの、ただの客でしかない青年に何を言っているのかと月島は自身でそう思うが、思うものはしようがない。
    誰かや、何かに似ているかと考えてみるに、思い当たる節は何処にも無いのだ。音之進ほど美しい男など、知っていれば覚えている筈だ。だが、記憶の何処にもそれらしい相手は居なかった。
    如何して、音之進にだけ、そんな風に思うのか、月島は自身で理解して居なかったが、特段其れを理解する必要はないとも思っていた。
    なんとなく、波長の合う人というのはいるものだ。
    特段親しくならずとも、近くに居て不快に思わない相手。音之進は、自身にとってはそうしたひとりなのかもしれない。
    誰かと居ても、何処となく、独りきりでいるような。そんな雰囲気が、自分と似ているようにも思えて。
    だからなのだろう。と、月島はそう思っていた。
    其処から何をどうしようとも、どうなろうとも、思ってなどいなかった。
    その筈だというのに。

    『絵を、描かれるんですか?』

    如何して、そんな事を聞いてしまったのか。

    音之進の帰った店内でひとり、月島は思う。
    自分は、あの青年に何を求めているのだろうか。と。
    思うに、答えは出ず、ただ、溜息ばかりが幾つも漏れた。







    #3 Atelier・K


    月島が音之進の絵画教室に見学に来たのは、木曜の午後だった。
    アトリエは、平之丞の営む画廊の二階にあり、アトリエの奥が住居になっているようだった。
    迷いながらアトリエのドアを叩いた月島を、音之進は驚きながらも喜んで受け容れた。
    「描きたくなったのか?」
    そう言って笑った音之進の顔は、店では見たことの無いモノだった。
    「いえ、今日は、見学だけ…」
    動揺しながら、どうにか返した月島のその言葉に、音之進は落胆するでもなく「そうか」と静かに零して「ゆっくりしていくといい」と月島に教室の片隅にあるソファを勧めた。
    アトリエに一歩踏み込むと、思いの外、中は整理されていた。壁際には音之進の作品だろうか。幾つかの海を描いた作品が飾られており、生徒を迎えるべく、スツールやイーゼルが用意されていた。
    ぐるりと部屋を見渡しながらソファに腰を下ろした月島の眼に留まったのは、ソファの端に無造作に置かれていたスケッチブックだった。開いてみれば、そこには街の至る所の風景が切り取られていた。
    アーケードの途切れた商店街、営業しているのかも解らない写真館、坂道から見下ろした海。どれも見慣れた街の、見知った場所だと一目で解った。
    スケッチブックに描かれた風景は、どれも温かみのあるもので、壁に掲げられた海の絵とは随分と趣が違って見えた。
    大きなキャンバスに描かれた海の絵は、どれも深い藍色をして、どこか物悲しい雰囲気の作品ばかりだ。じっと見詰めていると、海の底に沈んでしまいそうな、そんな感覚を覚えさせる。
    確かにそれは美しい絵だが、ひんやりと冷たい手触りのするようなその絵より、スケッチブックにある温かみのある絵を好ましく思い、月島は壁から目を逸らして再び手元のスケッチブックに視線を落とした。
    頁をくっていくと、その中にはカドクラ額縁画材店が描き止めてあり、月島の店に続く細い階段が、其処だけ別に描かれていた。
    更に捲った頁の先には、月島の店の中と思しきラフなスケッチもみられた。
    音之進が店にスケッチブックを持ってきたことは無い筈だから、恐らくは記憶を頼りに描いたものだろう。それでも、店の雰囲気そのままに描かれていて、月島はじんわりと胸の温もるような思いがした。
    一度、店にスケッチブックを持ってきてはどうか。そう提案してみようとした矢先、生徒たちがアトリエに顔を見せ始め、月島は声を掛けるタイミングを失ったまま、その日の教室が始まった。

    結局、月島はその日、教室の時間中、ずっとそのソファに留まっていた。生徒らに指導をしながら、クロッキー用の鉛筆を走らせる音之進の姿から目が離せなくなったのだ。
    絵を描いている音之進のその顔は、美しかった。
    美しい青年だ。と、初めて会ったその日に、そう思った事を思い出した。
    「またいつでも来てくれ。」
    帰り際、そう声を掛けて来た音之進に、月島は頭を下げて帰った。

    「興味はあるのですが、通うのは難しそうです。」
    後日、店に来た音之進に月島がそう告げると、音之進は「何故だ?」と端的に問いかけた。
    問題は、時間なのである。
    先日、見学に行けたのは午前に食品衛生講習があり、店を休んでいたからだ。定休日は水曜だが、仕込みや仕入れもある。日中の決まった時間に通い続けるのは、どう考えてみても難しいのだ。
    包み隠さずそう話すと、音之進は黙ったまま、少し俯いて、それからパッと顔を上げると「それなら、夜はどうだ」と声を上げた。
    「もし本当に絵に興味があるなら、仕事の終わった後の時間でもいい。」
    「しかし、それは…」
    「決まった曜日が難しければ、思いついた日だけでもいい。描きたいと思ったら、その日に連絡をくれれば、それなら…」
    珍しく、饒舌になった音之進は、然しそこでハッとして急に口を閉ざした。
    「っ…すまない…勝手に、話を進めて…」
    「いえ…」
    「っ私は…どうせ、ずっと、あの家に居るのだから、月島さん、さえ、良ければ…」
    俯き、途切れ途切れに零す音之進に、月島は自身の心臓がトクトクと跳ねる音を聞きながら、すぅ、とゆっくり息を吸った。
    「…嬉しいです。」
    口から漏れたのはその一言だった。
    「…嬉しいですよ。とても。」
    柔らかに微笑む月島に、音之進はホッとしたように笑ってみせた。
    「…っじゃあ」
    「お邪魔しても、いいですか?」
    月島がそう告げると、音之進は笑みを深くして「勿論だ」と声を上げた。

    月島は、絵など描いたことは無い。
    学生の頃に、授業で仕方なく描かされたことはあるが、自分で描きたいと思って描いた絵などないのだ。
    興味を持って、美術館に足を運ぶような人間でも無かった。
    けれども今、絵を描いてみたいと思っているのは確かだった。

    何が描けるのか、何を描きたいのかも解らなくても。
    描いてみたい。描きたい。という思いだけは、確かだった。















    #4 来し方 ・ 音之進


    海が見える街へのこだわりなど、本当は無かった。
    ただ、元居た街から逃げたかった。それだけだった。
    真面目な兄は、我儘な弟の為によく働いてくれた。十三の歳の差がそうさせるのかも知れないが、其れだけでは無い。
    兄・平之丞が一般に比して余りに過保護で、殆ど音之進に掛かりきりなのには訳がある。画商と画家だからというのでもない。
    平之丞はそうだと指摘しても認めることは無いが、少なくとも音之進はそう思っている。

    兄が変わる切欠になったその日の事を、音之進は、よく覚えている。
    いいや、覚えているのではない。
    忘れたくとも、忘れられなかった。忘れられる筈がなかったのだ。
    平之丞は未だ大学生で、音之進は八つだった。

    その日は雨だった。
    何処にも行けないと退屈していた所に、当時近所に住んでいた、音之進の幼馴染・杉元佐一が訪ねて来た。二人は音之進の家で遊んでいたのだが、雨が止んで晴れて来ると、外で遊ぼうという話になった。
    公園に行きたいと平之丞に告げると、平之丞は子供だけでは危ないと止めたが、近所のいつも遊びに行く公園に行くだけだというと、それならと認めた。
    後で自分も行くからと言う平之丞に見送られ、音之進は杉元と二人で公園へ出掛けた。
    そんな事は当時よくある事で、特段、変わった事など何処にも無かった。音之進も杉元も、いつも通り。何の心配も、警戒もしていなかった。
    だから、という訳では無かっただろう。本当に偶々、運が悪かったと思いたい。いつも通り、公園で遊んでいた二人は、公園にある木の高い所まで上がっていた。
    そんな事をするつもりは無かったのだが、二人で遊んでいると、見知らぬ男に声を掛けられたのだ。
    男は、しつこかった。逃げても、逃げても、二人を追って来るのだ。未だ8つであった二人は、次第に恐ろしくなった。
    家に帰ることも考えたが、着いてこられるのは厄介な気がして子供である二人は高い木の上に逃げることを思い付いた。
    木登りは初めての事では無い。何度も上ったことのある場所だった。ただ、その日は雨上がりで遊具や木の幹の至る所は濡れたままだった。
    杉元は一度、危ないかもしれないからと音之進を止めたが、知らない男に捕まるよりはいいだろうと音之進は杉元の言葉を聞かなかった。音之進が上に上がれば、杉元もそれにあとからついていくしかない。
    暫く上から様子を見ていると、諦めたのか、公園を出て行く男の姿が見えた。木の上から其れを確認して「降りよう」と言ったのは杉元だった。音之進がその声に頷くと、先ず先に杉元が木を降りた。そこまでは良かったのだが、其れまでだった。
    杉元に続いて降りようと音之進が足を掛けた枝が折れ、音之進はそのままバランスを崩して落下した。下に居た杉元は、当然に其れを庇おうとしたのだ。上から降って来る音之進を受け止めようとして直撃を受けた杉元は倒れ、平之丞が公園についた時には二人は折り重なるようになって意識を失っていたという。
    音之進は落下の衝撃で片足を折り、左の頬に傷を作った。そして杉元も、骨こそ折らなかったが、降ってきた枝が削いだものか、その顔に大きな傷を作った。
    音之進の傷は、時間と共に癒えたが、杉元の傷は、今でもその顔に残っている。
    「お前を護った名誉の負傷だよ。」
    杉元はそう言って笑うが、音之進は少しも笑えなかった。平之丞にしても同じことだ。
    あの時、自分が一緒に行っていれば。と、平之丞がそう零すのを聞いたことがある。
    もし、あの場に平之丞が居れば、杉元の顔に傷を作らずに済んだかもしれない。或は、そもそも、木に登る必要さえなかったかもしれない。
    考えた所でどうしようもない話だが、それでも、今でも考えてしまうのだ。恐らくは、平之丞も。考えてしまうからこそ、弟に甘くなるのだろう。
    事故以来、音之進は以前のように活発に外で遊ぶことはしなくなった。代わりに、絵を描き始めた。
    運ばれた病院で入院中に渡されたスケッチブックに窓から見える海を描いたのが最初だった。
    絵を描いている間は、何も考えずにいられた。
    ただ、目の前の絵に集中して、他の事は一切考えずに、思うままにペンを走らせることが出来た。
    絵を描いている間だけは、違う世界に居られるような気がしたのだ。平之丞も、杉元も居ない一人きりの世界で、ただ、絵と向き合っていられるその時間が、音之進にはかけがえのないものになった。
    真っ暗な海は、何もかもを呑み込んでくれるようで、音之進は、祈るような気持ちで絵を描き続けた。
    それからずっと、音之進は海の絵を描き続けている。
    音之進が部屋にこもりがちになると、平之丞は、決まっていた就職先を断って、予定より早く父の跡を継ぐと言い出した。
    画廊の経営に携わるようになり、休みの日には、音之進の傍を離れようとはしなかった。
    杉元は事故の後も変わらず音之進の幼馴染として、以前と同じように、それ以上に、音之進の傍に居るようになり、何処へ行くにも、必ずついてきた。さながら護衛のようだと揶揄われても杉元は笑っていた。
    気付けば、音之進が何処へ行くにも、何をするにも、傍らに、平之丞か、杉元か、或は二人が居るのが当然になっていた。
    けれども、平之丞に守られる度、杉元が笑う度、音之進の胸は痛んだ。
    平之丞からも、杉元からも、何もかもから逃げ出してしまいたくなって、海の見える場所に越したいと言ってみたのだ。
    一人で飛び出すことも考えたが、子供の頃のトラウマか、どうにも一人きりで行動するのが恐ろしくてならないのだ。今もどこかで、あの公園に居た男が見張っているのではないかというあり得ない妄想に囚われそうになる。
    杉元や平之丞が居れば、そんな不安はなくなるのだが、二人が、或はどちらかが居なければ、出歩くことさえままならない自分が堪らなかった。
    そうして、音之進は思うのだ。杉元にしても、同じトラウマは或る筈だと。自分が居る限り、杉元はそのトラウマに囚われることになる。それが何より堪らなかった。離れていれば、顔を見ることも無くなれば、何れは、その傷は癒えるだろうか。顔の傷が、徐々に薄れていったように。いつかは。

    そう考えて、生まれ育った街を離れて一年になる。
    杉元からは、相変わらず連絡がくるが、音之進はそれに殆ど返事をしていない。
    離れるべきだと思っての行動なのだから、繋がっていては意味がないのだ。本当は、連絡も絶つべきだったのかしれないとも思うが、其処までは出来なかった。
    引っ越すと告げた時の杉元の顔が、余りに切実で、とてもではないが、そんな事は言えなかった。
    「どうして…」
    そう零した杉元が、濁した言葉尻の先に何と言おうとしたのか、怖くて聞けなかった。聞いてしまったら、一生、この街から出られなくなるような気さえした。
    一生、杉元から、離れられなくなるような、そんな気がしたのだ。
    だからこそ、この街に移ったのだが、当初は、杉元から逃げるように街を離れたのは間違いだったかと思うこともあった。一人では街へ出るのも躊躇われて、最初の三か月はアトリエに籠ってばかりだった。
    ある時、ふと家の前から見ていた海を、間近にみてみたくなって散歩に出てみると、誰も知った人の居ない街というのは随分と気楽に歩けるものだと気付いた。
    散歩の途中で出くわす土地の人は、誰も音之進の事など気にも留めない。時折、犬を連れた老人が、すれ違いざま、申し訳程度に頭を下げていく。
    散歩を続けるうち、微かな潮の香りのする静かな街は、街そのものも、人も穏やかで、徐々に音之進の心を解した。
    やはり、この街へ来て良かったのだ。あの街を、離れるべきだった。杉元から、離れるべきだった。
    何れは、兄からも離れなければならない。
    それには、未だ随分と時間が掛かりそうだけれども。いつかは、一人で生きていけるようにならなければ。
    そう思い始めた頃、カフェオレを切欠に、月島の店を初めて訪れた。
    それから、一人で月島の居る珈琲店に向かい、珈琲を飲み、豆を買って帰るようになった。
    それが出来るようになったのは、この街と、月島のお蔭だろうと音之進は思う。
    月島の何に惹かれているわけでも無い。
    ただ、傍に居れば落ち着くのだ。兄や杉元と居る時とは違う安心感が月島にはあった。
    そのままの自分でいられるような、そんな感覚の理由など、少しも解りはしないのだけれど。



    #5 柵


     「相変わらずのようだな」
     店に入るなり、そう言って笑ったのは、久しぶりに店に顔を見せた菊田だった。
     「お蔭様で。」
     答える月島の口元は笑含んでいる。
     「コスタリカを貰えるか?」
     カウンターに座って菊田がそう伝えると、月島はチラと菊田へ視線を送ってから「ペーパードリップでいいか?」と問うた。
     「あぁ、任せるよ。」
     菊田の返事に返事をすることなく、月島はペーパーフィルターを手に取り、ドリップの用意を始める。
     コスタリカは豊かな香りと甘みが特徴だ。『珈琲 月』では中煎りにして豆を中細挽きにして提供する。
     ネルドリップを指定された時は中挽きにするが、ペーパーを用いるなら中細挽きの方が好ましい。
     ゆっくりと湯を落として珈琲を淹れる間、菊田は何を語ることもせず静かにカウンターで珈琲を待った。
     菊田が店を訪れる時はいつもこうだ。
     前触れもなく現れ、昔語りをすることも無い。ただ、変わりはないかと尋ね、月島の淹れる珈琲をゆっくりと味わって、帰って行く。
     月島は、菊田が来ると決まって2杯分の珈琲を淹れ、菊田と同じ珈琲をカウンターの内側で飲み、菊田に何を訊ねるようなこともせず、見送るのだ。
     ただ、それだけがこの一年続いていた。
     抽出された珈琲をカップに注いで、カウンターに置くと、菊田は「ありがとう」と零してカップに口をつける。菊田が「美味いな」と漏らすその声を聞いてから、月島が自分のカップに口をつけるのがいつもの流れだ。そこから先に会話は無い。
    けれどもその日、菊田は珈琲を二口飲んだところでカップを置いて口を開いた。
    「近頃、楽しそうだな。」
    思いもかけない一言に、月島は驚き目を丸くした。
    「楽しそう?俺がか?」
    「あぁ。そんな風に見える。」
    愉快そうに、菊田は笑う。
    「何か、いい出会いでもあったか?」
    伺うように視線を送られた月島が、その時思い浮かべたのは音之進の姿だった。
    自身でそれに動揺しながら、然し月島は平静を装って「何も無いさ」と静かに答えた。
    「出会いなんて、なくていい。」
    投遣りなわけでは無い。
    心からそう思ってこの街に越してきたのだ。この先は、独りで生きていくのだと、そう決めていた。
    その筈だというのに、何故、よりにもよって、その人の姿が浮かんだのか。
    「そうか?何かあったかと思ったんだがな。」
    残念そうにそう零すと、菊田はカップの残りを煽って「そういえば」と思い出したように呟いた。
    「この前、あの娘を見かけたよ。」
    あの娘。
    菊田が、誰を指してそう言うのか、月島には直ぐに解った。菊田がそう言って、自身に報せて来る相手など、一人しか居ないのだ。
    「お友達かしらねぇが、どこぞのお嬢さんと楽しそうにしてらしたぜ。」
    何の感情も籠っていない、平板な声で菊田は言う。
    「あっちはお幸せそうなんだ。お前さんが幸せになったって罰は当たらないと思うぜ。」
    余計なお世話かもしれねぇけどな。
    自嘲気味にそう零した菊田に、返す言葉を思案するうち、階下から賑やかに上がってきた門倉に思考を遮られた。
    「マスター!悪い、お勧めの珈琲3つ用意してもらえねぇか?」
    「銘柄はどうされます?」
    「マスターのお勧めに間違いなんてねぇから。任せるよ。後でキラウシに取りに来させるから!」
    言うだけ言って嵐のように去っていく門倉に呆気にとられる菊田を他所に、月島は小さく笑って豆の選別を始めた。
    「悪いな。話は、また今度だ。」
    月島が小さく零すと、菊田は諦めたように「どうやらその様だ」と息を吐いて肩を竦めてみせた。
    「また来るよ。」
    そう言って、出て行く菊田の背中を見送りながら、月島はそっと息を吐いた。

    ***

    月島の店を出た菊田が階段を降りると、丁度そこに通り掛かったらしい青年に呼び止められた。
    「すいません。」と聞こえた声に振り返れば、キャップを目深に被った青年が其処に居た。
    「この辺りに、アトリエがあると聞いたんですが、御存じありませんか?」
    菊田にそう訪ねて来る青年は整った顔をしていたが、その顔には面相の良さを霞める程の大きな傷があった。
    「悪いな。俺はこの街の住人じゃないんだ。そこの画材屋か、上の珈琲屋で聞けば解るかもしれないぜ?」
    菊田がそう答えると、青年は「そうですか」と小さく零し「ありがとうございます。」と頭を下げた。
    「珈琲、嫌いじゃないなら飲んで行きなよ。美味いよ。此処の珈琲。」
    菊田の言葉に顔を上げた青年は、ちらと二階に目を遣ると「行ってみます。」と答えて、再び頭を下げると二階へ続く階段を上がり始めた。
    近頃此方へ越して来たのだろうか。この街にあるアトリエに通うなら、ついでに月島の店にも寄ってくれるようになればいいが。
    そうすれば、いずれまた、あの青年と月島の店ですれ違うこともあるかもしれない。
    そんな事を思いながら、菊田は駅前の駐車場までの道をゆっくりと歩いた。
















    #6 逢瀬


    毎週金曜、店を閉めたその後に、月島が音之進のアトリエを訪ねるようになった。
    決まって、週に一度、アトリエに通い、二人だけで絵に向き合う時間は特別なものだった。
    学生時代以来、絵を嗜んだ事は微塵も無いという月島に音之進はまず画材の説明から始め、デッサンの基礎を丁寧に教えた。
    その内に、音之進が月島を「月島」と呼ぶようになったのは先生と生徒なのだから。と言う月島の言葉に従ってのことだ。最初の内は躊躇っていたが、ひと月もすれば呼び名にも慣れた。

    センスが良いのか、月島は呑み込みが早く、基礎を教われば黙々とデッサンを続けるようになった。
    アトリエに二人きりでいるのは2時間にも満たない間のことだが、毎週、決まって過ごす同じ時間が、次第に二人にはかけがえの無いモノになっていった。
     
     「何か、描いてみたいものはあるか?動物とか、風景とか…」
     月島のデッサンを見ながら音之進がそう問い掛けると、月島は一度「特に…」と呟いてから「いえ」と自身の言葉を打ち消した。
     「描いてみたいものは、あります。」
     「なんだ?あるなら、其れに取組んだ方が…」
     「しかし…その…」
     「言うだけ言ってみてくれ。何を描きたい?」
     音之進が身を乗り出すようにしてそう問い掛けると、月島は「然し…」と躊躇ってから、音之進の期待の眼差しに気圧されて漸く口を開いた。
     「…あなたを…」
     「あな、た?」
    「…音之進さんを、描きたいです。」
    躊躇いがちに告げられた言葉に、音之進は暫し絶句して、それから目を泳がせた。予想もしていなかったのだ。自身を描きたいと言われるだなどとは、思ってもみなかった。
    「…そう、か。」
    「…はい。」
    今は未だ、描けないと思うけれど。と続ける月島に音之進は「そうか。…そうだな。」と短く零し、月島と視線を合わせられないまま「…私、を、…どんなふうに、描きたいんだ?」と問い掛けた。モデルの経験は無いが…という言葉は余計だったかもしれない。
    「…絵を描いているあなたを、描きたいです。」
    聞こえたその言葉に音之進が顔を上げると、真直ぐに見詰める月島と眼が合った。
     「絵を描いているあなたが、素敵だから…。」
     描けるとは、思えないんですけれども。
     ぼそりと呟き、俯いた月島の手元を見ると、鉛筆を持つ手は固く握られていた。
     本当に、描きたいと思ってくれているのだろう。
     そう、思わせる手だった。
     「…私も、月島を描きたい…」
     音之進がそう呟くと、月島は俯いた顔を再び上げた。
     「珈琲を淹れている月島は、素敵だから…」
     真直ぐに月島を見詰めてそう言う音之進に、月島はぎゅう、と、心臓の痛むような気がした。
     
     互いを描く様になると、二人は次第に互いの事を話すようになった。相手の姿を描き止めるうちに、もっと、と思うようになったのだ。もっと、相手の事を知りたいと。表に見えているだけではない、その内側を知りたいと。思うように、なってしまった。

    二人だけのアトリエで、互いに絵を描きながら、口にするのは過去ばかりだった。
    月島にしても、音之進にしても、語るような未来など持っていなかったのだ。その時は。
    二人に在るのは、過ぎ去った過去と、穏やかで平坦な現在だけだった。

    「大事な人が居たんです。」
    最初に、そう口を開いたのは月島だった。
    如何して、いつからこの街に住むようになったのかと問うた音之進に、月島はそう呟いた。
    「大事だと思っていたんですが、よく解らなくなって。其れまでの全部が虚しくなって、この街に逃げて来ました。」
    逃げて来た。と、月島は確かにそう口にした。
    「…恋人、だったのか?」
    「いいえ、ただの、幼馴染です。」
    月島の声は、酷く冷静なものだった。
    「…その人を、好きだったのか?」
    「…さぁ、どうでしょう。」
    その言葉には自嘲が混じっていた。
    「本当に大事だったのか、彼女を、好きだったのか、俺には今でも解りません。」
    ペンを走らせながら、月島は独り言のように話し続けた。
    「大切だった筈なんですが、そうだとしても、もう、どうしようもないんです…。」
    淡々としたその語り口には諦めが滲んでいたが、其処に未練は感じられなかった。
    「結局、縁が無かったのだろうと、今は、そう思っています。」
    静かに告げられた言葉に、音之進は「そうか」と短く零した。
    「この街の、お蔭かもしれません。そう思えるようになったのは。」
    独り言のように漏れ落ちた言葉は月島の本音だろう。
    「穏やかで、いい街ですよね。何もないけれど。俺は、気に入っているんです。この街。」
    静かなその声に、音之進はふと鉛筆を止めて顔を上げ「私も」と呟いた。
    「いい街だと思う。」
    きっぱりと告げた言葉の向うで、月島は鉛筆を止め音之進を真直ぐに見詰めて来た。
    見詰めて来るその眼は、深い海の色をしていた。














    #7 兄


    鯉登平之丞が「珈琲 月」を訪ねたのは、或る晴れた土曜の午後だった。
    窓際の席に居眠りをしている門倉の姿があるのを認めてから、平之丞はカウンターの隅に腰を下ろした。
    「何になさいますか?」
    そう言って差し出されたメニューを見る事無く、平之丞は決まって「月島さんのお勧めで」と言う。門倉の常套句だが、平之丞はいつからか其れを真似るようになった。以前は自分で選んでいたのだが、門倉に言わせると「素人が好みで選ぶより、マスターに任せた方が間違いなく美味い珈琲が飲めるだろ」ということらしい。確かにそれはその通りだと思えてそうしてみると、自分の知らない銘柄を愉しむことも出来るようになった。
    「では、ペルーにしましょう。サイフォンで用意します。」
    月島はメニューを下げながらそう言うと、カウンターに備え付けられたガス管に火を灯した。
    ビーカーに湯を注ぎ、深煎りを中挽きにした豆を入れたサイフォンをセットする。
    湯が沸き上がると、サイフォンの中で豆が舞い上がり、見る間に透明な湯が琥珀色に染まって甘い香りが拡がっていく。ほんの数十秒沸騰させ、火を止めると琥珀がビーカーの中に落ちていった。
    「どうぞ。」
    カップに注がれた琥珀に口をつけると、ナッツのような風味を感じられるのがペルーの特徴だ。
    軽めのコクと程よい酸味、まろやかな苦みのあとには甘みが拡がる。深煎りでもサイフォンで淹れたモノは、仕上がりが軽やかになる。苦みの強い銘柄が苦手な平之丞にも、飲みやすい一杯だ。
    「…美味しいな。やっぱり。」
    「ありがとうございます。」
    平之丞の言葉に、照れるでもなく月島は礼を告げ、思い出したように「今日は、豆は宜しいんですか?」と問い掛けた。
    平之丞は来る度に豆を買っていたものだから、月島はそう聞いたのである。
    「あぁ、そうですね。そろそろ…」
    言われた平之丞はそう零したが、然し直ぐに「いや、やっぱり止めておきましょう。」と自身の言葉を取り消した。
    豆が未だ余っているのか、前回のモノは好みでは無かったか。月島がそう考える内に答えは容易に知れた。
    「音之進が、此処に来るのを楽しみにしているようだから…音之進に任せることにします。」
    さらり、と、平之丞はそう言うのである。
    『音之進が此処に来るのを楽しみにしている』
    その言葉に、月島は少なからず動揺して「…そう、ですか。」と、そう答えるのが精一杯であった。
    平之丞は月島の動揺に気付いたものか、薄く笑うとゆっくりとカップを傾け「絵は、順調ですか?」と静かに問い掛けた。音之進のアトリエに月島が通っている事は平之丞も承知なのだ。
    「…なかなか、上手くは、なりませんが…」
    言葉を選んで月島がそう答えると、平之丞は「楽しんで描けているなら、それでいいんですよ。」と笑ってみせたが「楽しむのが、一番です。」と重ねられた言葉は、何処か切実な響きをしていた。
    「音之進も、最近は楽しんで描いているようです。」
    「…以前は、そうではなかったと?」
    聞こえた言葉に月島が思わずそう問い返すと、平之丞は持っていたカップをソーサーに戻して真直ぐに月島を見た。
    「海の絵を、見ましたか?」
    静かに問う平之丞の言う『海の絵』というのは、壁に掛けられたあの絵の事を言うのだろう。
    「…えぇ。」
    「どう、思われました?」
    平之丞の眼は、声は、真剣なモノだった。
    「正直に、仰ってください。」
    「綺麗だけれど、暗く、寂しい絵だと…」
    「…そうですか。」
    言葉尻を濁した月島に、平之丞は落胆するでもなく、ただ、ありのままに言葉を受けとめ、納得したような、何処か寂しそうな顔をしていた。
    月島は、特段あの絵が嫌いなわけでは無い。苦手というのでもない。ただ、見ていると哀しみが迫ってくるようで、ただ、ただ、哀しくなるのだ。
    「私は、音之進さんのスケッチの方が好きです。」
    フォローをしようとしたわけでは無い。
    月島は、音之進のスケッチをこそ、好ましく思っていた。切り取られた風景は何れも温かで、その空間を、街を、慈しむ眼で写し取られたモノのように思うのだ。
    そして、そうした絵こそが、音之進の本質のように思えてならなかった。
    暗く、冷たい海の底には、柔らかく、温かな音之進の本質が眠っているような、そんな気がするのだ。
    絵の事など、何も解らないというのに。
    月島にはそう思えてならなかった。
    「私もです。」
    聞こえた声に顔を上げると、平之丞は涙を堪えるような顔をしていた。
    驚く月島に、平之丞も不味いと思ったのだろう。誤魔化すようにカップを煽ると、ふぅ、と息を吐いて「私も、音のスケッチが好きです。」と呟いた。
    「音之進の絵は、随分変わりました。この街に来てから、だいぶ柔らかくなった。」
    視線を落とし、手元を見詰めながら、平之丞は何かを確かめるように呟いた。
    「月島さんと知り合ってからは、一際。」
    嬉しさと、寂しさの、綯交ぜになったような、そんな声だった。
    「月島さん。」
    薄く笑みをして平之丞は月島の名を呼んだ。
    「弟と…音之進と、出逢って下さって、ありがとうございます。」
    そんな風に言ったら、重いですね。
    誤魔化すように平之丞はそう言って笑ったが、その言葉は、いつまでも、月島の耳に残った。













    #8 柵Ⅱ


     「杉元君?」
     『珈琲 月』の階段を降りたところで出くわしたその青年に、平之丞は思わず声を掛けた。
     声を掛けられた青年はふと脚を止めると、目深に被っていたキャップをほんの少し上げて顔を見せ、諦めたように小さく息を吐いた。
     「お久しぶりです。平之丞さん。」
     大きな傷のあるその顔に薄く笑みをして、青年…杉元佐一は平之丞に向き直った。
     「…音之進に、会いに来たのかい?」
     僅かに緊張の籠った声で平之丞がそう問い掛けると、杉元は瞬きを一つして、小さく首を横に振ってみせた。
     「そう、じゃないけど…そうですね。そうかもしれません。」
     呟く杉元の真意を測りかねてか、平之丞は暫し難しい顔をして黙っていたかと思うと「杉元くん」とその名を呼んで微笑んだ。
     「音の絵を、見てみるかい?」
     「絵を…でも、それじゃぁ…」
     「アトリエは、ちょうど子供たちが来ている時間だから見せてあげられないけど、画廊にも幾つか作品があるから。」
     暗に、それならば音之進と顔を合わせずに音之進の今を報せることが出来るとした平之丞の意図が伝わったものか、杉元は黙ったままでこくりと頷くと、平之丞と並んで画廊へと続く道を歩き始めた。
     『珈琲 月』から平之丞の画廊、もとい、音之進のアトリエまでは徒歩10分少々の道程だ。緩やかな坂道を道なりに進めばその先の高台に、ぽつんと一軒だけ建っている建物が目に飛び込んでくる。
     そう長くは無い道のりではあるが、道中、平之丞と杉元は互いに何を話すこともしなかった。
    顔を合わせるのは凡そ一年ぶりだというのに、二人はただ黙々と歩き、やがて画廊までたどり着くと賑やかに声のするアトリエを見遣った。
     アトリエへは画廊からも上がれるようになっているが、通常は外階段を使う。入口が別に設けてあるのは幸いなのか、杉元は音之進と顔を合わすことなく画廊へと足を踏み入れた。
     控えめな照明の画廊の中には音之進以外の作家の作品も多く置かれていたが、画廊の中の一区画には、音之進の作品が集められていた。
     子供の頃から音之進が描き続けている海の絵だ。
     そのどれもが、暗く、重い色調の静かな作品なのだが、中に一つだけ、色調の違うものがあった。
     同じ海の絵には違いないのだが、淡い藍色に、深い碧が潜むようなり、海の上には眩しく輝く月が鮮やかに浮かんでいた。
     「…これ…」
     「つい最近仕上がったばかりのモノなんだ。」
     平之丞が静かにそう告げると、杉元は「そうですか」と低く零して、その絵をじっと見詰め続けた。
     目に焼き付けるように絵を見詰め続ける杉元に、平之丞が「会って行かないのかい?」と声をかけると、杉元は漸く絵から目を逸らして、ちらと画廊の二階に視線を送った。
     防音の所為か、上階の音は外に居た時ほど聞こえては来ないが、上階に音之進が居るのは確かなのだ。階段を上がれば、つい一年前まで、殆ど毎日見ていた幼馴染の顔が見られる。けれども…
     「止しておきます。」
     杉元は、そう答えてキャップを被り直すと「俺が来たことは、音之進には言わないでやって下さい。」と言って平之丞に背を向けた。
     「杉元君」
     出て行こうとする杉元の背中に、平之丞が声を掛けたのは衝動的なものだった。
     「音は、変わったんだ。この街に来て、変われたんだよ。」
     平之丞の言葉に、杉元は振り返ることなく画廊を出て行った。
     一人残された平之丞は、しんと静まった画廊に深く息を吐くと「何を言っているんだ、俺は…」と独り言ちた。





     

    #9 交差

     
    窓際の席で居眠りをしていた門倉が背伸びをしてカウンターに移って来たのは、平之丞が店を出て暫く経ってからだった。
    店の中には門倉と月島の二人きりである。
    「マスター。目覚めの一杯を頼む。」
    半分寝たような顔をして、しゃがれた声でそう言う門倉に月島は小さく笑って「わかりました」と答えた。
    ペーパーフィルターをセットして、豆を物色する。
    手に取ったのはマンデリンだった。インドネシア産のその豆は、確りとした苦みとコクがある代わりに、酸味は控えめで、ハーブやシナモンにも似たスパイスのような風味が特徴だ。
    深煎りを中細挽きにしてペーパーフィルターで淹れた一杯はボディの強い重めのものに仕上がるが、嫌でも目は覚めるだろう。
    「…こいつは効くなぁ…」
    出されたカップに口をつけた門倉は渋い顔をしてそう零したが「だが、美味いっ」と言葉を添えてちびちびと珈琲を味わった。
    「マスターも、絵を習い始めたんだってな。」
    門倉がポツリと零したのは、カップの中身を半分ほどにしたころだったろうか。
    「…描けてはいませんが…」
    月島がそう答えると門倉は「描こうと思うだけいいさ。」と嘯き「俺なんざ、画材屋だのに描こうとすら思えねぇからな」と笑った。
    「でも、絵の良し悪しくらいは解るぜ。一応な。」
    ぼそりと零されたその呟きに月島がぴくりと反応すると、門倉は月島を見ないまま、独り言のように話しを続けた。
    「俺は、あの子の絵は嫌いじゃねぇんだ。」
    あの子。とは、音之進の事だろう。
    「だが、見てると辛くなるんだよ。助けてくれーって声が聞こえてきそうでな。胸が締め付けられる。」
    思い浮かぶのは、音之進の海の絵だ。
    「それがイイって奴が大半だが、俺は、そんなのより、あの子が最近、手慰みに描いてる落書きみてぇな、そういう絵の方が好きなんだ。そんな絵が描けるなんて驚いた。今まで、見たこと無かったからな。」
    ちびちびと珈琲を口に含みながら門倉はちらと月島を見遣った。
    「マスターのお蔭だったんだなぁ…」
    「っ…私の?」
    「だってそうだろう?さっき平之丞さんもそう言ってたじゃねぇか。」
    「!?さっきの…聞いて…」
    驚き、声を上げかけた月島の声を止めたのはカラリと鳴ったドアの鈴だった。
    「っ…いらっしゃいませ」
    入ってきた客に慌てて声を掛けると、そこに佇んでいたのは少し前にも一度店に来たことのある青年だった。目深に被ったキャップに隠された顔には、大きな傷がある。月島は、その傷を覚えていた。
    窓際の席に座った青年はメニューを手に取ると、暫くそれを眺めてから「すいません」とカウンターに声を掛けた。
    「キリマンジャロを、サイフォンで。」
    「かしこまりました。」
    注文を受けて、準備を始める月島に、門倉は「兎に角」と唐突に声を上げてカップの残りを飲み干した。
    「マスターはずっと此処で美味い珈琲淹れててくれよ。そんで、あの子に良い絵を描かせてやってくれ。」
    頼んだぜ。と言い置いて店を出て行く門倉に、月島は答えようも無く、ただ、呆気に取られて見送るしかなかった。

    あの子に。音之進に。
    良い絵を。

    描かせてやれるものなら、なんだって…。そう思いかけて、一体何が出来るものかと、月島はまたため息を吐いた。








    #⒑ 逢瀬Ⅱ


     誰かの事を、知りたい、と、こんなにも思ったことがあっただろうか。
     誰かに、自分の事を知ってほしい、と、思ったことがあっただろうか。
     月島はアトリエに通う度に、少しずつ、少しずつ、自分の事を話した。とは言え、どれも大した話では無い。故郷のこと、嘗ての仕事の事、珈琲の事。話せるのは、そんな事くらいだ。音之進は、静かに月島の話を聞いていることが殆どだった。
     「私にも、幼馴染が居る。」
     音之進がそう零したのは、月島が自身の幼馴染の話をして暫く経ってからの事だった。
     「私の、唯一の友人だ。」
     「では、此方にも?」
     「いいや。私からは連絡もしていない。」
     音之進は静かにそう告げると、鉛筆を走らせていた手を止めてイーゼル越しに月島を見遣った。
     「逃げたんだ。」
    音之進は、月島が先日漏らしたその言葉を使った。
    「住んでいた街からも、幼馴染からも…本当は、兄からも逃げたいくらいだった。」
    静かなその声は、然し決して感傷的な響きを持たず、淡々と過ぎた日を月島に語った。
    見知らぬ男に声を掛けられたこと、幼馴染と一緒に逃げたこと、その後の事故のこと…。
    言葉を選びながら、音之進は訥々と自身の過ぎた日を語り続けた。
    事故のとき自分を庇った幼馴染に傷の残る怪我をさせたこと、外に出るのが怖くなってしまったこと、其れが元で、兄の将来を変えてしまったこと。
    それから、絵を描くようになったこと。
    誰にも打ち明けたことの無かったその全てを、淡々と語っていく音之進のその声を、月島はただ黙って聞き続けた。
    「絵も、同じだ。」
    音之進はそう呟く。
    「難しい事を考えるのが嫌で、目の前の事から逃げる為に絵を描き始めたんだ。」
    鉛筆を持つ手は、強く握られていた。
    「8歳のその時から、私は、ずっと…」
    「…逃げても、いいじゃないですか。」
    俯きかける音之進に、月島はふとそう漏らして声を遮った。
    「逃げなければ、あなたが壊れていたのかも知れない。だから、逃げてよかったんです。」
    月島の声に、音之進は俯きかけていた顔をゆっくりと上げて月島を見た。
    「どんなきっかけでも、あなたが絵を描き始めてくれて、よかった。」
    そう告げた月島は、強張っていた頬を僅かに緩めてぎこちなく笑っていた。
    「…あなたが絵を描き始めていなければ、俺は、絵を描こうなんて思うことは無かったでしょうし…あなたとも、出逢えなかったかもしれない…だから…」
    「…月島…」
     音之進の声に、月島はハッとして我に返ると「すいません」と零して俯き「今日は、帰ります。」と慌て身支度を始めた。
    「…月島っ」
    慌しくアトリエを出ようとする月島の背を追うように声を上げた音之進は、立ち止まった背中が振り返るその前に声を漏らした。
    「…私は…っ」
    けれども、その先は声にはならなかった。
    言葉は喉元まででかかっているのに、如何しても声にならず。為す術も無くただ立ち尽くす音之進に、月島は静かに振り返ると「また来ます。」と零してそのままアトリエを出て行った。
    アトリエに一人きりになった音之進は、呆然と立ち尽くしたまま、自分が今、何を口走りそうになったか。其れを思って、動けなくなっていた。

    「…わたしは…」







    #⒒ 刹那


     その日、音之進が月島を訪ねたのは、午後の早い時間だった。昼を過ぎたその時間は他の客も少なく、静かな時間を過ごせるのだ。
     『珈琲 月』に居る間は、月島も、音之進も口数は少なく、以前と同じように静かに珈琲を飲むだけだ。アトリエに居る時のように話すことはない。
     誰にも話せなかったようなことを、互いに話したその後も、その時間は変わらなかった。ただ、何を口にしなくとも『互いの秘密を共有している』その事実が、音之進にも、月島にも、特別なモノになっていた。
     ただ、其の『特別』がなんであるか、音之進も、月島も、気付いてはいなかった。
    或は、気付かない、ふりをしていた。気付いてはいけない、とも思っていた。
    もしも気付いてしまったら、二人の大切な時間は、二人の『特別』は、消えてなくなってしまうような気がして。其れが如何しても、受け容れ難かった。

    いつもと変わらない、静かな木曜の午後だった。
    その筈だったのだが、カラリと鈴の音をさせて、その人が店に現れた瞬間、店の空気が変わった。ような気がした。
    少し癖のある豊かな緑の黒髪が目を惹く女だった。
    「…ちよ…。」
    月島が零したのは、その女の名だったろうか。
    「…久しぶりね。少し、話がしたくて。」
    にこりと笑ってそう言う女に、音之進は黙って席を立った。
    「音之進さん…っ」
    カウンターに座る『ちよ』と呼ばれた女と入れ違いに店を出て行く音之進を呼び止めた月島は、階段を降り掛かる音之進を追ってその腕を掴んだ。
    驚いたのは音之進だけではない、月島は、自身で自身の行動に驚いて、音之進の腕を掴んだまま硬直してしまった。
    何を、如何するつもりだったのか。如何して、そんな行動をとってしまったのか。月島は自身で混乱しながら、必死に伝えるべき言葉を探した。
    「…っ…すいません…その…」
    しかしいくら探しても言葉は見つからず、途方に暮れかかる月島に音之進は小さく笑ってみせた。
    「あの人なんだろう?月島の幼馴染。」
    音之進の問いに月島が「はい」と頷くと、音之進はやんわりと自身の腕を掴んでいた月島の手に自身の手を重ねた。
    「話を、してみるといい。」
    月島の手は温かく、重ねられた音之進の手は冷えていた。
    「…きっと、大丈夫だ。」
    静かにそう告げる音之進の言葉にほだされるように、月島はそっと音之進の腕を掴んでいた手を離した。
    「…じゃぁ、また。」
    「…はい。」
    月島の返事を聞いて、ゆっくりと階段を降りた音之進は、階段を降りきると二階を振り仰いで小さく息を吐いた。
    一体なにが、大丈夫だというのだろう。
    その先を考える前に、聞こえてきた声に思考は遮られた。
    「鯉登。」
    その声は、確かに自分を呼ぶ声だった。
    振返ったその先に、待っているのが誰なのか、確かめるまでも無い。
    「…杉元…」
    呆然とその名を呼んだ、その相手が、幼馴染が、其処に立っていた。
    「お前に、話したいことがあるんだ。」
    真直ぐに目を見てそう告げてくる杉元に、音之進は瞬きを一つして「あぁ」と答えた。
    「私も、お前に話したいことがある。」










    #⒓ 幻 ・ ちよ



    階段を上ると、月島はドアの脇の看板をCLOSEにして店に戻った。
    ドアを開けた先には、幼馴染のちよがいる。
    ちよとこうして顔を合わせて、話をするのは何年ぶりだろうか。
    「どうして、此処を?」
    転居は知らせていなかった筈だった。
    「菊田さんに、教えて貰ったの。」
    ごめんなさい。勝手な真似をして。そう言って眉尻を下げたちよに、月島は「いや…」と答えながら、先日ちよを見掛けたと言っていた菊田の事を思い出した。
    「どうしても、一度、基ちゃんと話がしたくて…だから、菊田さんを、責めたりしないで?」
    菊田を責めるつもりはない。ただ、田舎に居た頃は大人しい娘だった幼馴染のその行動力に驚いていた。都会へ出ることもせず、田舎街から嫁いでいった筈の幼馴染は、いつの間に、知らない女になっているような、そんな気さえした。この女は、本当に、自分の知っているちよだろうか。
    「いいお店ね。基ちゃんらしい。」
    ぐるりと店内を見渡してそう言うちよの「らしい」というのが月島には、よく解らなかった。
    「…珈琲は、飲めるのか?」
    「もちろん。」
    「好きな銘柄は?」
    「詳しくはないから、基ちゃんに任せるわ。」
    わかった。と答えた月島は、ネルをセットしてドミニカの豆を手に取った。
    ドミニカは酸味や苦みもマイルドで柔らかな香りが特徴のすっきりとした飲み口の珈琲だ。中煎りを粗びきにしてネルドリップで淹れれば、深みは増して、口当たりはより一層まろやかな味わいになる。
    「…美味しい。」
    差出されたカップに口をつけ、そう零したちよの口元には笑みが浮かんでいた。珈琲は、どうやらちよの口に合ったらしい。月島はその事にホッとしながら、思い切って口を開いた。
    「…ちよ、…」
    話というのは、一体なにか。
    其れを問う前に、ちよは笑んでいた口許を引締めて「ずっと考えていたの。」と唐突に話を始めた。
    「基ちゃんのこと、ずっと考えていたのよ。」
    悪戯な子供のように、ちよは小さく笑って、それから「基ちゃん」と月島を真直ぐに見詰め、少しも予想しなかった一言を口にした。
    「私ね、好きな人が出来たの。」と。
    告げたちよの顔は、晴れやかだった。
    「好きな、人…って…」
    動揺も明らかな月島に、ちよは笑う。それは御主人ではないのかと聞きたいが、聞ける雰囲気ではなく、そして恐らく、その相手は別の誰かだと察しはついた。
    「好きな人が出来て、考えるようになったの。基ちゃんとのこと…」
    薄い笑みをたたえたまま、ちよは言う。
    「ちよ、俺は…」
    「友達だったのよ。」
     月島の声を遮って、ちよははっきりとそう言った。
    「私たちは、幼馴染で、親友だった。」
    柔らかな笑みをして、そう繰り返すのだ。
    「もしかしたら、恋人になれたかもしれないけれど、でも、なれなかった。」
    ちよの言葉に嘘は無かった。
    「本気でなろうとは、しなかったでしょう?」
    そう言われてしまっては、違う、とは言えなかった。
    「…だから、それまでなのよ。」
    ちよは、ずっと笑っていた。
    「本当に好きだったら、どうしたって触れたいもの。」
    「ちよ、お前…」
    慈愛に満ちた、酷く穏やかな笑みだった。
    「…今、幸せか?」
    そう問うた月島の声は、微かに震えてしまったようだったけれども、ちよが笑みを崩すことは無かった。
    「ええ。とても。」
    微笑むちよに、月島はそれ以上何も聞けなかった。
    「…だから、基ちゃんも幸せになって。」
    楽し気に笑って、そう告げた千代は珈琲を一口飲み下すと「さっきの…キレイな子ね」と、思い出したようにそう呟いた。
    「私の事、変に誤解させちゃったらごめんなさいね。」
    「あの子は、そんな…」
    「基ちゃん。」
    月島の言葉を遮った、ちよはその顔から笑みを消していた。
    「私の好きな人はね、花枝子さんって言うの。」
    聞こえたのは、女の名だった。
    「主人の従妹よ。」
    その顔に笑みを取り戻して、ちよは続ける。
    「主人のことも大好きよ。でも、彼女の事を愛しているの。」
    愛している。その言葉を口にするちよは美しかった。
    「大切にしたいと思っているわ。」
    美しく、強い、女の顔をしていた。
    「…ちよ…お前…」
    「基ちゃん。」
    知っている、幼馴染が其処に居た。
    「自分の気持ちに、正直に生きて。」
     ちよは笑ってそう告げると、カップの残りをキレイに飲み干した。
























    #⒔ 幻 ・ 佐一


    一年ぶりに見る幼馴染のその顔には、変わらない傷痕があった。
    アトリエまでの道を少し距離を開けて歩く最中、音之進は何度となくその傷を見ては目を逸らし、随分と躊躇ってから漸く口を開いた。
    「傷が、痛むことは無いのか?」
    其の問いは幼い頃から何度となく繰り返したものだ。
    「無いっていつも言ってるだろ?本当に心配性だな、お前は。」
    「…すまない…」
    「いいけど。」
    俯く音之進に杉元は笑い、開いていた距離を詰めて音之進の隣に並んで歩き始めた。
    「この街での暮らしは如何だ?」
    「…悪くない。いい街だと思う。」
    「そうか。…だからだな。」
     だから、というのが何を指すのか。計りかねて音之進が杉元を見遣ると杉元は前を向いたまま呟いた。
     「前に、一度、画廊を訪ねたんだ。」
     そんな話は、聞いた覚えが無かった。
     「平之丞さんに、絵を見せて貰った。」
     一体いつ、杉元が訪ねて来て、兄は如何して其れを黙っていたのか。考えるうちにも杉元は話を止めなかった。
     「さっきの店『珈琲 月』だっけ?あの店にも行ったんだ。それは、偶々だったけど…お前に連絡もしないで、勝手なことをしたのは謝るよ。悪かった。」
     「っ…そんなことは…」
     「雰囲気、少し変わったな。」
     ポツリと零して、杉元は其処で脚を止めた。
     「前より、絵が明るくなったな。」
    「そう、か?」
    「うん。前のもいいけど、今のが好きだ。」
    「…ありがとう。」
    穏やかに、今の絵が好きだという杉元に戸惑いながら礼を言うと、杉元は笑みを深くして「鯉登」と音之進を呼んだ。
    「あの人か?」
    「?あの人…って…」
    「さっきの、喫茶店のマスター。」
    「…月島が、どうかしたか?」
    「呼捨て?」
    「月島が、そう、呼べというから…」
    「そっか…。月島さんって言うんだ…」
    「杉元?」
    噛み合っているようで、はっきりとしないその会話に音之進が眉根を寄せると、杉元は笑みを作り直して音之進の正面に向き直った。
    「あの人の所為かな?って。鯉登の絵が変わったの。」
     音之進を見詰める杉元の瞳は澄んでいた。
    「絵、だけじゃないな。鯉登も、ちょっと雰囲気変わった。前より柔らかくなった。」
    「っそんな、ことは…」
    「あるよ。」
    否定しようとする音之進の言葉をすぐさま打ち消して、杉元は笑っていた。
    「お前だって、解ってるんだろう?」
    笑ってそう言う杉元に、どんな言葉を返せただろう。
    「…月島さんに、感謝しなきゃな…」
    零れた杉元のその声には、何処か、寂しさが滲んでいるように聞こえた。
    「鯉登…」
    音之進を見詰める、その眼差しにも。
    「…あの人が、好きなんだろ?」
    「…そん、な…」
    「多分、あの人も、お前の事が好きだと思う。俺には解るよ。」
    少しだけ背の高い杉元を見上げる鯉登の頬は、柔らかな陽に照らされていた。燈色に染まるその頬には、薄らと幼い頃の傷が影を作る。杉元のように傷は残りはしなかったが、それでも淡く影を残した其の傷痕の名残を見詰めながら、杉元は静かに告げた。
    「俺は、お前が好きだからさ。」
    海から上がってきた風が、ざぁと音を立てて吹くと、微かな潮の香を運んできた。
    「…知ってる。」
    風の切れ間に落ちた音之進の声は、消え入りそうなものだった。
    「なんだ。バレてたか。俺は解りやすいもんな。」
    泣き出しそうな音之進に、杉元は笑っていた。
    「っ…杉元、私は…」
    「だから俺に縛られてたか?」
    「そんなんじゃ…」
    「そうだよ。」
    杉元は、ハッキリとそう言い切った。
    「俺が、縛り付けてたんだ。」
    鯉登に、何をも言わせないように。
    「もういいって言いながら、お前が俺に詫びる度に、俺はこの傷がある限り、お前と繋がって居られるって、そんな風に思ってた。」
    漏れる強い声には、自嘲が混じる。
    「今日だって、お前の顔を見るまでは、俺の事忘れてないかって、そんな事を言おうとしてた…でも間違いだって気付いた。…気付けて、良かった…。」
    「…杉元…。」
    「この傷は、好きな奴を守った自慢の傷だ。」
    「っ…杉元、私は…」
    「お前を縛り付けておくための飾りなんかじゃない。そうだろう?」
    笑っていた筈の杉元の顔は、気付けば歪んで、泣き出しそうになっていた。
    「だからさ、そんなにつらそうな顔しないでくれよ。」
    音之進は、自身がどんな顔をしているのか少しも解らなかったが、きっと杉元と同じような顔をしているのだろう。そう思えた。
    「なぁ、鯉登。俺は、お前に笑ってて欲しいんだ。其れだけなんだよ。」
    杉元のその声は、柔らかに音之進の心臓を撫でた。
    「月島さん、いい人そうじゃん。あの人なら、大丈夫だと思う。」
    よく、わかんねぇけど。
    泣き笑いの顔をしてそう言った杉元を、幼馴染を見上げる音之進の頬には、透明な雫が走った。
    杉元は其れを見ないふりをして「笑っててくれよ。」と繰返した。
    その声は、祈りにも似た響きをしていた。







    #⒕ 月


    その晩、月島は音之進のアトリエを訪ねた。
    連絡もせずドアを叩いた月島に、音之進は驚きながら何処かホッとして月島を迎え入れた。
    「夜分に、すいません…」
    「…いや、構わないが…」
    「…どうしても、今日の内に、話がしたくて。」
    やっと、という風にそう声を漏らした月島に、音之進は瞬きをひとつして「あの人は…?」と問い掛けた。
    昼間『珈琲 月』ですれ違った、月島の幼馴染。その人の事を問うたのだ。不躾が過ぎると思えたが、聞かずには居られなかった。
    「帰りました。」
    端的にそう答えた月島は、音之進の躊躇いなど気付いた様子も無く、視線を落とし、慎重に言葉を選びながら話を続けた。
    「好きな人が出来たと、そう言っていました。相手は勿論、俺じゃありません。」
    その声に、悲嘆は滲んでいなかった。
    「言うだけ言って、俺に、正直に生きろと言って帰っていきました。」
    ただ淡々と、起った事柄を告げるだけの平板なその声は、いつか聞いた過去を語る、その時の声音に似た響きを持っていた。
    「だからという訳ではありません…けれど…漸く、解ったんです…解ったら、じっとして居られなくて…」
    その先を言い淀んだ月島の声の色が変わったのは「音之進さん」とその名を呼んだ、その先だった。
    「俺は、貴方が好きなようです。」
    告白は、ストレートなモノだった。
    「その…恋愛の、意味で。」
    補足するように付け加えられたその言葉を、音之進は黙って聞き続けた。
    「あなたが、好きです。」
     繰り返されたその言葉は、するりと胸の内に落ちて、音之進の内側に小さな漣を立てた。
     真っ暗だった海に、小さな波が連なっていく。
    その波を照らしているのは、中空に浮かぶ月だったろうか。
    「…私も…」
    音之進は呟く。
    「私も、そう、なのだと、思う…」
    目の前に立つ月島を見詰めながら、遠くに居る幼馴染を思いながら…
    「昼間、幼馴染が訪ねて来たんだ。」
    声は、自然と溢れて来た。
    「私の絵が、雰囲気が変わったと言われた。」
    兄や、画商たちにも言われたことだ。けれども…
    「それは月島さんの所為じゃないかと。そう、言われた。」
    そうはっきりと指摘したのは、杉元だけだった。或は、平之丞は、気付いていたのかも知れないけれど。
    「…言われて、やっとわかった。」
    如何して、そんな簡単な事を、今まで声に出来なかったのかと、不思議に思うくらい。言葉はするりと音之進の口に上り、淡い響きをしてその場に落ちた。
    「…私は…」
    いつからだかは解らない。
    「ずっと、月島の、傍に居たい。」
    けれども、気付けば、好きになっていた。
    「月島に、傍に、いて欲しい…。」
     そう、願うようになっていた。
    「月島が、好きだ。」
    真直ぐな告白と共に頬を伝った雫は、ぽたりとおちて月島の胸に沁みていった。
    「…鯉登さん…」
    名を呼び、一歩を踏み出した月島は手を伸ばすと、そっと音之進の頬に触れて、雫の名残を拭った。
     「…嬉しいです…」
     静かにそう零すと、月島は頬を撫でたその手で、音之進を抱き寄せた。
     「…嬉しいです。とても。」
     「…私も…嬉しい。」
     抱きしめた身体は余りにも暖かで、月島は泣きたいような気持になった。







    #⒖ 太陽


    朝を迎えたアトリエの窓の向うには、海から昇る陽が眩しく見えた。
    抱き締めた身体も、繋いだ手も放し難く。結局アトリエのソファで朝を迎えてしまったが、ただ抱き合って共に過ごした一晩は酷く安らかな時間だった。
    夢と現の境は朧で、眠っていたのか、ずっと起きていたのかも曖昧だ。
    けれども、気分は悪くなかった。
    窓の向こうに見る海のように、心は凪いでいる。
    「珈琲が飲みたい」
    そう、零したのは音之進だった。
    「キッチンを、お借りしても?」
    「それでもいいが…」
    「うちの店まで、いきますか?」
    「…うん。」
     短く会話を交わして、階段をゆっくりと降りていくと、窓越しより一層鮮やかに朝日を浴びた海が見えた。
    朝の空気はシンと冷えていて風が吹けば身震いがする。
    いつまでも海を見ていたいような気分にもなったが、それでは、風邪をひいてしまうだろう。
     「いきましょう。」
     声を掛けた月島は、其れが当然のことのように音之進に手を差出していた。音之進は、其れに戸惑わなかったといえば嘘になるが、それでも、差し出された月島の手を取って『珈琲 月』までの道程を歩いた。
     早朝の街は未だ眠ったままで、商店街が近付いても人の歩く姿は見掛けられなかった。
     結局、誰ともすれ違わないまま店に辿り着いた。月島は、鍵を開けるその時まで音之進の手を離そうとはしなかった。
     灯りをつけてカウンターの内側に入ると、月島はサイフォンを用意して、モカ・マタリの豆を手に取った。
     モカ・マタリはモカの中でもイエメン産の最高級品を指す。甘みとコクがあり、さわやかな香りと、果実味の強い酸味が特徴の豆だ。サイフォンで仕上げれば、軽やかに仕上がり、香りが引き立つ。
    「いい香りだ。」
    「気に入りましたか?」
    「うん。」
    「味も、気に入って頂けるといいんですが。」
    カップを差出す月島に、音之進は小さく笑って「気に入らない事なんてないと思うぞ。」と呟いた。
    「月島の淹れてくれた珈琲を、気に入らなかったことはないだ。」
    カップに口をつけた音之進は「ほら」と零して「やっぱり、月島の淹れた珈琲は美味しい。」と笑った。
    月島は、笑う音之進を、愛おしい。と思った。
    毎日、こうして、笑う顔をみられたら、と。
    「…音之進さん」
    「うん。」
    「あなたの、好きなモノを教えてください。」
    「好きなモノ?」
    「食べ物でも、絵でも、本でも、なんでも…」
    唐突に話し始めた月島の声を聞きながら「なんでも」と音之進は口中で繰返した。
    「知りたいんです。もっと、あなたのこと。」
    互いに、過去の話ばかりをしてきてしまったから。過去ではなく、これからを、過ごすために。
    「…私も、知りたい。月島のこと。もっと。」
    「…はい。音之進さん…、これから…」
    「なんだ?もう、店開けてるのか?」
    二人の会話を遮ったのは、パジャマ姿にブルゾンを羽織った門倉だった。
    灯りが着いているのを見付けて、階下から上がってきたのだろう。寝惚けた顔をしていたが、勘は鈍くないのか、門倉は「やべ」と小さく零すと頭を掻いた。
    「…悪い…邪魔、しちまったな?」
    そう言って後退りをする門倉に吹き出したのは音之進だった。
    其れを見て月島も笑みを零すと「お勧めでいいですか?」と門倉に向き直った。
    吹き出す音之進も、笑う月島も、門倉はその時初めて見た。
    初めてみるその顔に、門倉は驚き、自分まで幸せになったような気になって「参ったな」と嘯きながら、「お勧めをお願いします。」と言って窓際の席に腰を下ろした。
    『珈琲 月』の店内は、穏やかで、温かな空気に満ちていた。
     窓の外では、ゆっくりと眠っていた街が目覚め始めていた。
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    fujimura_k

    PAST2023年12月発行『喫茶ツキシマ・総集編』(番外編部分)
    月鯉転生現パロ。喫茶店マスターの月島と作家の鯉登の物語。総集編より番外編部分のみ。
    喫茶ツキシマ 総集編(番外編)例えば
    こんな穏やかな日々が
    この先ずっと

    ずっと
    続いていくなんて

    そんな事があるのでしょうか。

    それを
    願っても、いいのでしょうか。


    ***


    図らずも『公衆の面前で』という派手なプロポーズをして以来、鯉登さんは殆ど俺の家で過ごすようになった。
    前々から昼間は大抵店で過ごしてくれていたし、週の半分近くはうちに泊っては居たのだけれど、其れが週四日になり、五日になり、気付けば毎日毎晩鯉登さんがうちに居るのが当たり前のようになっている。
    資料を取りに行くと言ってマンションに戻ることはあっても、鯉登さんは大抵夜にはうちに帰って来て、当然のように俺の隣で眠るようになった。
    ごく稀に、鯉登さんのマンションで過ごすこともあるが、そういう時は店を閉めた後に俺が鯉登さんのマンションを訪ねて、そのまま泊っていくのが決まりごとのようになってしまった。一度、店を閉めるのが遅くなった時には、俺が訪ねて来なくて不安になったらしい鯉登さんから『未だ店を開けているのか』と連絡が来た事もある。
    19591

    fujimura_k

    MOURNING2022年5月発行 明治月鯉R18 『鬼灯』
    身体だけの関係を続けている月鯉。ある日、職務の最中に月が行方を晦ませる。月らしき男を見付けた鯉は男の後を追い、古い社に足を踏み入れ、暗闇の中で鬼に襲われる。然し鬼の姿をしたそれは月に違いなく…
    ゴ本編開始前設定。師団面子ほぼほぼ出てきます。
    鬼灯鬼灯:花言葉
    偽り・誤魔化し・浮気
    私を誘って

    私を殺して


     明け方、物音に目を覚ました鯉登が未だ朧な視界に映したのは、薄暗がりの中ひとり佇む己の補佐である男―月島の姿であった。
    起き出したばかりであったものか、浴衣姿の乱れた襟元を正すことも無く、布団の上に胡坐をかいていた月島はぼんやりと空を見ているようであったが、暫くすると徐に立ち上がり気怠げに浴衣の帯に手を掛けた。
    帯を解く衣擦れの音に続いてばさりと浴衣の落ちる音が響くと、忽ち月島の背中が顕わになった。障子の向こうから射してくる幽かな灯りに筋肉の浮き立つ男の背中が白く浮かぶ。上背こそないが、筋骨隆々の逞しい身体には無数の傷跡が残されている。その何れもが向こう傷で、戦地を生き抜いてきた男の生き様そのものを映しているようだと、鯉登は月島に触れる度思う。向こう傷だらけの身体で傷の無いのが自慢である筈のその背には、紅く走る爪痕が幾筋も見て取れた。それらは全て、鯉登の手に因るものだ。無残なその有様に鯉登は眉を顰めたが、眼前の月島はと言えば何に気付いた風も無い。ごく淡々と畳の上に脱ぎ放していた軍袴を拾い上げて足を通すと、続けてシャツを拾い、皺を気にすることもせずに袖を通した。
    54006

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